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この本丸には堀川国広は存在しない

 その日は見事な秋晴れで、それを見た審神者は特別に明日一日休みにしようと告げた。
 それに大いに喜んだのは短刀達だ。普段から元気一杯なのは変わらないが今日はいつにもまして騒がしい。
 夕食が終わった後、堀川は鯰尾にこっそりと呼ばれると頼みたいことがあると言われた。どうやら粟田口は彼らだけでどこか遠足に出かけるらしい。昼飯は一期が頼んでいたが鯰尾はそれだけでは不満だったらしく堀川にお弁当を作ってくれないかと頼み込んできたのだ。
 それを快く承諾した堀川は皆が夕食を食べ終わって誰もいなくなった厨に鯰尾と共に向かった。お弁当にいれて貰いたいおかずを楽しそうに口ずさむ鯰尾と一緒に厨の冷蔵庫を開けた。万屋にしょっちゅう誰かしら買い出しに出掛けているこの本丸では冷蔵庫が空になることはなく、食材も豊富だ。
 鯰尾が期待するミートボールやオムレツ、ハンバーグなどのおかずに必要な具材が揃っていることを伝えると素直にやったーと両手を上げて喜ぶ。
「今日の夜に色々と仕込みはするけど、作るのは明日の朝にするからね。朝食が終わったら厨に顔を出してくれる?」
「そりゃもちろん!」
 片手で丸を作ると何か手伝った方がいい?と聞く鯰尾に首を横に振る。あまり厨に居すぎては他の短刀達も気にしてやってくるかもと言えばそそくさと厨から鯰尾は撤退した。鶴丸ではないが、彼も人を驚かすのが好きな方だ。微笑ましくそれを眺めた後、包丁を手に取り料理の下拵えを始めた。
 半刻ほど時間が立ったとき、厨の引き戸ががらがらと引かれる。短刀達はそろそろ兄である一期に寝かし付けられる時間である。一体誰がこの厨に来たのだろうと顔を上げると、宗三左文字が薬缶を手に立っている。
「お茶ですか?」
「えぇ。最近は夜が冷えるでしょう?
 そのせいか温かい飲み物が欲しくなるんですよ」
 そう言って手際よく薬缶に水をいれるとここいいですか?と聞きながらも空いているコンロの上に置かれる。薬缶の水がお湯になるまで宗三はその場で待つつもりのようだ。堀川は棚の中にある誰かが買った包み菓子を三個手に取ると、盆にのせる。
「良かったら、どうぞ」
「夜に間食するのはあまり良くないと言われているんですけどね」
 いらぬお世話だったかと堀川がすみませんと謝ると、宗三は間が悪そうな顔をする。
「なんでしょうねぇ……別に揶揄したり捻くれようとはしてはいないのですがどうもこう身内にしか素直になれなくて」
「ああ、僕も経験がありますよ」
「あなたもですか」
 意外そうな表情で宗三が堀川を見る。それに苦笑してええと頷いた。思いのほかうまくやれていると堀川自身も思ってはいるが、まだどうも同じ刀派である山姥切と山伏の二人を兄弟と呼べていない。二人とも自分が山姥切さん、山伏さんと他人行儀で呼ぶたびにあからさまに肩を落とすのを見て、申し訳なくなる思いをしつつもまだ兄弟と呼ぶには心の踏ん切りがつかなかった。
「なるほど、私が言うのもなんですが、無理をする必要もないのではないでしょうか」
 薬缶の水はまだ沸かない。堀川は宗三の気遣いに素直にありがとうございます、と返すと作業に戻った。
 てきぱきとミートボールやハンバーグの種を混ぜ合わせて、適当な形にするとそれを冷蔵庫に入れる。明日、これを取り出してすぐに焼けばいい。鯰尾は肉系のおかずばかりを希望していたが、それではバランスが悪いと、簡単な総菜作りをしようとレシピを見ていると薬缶からピィーと音が鳴るようやくお湯が沸いたようだ。
 お盆に置いた急須に茶葉を入れて、なみなみとお湯を注ぐと宗三は戸を引き厨を出て行こうとしたところでああそうだと振り返った。
「明日、近くの神社でですね、秋祭りがやっているそうですよ」
「秋祭り」
「お菓子のお礼です。私達も、明日は昼にそこへ行こうと思っているので」
 私達、と宗三は少し強調するように言って、今度こそ厨から出ていった。恐らく兄弟ででかけるのだろう。無理をする必要はないと言っていたくせに、仲良くなるためのきっかけを巻いていくのは確かに天邪鬼他ならない。
 料理本を置くと頬を一つ叩いてよしと気合を入れた。

◇ ◇ ◇

 まるで神隠しみたいだよね。
 そう唐突に話し出したのは加州であった。
 厨の隅を借りてザクロを切っていた堀川はその意味が分からず包丁を持つ手を止める。それに対して堀川の横に立つ大和守が切ったばかりのザクロを手に取り、加州の言葉を補うように説明する。
「僕も堀川も最後がわからないじゃん」
「ああ、そういうこと」
 ようやく加州の言っていることがわかって、手に持った包丁でもうひとつザクロを半分に切る。その切ったばかりの半分とスプーンを加州に渡すと彼はありがとと言ってその実をスプーンで掬うと躊躇いなく口の中へと放り込んだ。
 よく熟したザクロの実は赤い宝石のようで綺麗だと思う。この実の見た目を嫌いだという人も多いが、新選組の刀達は気にせず食べるため他の刀から大量に押し付けられたのだ。最初は長曽祢や和泉守も誘って昼食後のデザートとして食べていたが、それでも減る量は三つでこのままでは食べきるよりザクロが腐る方が早い。ということで最近は三人で稽古や畑仕事などが終わった後にこうして厨に集まってザクロを食べるのが日課になっていた。
 午後2時。おやつには早くて、昼食をとるのには遅すぎるそんな時間帯の厨は堀川達以外には誰もいない。ザクロを手に近くの縁側に三人仲良く腰を下ろして、ザクロを黙々と食べる。
「けど、なんでいきなり神隠し?」
「短刀達がこの前かくれんぼしててさぁ、この前人数が足りないからって数合わせに入れられちゃったんだけどその時に今剣がかくれるのがうまいのなんのって。
 あまりにも見つからないから神隠しにあったんじゃないかって短刀達が泣き出しそうになった時に今剣が帰ってきてさ、なんて言ったと思う」
 大和守と目を合わせて首を横に振ると、加州は今剣の声真似をして「きのうえでひるねをしてしまいました、だってさ」と言う。その声真似に大和守が無言で拳を握る。
「いや、なんでお前殴ろうとしてんの?」
「なんかムカついたから?」
「いや、意味がわかんないし」
「お前が言うとなんか胡散臭く思えるんだよね」
 かわいくないと大和守が言うと加州が不貞腐れたように口を突き出す。可愛くないは加州にとっては禁句の一つだ。急下降していく加州の機嫌に堀川は慌てて、話を変えた。
「今剣くんはどこで寝てたの?」
「それがさぁ、中庭の木で寝てたっていうんだよ」
 中庭には今落ち葉がたくさんいっぱい落ちている、赤や黄色に染まった広葉樹も多くあり、いまのつるぎの身軽さであれば木の上に隠れることなど造作もないことだと思った。 とはいえ、木の上で寝ていたというならいくら今剣が小柄であろうと気が付かないはずはない。加州自身、木の上に隠れてないか何度か確認したというのだ。
「不思議だよね」
「っていうか一番不思議なのは休みなのにどこにも行かずここでいつもの面子でいるのにも僕は驚きだよ」
 大和守の言葉にまた加州の機嫌が悪くなる。堀川もそうだねと苦笑いでそれには返すしかない。
 休みだというのにも関わらず新選組の刀達はいつもと変わらぬ日常を過ごしていた。別に何も用事がなかったわけではない。現に加州は本来であれば万屋に買い物に行き、新作の爪紅を買う予定だったのだ。しかし、あいにく万屋は定休日。
 故に秋晴れの良い休みにも関わらず、部屋でゆっくり休んでいる刀達は意外と多い。例外粟田口の兄弟と左文字の兄弟だろうか。朝早く鯰尾は堀川の手作り弁当を手に、遠足に出かけてしまった。もう昼頃を過ぎたので弁当は食べ終わった頃だろう。帰るのは夕方だと言っていたから、普段あれだけ騒がしい粟田口の兄弟が揃っていなくなると本丸は物静かで少し寂しく思える。
 左文字兄弟も昼前には本丸を出ていった。宗三の言葉通り秋祭りのやっている神社に行くのだろう。浦島が彼らを羨ましそうに見ていたのを覚えている。
「あーあ、俺も遊びにいきたーい」
「じゃあ、遊びに行く?」
 愚痴るように加州が言うのに、堀川は思わずそう笑いながら聞くと次の瞬間にはがしりと両肩を掴まれた。右側を加州、左側を大和守が掴みながら、その目はどこか楽しそうにきらきらしている。
「行く行く!」
「僕も!僕も連れてってくれるよね!?」
 話の食いつきように驚きながらも、連れて行くよと返して秋祭りのことを二人に話す。お祭の言葉に二人ははしゃいで早速準備しなくちゃと早々に立ち上がるとばたばたと走って行く。その騒がしくて変わらぬ二人の仲の良さに目を細めながら堀川は一人笑うのだった。

 秋祭りへ向かうのは新選組の馴染の五振りに加えて、蜂須賀と浦島、歌仙となった。浦島が左文字の兄弟を羨ましそうに眺めていたのを思い出して誘ってみれば案の定すごい勢いで話に食いついたのだ。浦島の蜂須賀兄ちゃんも一緒に行くよね!と笑顔で聞かれれば蜂須賀も頷かずにはいられなかった。歌仙は和泉守の部屋を訪れた際にいたので、一緒にどうですかと誘ってみたところ二つ返事で頷いた。
 かくして八振りは秋祭りが行われている紅葉の山々に囲まれた神社へと訪れたのであった。どこからともなく聞こえてくる祭囃子の音に、みなどこかわくわくとした表情をしていた。あちらこちら出ている屋台に人々が楽しそうに語らいながら歩いたり、立ち止まって綺麗に赤く染まる葉を見上げる。それは刀達も同様であった。
「長曽祢兄ちゃん、蜂須賀兄ちゃん、あれ見て、あれ!」
 はしゃぐ浦島に手を取られて蜂須賀が雑多の中に消えていく。その後ろを苦笑いしながらも微笑ましく見ているのは長曽祢だ。長曽祢兄ちゃんと浦島がもう一度大声で呼べば、長曽祢はそちらの方へと歩いていく。
 大和守も美味しそうな匂いに連れられて屋台の方へふらふら歩いていくし、歌仙も風流だねと言って紅葉を見上げる。このままでは虎徹兄弟のように皆散り散りにみるのは目に見えている。
「どうする?」
 加州がそわそわとしながら堀川を振りかえった。彼も彼で気になる何かを見つけたのだろう。ちらりと屋台のある方へと目をやりながら、それでもここではぐれたらまずいと思っているようだ。
「大和守と一緒に行動してくれる?出発する前に話してた通りの時間に神社の前に集合してくれればいいから」
「わかった!」
 そう元気よく返すと大和守の首根っこ掴んで颯爽と人混みの中へ混ざっていった。
 残ったのは兼定の二振りと堀川のみ。振り返れば和泉守が歌仙の一張羅の羽織を掴み、屋台を指している。
「なぁ、二代目あれで勝負しねぇか」
「しょうがない子だね」
 和泉守が指す先には的屋がある。弓兵を扱うことのない和泉守にとってそれは少し魅力的に見えたらしい。歌仙はやれやれというように肩を下げながらも和泉守が持ちかけた勝負を受けるらしい。
「国広、勝負みとけよな」
「わかったよ兼さん」
 にかりと強くてかっこいい流行りの刀が笑う。勝負は五分五分。慣れぬ弓に二人は最初は苦戦しつつも、一度まっすぐに矢を放つことを覚えれば狙った獲物を落とすまでそう時間はかからなかった。
 大きなくまのぬいぐるみやお菓子の箱を両手一杯に抱えながら堀川はにこにこと和泉守と歌仙の勝負を見届ける。的屋で勝負がつけられなければ、今度は水風船、型抜きなど次々と屋台の遊びを移りながら勝負を続ける二人は存外負けず嫌いのようだ。
 普段であれば堀川のもつ袋の多さに歌仙が気づきそうなのに勝負に白熱する二人の視界に堀川は入っていないようだ。
 仲良しだなぁとその証拠を抱えて堀川が輪投げに一興を投じている二人の背を見ながら微笑むと「堀川殿」と声をかけられる。
「江雪さん」
 小夜と江雪、そして呆れたような顔で宗三が二振りの兼定の背を見ている。
「これはあの二人が取ったんですか?」
「ええ。どうやら白熱しているみたいで……。あ、何か欲しいものがあれば持っていってください」
 元々、勝敗をつけるのが目的で取った賞品を気にもかけていない二振りだ。いくらか失くなったところで気づきもしないだろう。小夜が選びやすいようにしゃがみ、手に持っている物を説明するとおずおずと小夜が水色と桃色の風車を選ぶ。小夜の兄の髪色だと気づくと自然と頬が緩んだ。
「重そうですしね。これ、頂きます」
 あまりの荷物の多さに宗三は持つのが大変だろうと大きな菓子箱を手に取る。江雪も宗三と同じように菓子袋を取るとありがとうございますと礼をする。
「いえいえ、こちらこそ助かりました」
「あまりにも荷物が多そうになったらやめろと叱るのも必要ですよ」
 宗三の言葉に堀川は苦笑いする。こうなるまで何度か口にしようと思ったのだが、あまりにも楽しそうな二振りに水を差す気にはなれずそのままにしてしまっているのだ。
 宗三はため息を吐いてもう二、三個袋菓子を持とうとするのを目を丸くさせると私たちはもう帰りますからと言う。
「あのありがとうございます」
「別に頂くものは頂いてますからね」
「それだけじゃなくて、秋祭りをおしえてくれたことです」
 実は夕方からは兄達と祭りを回る予定なんですと伝えれば、宗三はそうですかと少しだけ嬉しそうに言う。
「頑張ってください」
「はい!」
 小夜と江雪が首を傾げているのに宗三は内緒の話なのでと言って小夜の両手を兄達が手に取り山を下っていく。人付き合いがうまくできないと言っていたが、宗三の付き合い形はただただ不器用であるだけだなと思う。本丸に来て一ヶ月の刀がそれに気づくのだから、他の刀はもう気がついてるに違いない。
 仲の良い兄弟と仲の良い仲間達を見て堀川はこれなら問題なさそうだと一人呟いた。

 神社の前で皆集まるとまずは堀川の両手に抱えられた商品に目をやった。そしてやりすぎたと頭を抱える歌仙と歌仙がとうとう根を上げ勝敗を勝ち越すことに成功した和泉守は自慢気な表情をしているのに気付くと、すぐに何が起きたか察したようだ。
 堀川は小夜にしたように浦島と蜂須賀にも欲しい賞品があれば持っていくように伝えると二人とも感謝を告げて二、三個菓子を持ってくれた。加州と大和守は遠慮なく欲しいものを持つと和泉守にやりすぎ、祭り荒らしかと囃し立てる。残ったほとんどは長曽根が持ち、堀川が持つのは大きいぬいぐるみと赤と青の風車だけとなった。
「国広、それ貸せ」
 和泉守が大きなぬいぐるみを堀川の手から奪うとすかさず加州と大和守が指を指して笑う。あの鬼の副長の本差しが大きなくまのぬいぐるみを両手で抱っこしているのだ。不機嫌になる和泉守を歌仙がなだめる。
「堀川はここに残って兄弟を待つ予定なんだよね」
「ええ。夕方に待ち合わせしたんです」
「じゃあ、先に帰っているから。あまり遅くならないように帰ってくるんだよ」
 蜂須賀がそう言って他の刀の背を叩いて歩き出す。どうやら祭りの効果はあったらしく少しだけ虎徹の打刀達の距離が近く雰囲気が柔らかい。こっそり浦島が堀川の方に振り向くと手を振って、それから握り拳を作る。
 それに手を振って返す。浦島から秋祭りに兄弟だけで過ごせるようにして欲しいと打診が合ったのは秋祭りに行く道すがら、自然と一番最後尾に堀川と浦島が並んだ時のことだった。立場や問題は違えど、兄弟と仲良くしたいという浦島の気持ちは堀川にはよくわかったから二つ返事で彼の提案を受け入れた。
 握り拳はそっちも頑張ってねという意味だろう。それに堀川は少しだけ緊張して空を仰ぎ見た。
 空は徐々に薄暗くなってきており、一つ一つと赤い提灯に明かりが灯っていく。まわりの喧騒も少しだけ落ち着いて、からころと下駄の音が鳴り響く。
「堀川」
 見慣れた二人が揃って階段を登ってくる。それに震える指を背の後ろに隠すと、堀川は笑って二人を出迎えた。

◇ ◇ ◇

「壮観であるなぁ」
 陽が完全に落ちると提灯の赤と照らされる紅葉の光景に山伏が感嘆の息を吐く。山姥切も少なからずその光景に心を奪われているようで、黙ったまま山伏の言葉にこくりと頷いた。それに嬉しくなった堀川は二人の手を取り、昼間歩いている間にチェックしたおすすめの場所へと二人を連れて行く。
 赤い紅葉の木の下で稲荷寿司をの入った箱の紐を加えた狐の象に、山伏と山姥切に型抜きをしてみようと誘ってみたり、神社にお参りしておみくじを引いたり、楽しい時間はあっという間に過ぎ去っていく。
「ありがとう」
 おみくじを引けば吉と出て、願い事の欄に望めば叶うと書いてあるのを確認し、それを木の枝に括り付けようとすると唐突に山姥切がそう言った。きょろきょろとあたりを見回すと山姥切がお前の事だ、堀川と言う。
「僕?」
「祭に誘ってくれただろう。……嬉しかった」
 山姥切は堀川の手にあるおみくじを取るとそれを自分のみくじの横に括り付ける。さらにその横に山伏がみくじを括り付ける。
「真に楽しい時間であった。拙僧からも感謝する。このような時代に兄弟として三人で共にこのような時間を過ごせること、奇跡と言っても過言ではあるまい」
「そうだな」
 山伏も山姥切も優しい眼差しでそう言う。その言葉に堀川は胸が少しだけ苦しくなる。最初から兄弟として迎え入れてくれようとしていた二振りだ。その想いになんとかして自分なりに報いてやりたかった。しかし、自分は真贋のわからぬ刀だ。それが要らぬ障害として立ちはだかり、言葉にするのをためらってしまっていた。けれど。
「僕も」
 山姥切も山伏も堀川を見る。
「二人と兄弟と一緒に祭に来れて嬉しかった。ありがとう、兄弟」
 言えなかった言葉を言う。それに山姥切も山伏も目を見張り、そして微笑んだ。二振りとも頑なに兄弟と呼ばない堀川にどこか落胆の色を浮かべつつもそれを強要せずただじっと兄弟として接してくれていた。
「兄弟、次はどこへ行く?」
「まだ帰るには時間があるからな」
 山伏が嬉しそうに言う。山姥切が月を見ながら言う。遅くならないうちにと蜂須賀は言っていたけれど、まだまだ遊び足りない三振りはそのまま祭を気の向くままに歩き続けた。
 本丸にいる管狐によく似ていると狐の面を被ったり、赤い飴でくるんだリンゴをかじったり、小さい桶に入った金魚を見て可愛いねと言ったり、山姥切の手を取って走って、山伏に止められたり、本当の兄弟のように過ごした。
 本当にあっという間だった。
 祭の人もまばらになり、さすがに帰るかと山姥切が行った。山伏もそれに頷いたが、堀川だけはまだ帰りたくないと駄々をこねた。
 それに山伏も山姥切も堀川らしくなさに眉をひそめた。だがすぐに堀川はいつもの調子に戻ってさっきのは冗談だよと続けた。
「今日がすごく楽しくて……なんだか終わっちゃうのがもったいない気がして」
 その言葉に山伏も山姥切もなるほどと納得して頷いた。兄弟でこんなにも楽しく過ごしたのは言われてみれば初めてだったかもしれない。柄にもなくはしゃいでしまったと山姥切が言えば拙僧もであると山伏が言う。
「また、みなで来よう」
「そうだな」
 うんと堀川が頷く。
「兄弟、祭で会おうね」
 その言葉の違和感に覚えたのは一瞬で、あと驚きの声をあげる堀川に山伏も山姥切もその違和感を忘れてどうしたと聞く。
「風車、どこかに置いてきちゃったみたい」
 和泉守が取ってくれた風車なのだと祭の間ずっと堀川はそれを大事そうに持っていたが、確かによく見ると風車がいつの間にかなくなっている。
「ちょっと、探しに行ってくる」
「兄弟、俺も探そう」
「大丈夫大丈夫。落としたところには大体目星がついてるから。
 二人は山を下りて、待っていて」
 そう言って堀川は石の階段を息一つ乱さずに駆け上っていく。赤い提灯が並ぶ山の上はその明かりがあっても暗い。あっという間に堀川の姿が闇に飲まれていく。その背を追おうとして、山姥切は山伏を見る。
 太刀である山伏はあまり夜目がきかない。ここは大人しく堀川の言う通り山の下で待っているべきだろう。山姥切と山伏は堀川の言う通り山を降りて行った。
 祭ももう終わりではあったものの山の麓につけば人通りはすこしあった。誰もが今日は楽しかったと話し合っている。山姥切も今日は楽しかったなと思って山の方を振り返った。赤い提灯が一つ一つ消えていく。
 遅いな、と山姥切は考えながらそれを見ていた。けれどすぐにその考えに何故と疑問が思い浮かぶ。何かが自分の何かから消えてしまったような感覚を覚える。
「兄弟」
 山伏が山姥切の肩を叩く。それに振り返る。
「帰るか」
 その言葉に咄嗟に待ってくれと言おうとした。何を待つ?山姥切は自分でもわからなかったが、このまま帰る事はできないと自分の中で誰かが叫んでいた。けれど、その理由がまったくわからない。
「兄弟、俺はここで誰かを待っていたような気がするんだ」
「そうであるか」
 山伏はそれに否定せず山を見上げた。提灯はすべて消されてしまって、山は暗く物静かであった。祭はもう終わったのだ。
「……あまり遅いと蜂須賀殿や他の者達に心配をかける。兄弟、帰ろうぞ」
「ああ」
 真っ暗な山を見上げて数分経っても待っていた誰かを思い出せず山姥切は山伏の言葉に重い足をようやくあげて本丸に戻った。あんなに楽しかった祭だったのに。帰る時は寂しくて仕方がなかった。山姥切も山伏も本丸に帰る道中何も言わなかった。
 ただ、何かを失ったことだけがわかっていた。

 そうして堀川国広はこの本丸から突如としてその存在が消えたのであった。

◇ ◇ ◇

 和泉守は鎮座するその大きなぬいぐるみを見て首を傾げた。秋祭りに歌仙兼定と勝負する道中に手に入れたそれは行き先がなく結局和泉守の部屋に無造作に置かれたままである。昨日のその記憶はどうでも良かった。問題なのは何かが足りないという事だった。
 今朝はいつもどおりの時間に起きて、一人でその長い髪に櫛を通した。強くてかっこいい美と実用性を兼ね備えたと自分でもそう自負しているのだから身なりにはそれなりに気を付けて、身だしなみを整えた。
 朝餉に向かう途中で大和守と加州に出会って二人に挨拶をすればあくび交じりに「おはよー」と返されるが二人はどこか怪訝な顔をしていた。どうした?と聞けば二人とも「なんだか……」「ねぇ……」と歯切れが悪い答えが返ってくる。
「和泉守って一人で身支度ってできたっけ?」
「はぁ?当然だろ」
 加州の言葉にそう返すと「そうだよねぇ」と全く納得してない表情でそう返される。昔から俺は一人で身支度をしていた。それを加州も大和守も知っているはずだ。確かに彼らに時々世話になる事はあったが基本的に和泉守は一人で何でもできる刀であった。
「なんだろ。和泉守がちょっと変で不気味」
「お前なぁ」
 歯に衣着せぬ大和守の物言いに和泉守もさすがに黙ってはいられない。けれど大和守はもっと真剣な眼差しで「だって、変だよ」と続けた。
「和泉守はそんな……」
「そんな?」
 じろりと睨むと大和守はそこで言葉を止める。何かを言いたくして仕方がないが言葉が出て来ないというように眉を下げる。
「どうしたんだろう、僕」
「まぁまぁ、とにかく今日は休みじゃないんだし気を切り替えていこうよ」
 加州が割って入り、和泉守も大和守の背を押して朝餉を食べに歩いた。もうすでに朝餉を食べ終わった何振りかはさっそく内番の仕事をしているらしく、馬の世話をしに行ったり、掃除をしたりとどこか忙しく走り回っていた。その様子に和泉守は違和感をやはり覚える。
 本丸はいつもこんなにも忙しかっただろうか。
 昨日のその前の本丸のことを思い出す。皆で泥まみれになったシーツを洗濯をしたり、乱が作った洋菓子をみんなで食べたり、月の綺麗な夜に新選組の刀で集まって他愛のない話をしていたのを覚えている。何も変わっていないはずだと思う。
 大和守を見ればその表情はやはりどこか不満げで、加州は何も言わずぐいぐいとその背を押している。その二人のやりとりにもどこか違和感がある。
 朝餉に向かえば長曽祢もちょうど席に座ってご飯を食べているところだった。加州に押されている大和守と和泉守をみて苦笑いを浮かべて、そのまま誰かを探すようにあたりを見る。
「長曽祢さん?」
「ああ、いや……三人だけか?誰か足りないような気がしてな」
 その言葉に顔を見合わせる。
「やだなぁ、長曽祢さん俺達三人しかいないでしょ」
「そうだよ。新選組の刀はこの本丸に四人しかいないじゃない」
「そうだったな」
 そうだよ、ね、と加州と大和守が頷く。和泉守も頷きながら席に座る。そうだ。新選組の刀はここには自分を含め四振りしか存在しない。和泉守たちは互いの今日の予定を話しながら朝餉で違和感を流し込むように食べるのであった。
 長曽祢と加州、大和守の三振りは揃って朝からの遠征に出かけ、和泉守はただ一人本丸で暇を潰していた。午後から歌仙と万屋に行く予定があったが今日の用事といえばそれぐらいだ。
 稽古をするにも相手がおらずぶらぶらと手持無沙汰で本丸を歩いていると、山姥切が二組の布団を持って歩いていた。ふらふらと歩く山姥切に変わりその布団を持つと、驚いて山姥切が和泉守の名前を呼んだ。
「どうして」
「そりゃあ重たそうにしてるからな。
 ああ?お前、夜更かしでもしたのか。目の下すごい隈ができてるぞ」
 和泉守が指摘すると山姥切は布を深く被る。見られたくないというように下げられた布に和泉守はしまったと心の中で舌打ちする。
「なぁ、これどこに運んでいけばいいんだ?」
「ああ、洗濯場に持っていこうと思って」
「洗濯場だな?」
 微かに上下に動く布に和泉守はその布団を洗濯場に持っていくと江雪がそれを受け取り、綺麗にそれを仕分けて洗濯機の中に入れていく。後は頼むと江雪に言うとええ、と言葉少なに返された。
 山姥切と共に元の道を戻る。彼らの部屋と和泉守の部屋は近いのだ。離れて歩く理由もないので無言で横に並び立って歩いた。騒がしい加州と大和守といつも一緒にいるせいかこうした無言の時間はどうもどこか調子が狂ってしまう。だが、山姥切に良い話も切り出せずにまごついている間に彼の部屋にたどり着いてしまった。彼が引き戸を開けて部屋の中に入り込んでいくのに和泉守はちらりとその部屋の中を見てしまった。
 押し入れの中にひとつ、布団がある。基本的に与えられる布団は一振に対して一つだ。さきほど山姥切は二つの布団を持って歩いていた。それは恐らく山姥切本人と山伏の二つのものだろう。では、あの押し入れにある三つ目の布団は?
 和泉守の視線に気づいたのか山姥切がその布団に目をやる。
「ああ、あれか。
 なぜかしらないがこの部屋にあったんだ」
 昨日寝る前から川の字に布団が三つ置いてあり、朝起きてからそれの違和感に気づいたと山姥切は言う。ちょうど山姥切と山伏の間の布団はそれを使う者がおらず何のぬくもりもなかった。
「主に返さないのか?」
「返す?」
 その発想はなかったと驚くように山姥切が言う。そして少し逡巡した後「やめておこう」と言う。
「あれはなんとなくだが、この部屋にあるのが良い、と思う」
 どうにも今日は皆どこか調子が悪いように言う日だと和泉守は他人事のように思う。自分だって何度も違和感を覚えているのにその理由がわからないのだ。
 そうかと山姥切に返す。長谷部に見つかれば何か言われるかもしれないが和泉守は別にいいかと思った。関係ないからどうでもいいのではない。布団はここにあった方が良いという山姥切の言葉に確かにそうだなと思ったのだ。あれはこの部屋にあるのが当然だとふと思ったのだ。
 頭をがしがしとかくと、それじゃあと山姥切が戸を閉めた。
 閉じられた戸を前に和泉守はしばらくじっと眺めていたが息を吐くと大人しく部屋へと戻って行った。万屋に行く時間になれば歌仙が声をかけに部屋にくるだろう。それまでは部屋でゆっくり休んでいようと決めたのであった。

◇ ◇ ◇

 それから季節は一巡する。
 真っ白な雪が振り、桜が舞い散り、うだるような暑さの夏がやってきた。
 違和感は忙しさに追いやられて、それはほとんど気にしないくらいのものになっていた。だがふとした瞬間に訪れるそれに誰も何も言わなくなっていた。どこかがおかしい、それを気にすることがあっても何か原因なのかわからない。それがはっきりしなくては何を言ってもただの文句の言い合いにしかならなかった。
 和泉守たちの悩みとは反対に本丸では少しだけ不思議なことが起きていた。出陣して重傷を負うような怪我をしたと思ったら致命傷を外していたということがあったのだ。それに皆驚きつつも不思議な幸運があるものだなぁと笑っていた。
 そう笑う中でただ一人太郎太刀だけがどこか浮かない顔をしている。どうしたと聞いてもその理由を話さない。
 そうしてまた秋がやってくる。秋祭りの時期だ。今年も左文字の兄弟と堀川派の兄弟が出かけようと計画しているのに和泉守は仲の良い兄弟だと感心する。歌仙兼定も秋祭りに誘ってはくれたもののどうも行く気が起きず和泉守は主が唐突に言い出した休みの日に縁側に仰向けに寝っ転がっていた。一年前に鯰尾が飼いだした子猫はもう立派な成猫になっており、垂れ下がる和泉守の髪の毛を揺らして遊んでいた。
「ねぇ、和泉守は行かないの?」
 大和守がそう声をかけるのに手をふらふらと振る。加州と揃って大和守も秋祭りに出かけるらしい。一年前に食べた屋台の焼きそばの味がどうも忘れられないらしい。
「いいよ、もう放っておこう」
「そうだね」
 加州の言葉に大和守がそう返してぱたぱたと二人分の足音が遠ざかっていく。その音を聞きながら和泉守はずきずきと痛む頭に手を当てながら縁側でただひたすら痛みが止むのを待ち続けた。
 五月蠅くヒグラシがなく声に目をうっすらと開ける。思ったよりも長い間、眠ってしまっていたようだ。体を起こすと日が暗くなってきている。本丸内を歩けばまだ和泉守も加州も秋まつりから帰ってきてないようだ。祭から帰ってきた宗三は和泉守を見るなり、暇なら迎えに行ってあげたらどうですかと言ってきた。
 和泉守は悩んだ。今さら祭に一人で行ってどうするのか。大体迎えに行ったところで加州や大和守を見つけられる自信もなかった。けれど、のろのろと和泉守は秋祭りのやっている神社へ向かって一人歩いていた。
 秋の夕暮れだと言うのにまだ暑い。顎を滴り落ちる汗を拭い、和泉守はお囃子が聞こえてくるその山の方へと向かった。山は紅葉だけでなく夕暮れの色にも染まって赤々としていた。
 去年は昼に来ていたから、こんなに赤い山を見るのは初めてだと頂上の神社へと続く暗い階段を見上げた。階段の先は真っ暗で見えない。目をごしごしと擦ってもう一度見るがやはり一番上は真っ暗で何も見えなかった。
 赤い提灯がぽつりぽつりと明かりが灯るのを見ながら一歩一歩階段を上っていく。祭囃子の笛の音や太鼓の音が耳を打つ。楽しそうな人々の笑い声。そうだ。去年もこんな感じだったと思い出す。
 歌仙と一緒に躍起になって勝負をしていたなと思い、一つ目についたそれに吸い寄せられるように寄っていく。水風船だ。金を払い、紙の糸を渡される。これでいくつ釣れるか歌仙と勝負したことを思い出し一人笑いながら、水に浮かぶ水風船を見つめる。浅黄色の水風船を見つけ、それにしようと近くに移動する。近くの水面にそおっと針金の先を下ろす。そしてそれのわっかに針金を引っ掛けようとした時、ぱしゃりと水がかけられる。濡れた紙の糸はあっさりと切れて水面に落ちていく。水をかけた先にはまだ三つか四つくらいの子どもがいて、無邪気にぱしゃぱしゃと水面を叩いていた。親がすみませんと謝って子を引っ張っていく。その様子に怒るに怒れず和泉守は興が冷めて立ち上がろうとした。その目の前に紙の紐が垂らされる。
「残念だったね」
 これは僕のおごりと見知らぬ狐の面を被った少年が和泉守の手にその紙の紐を握らせる。その少年は赤と青の風車を帯に刺して、水風船を見ている。
「あれ、取ろうとしてたの?」
 浅黄の水風船を指さしたのに、和泉守はそうだと咄嗟に答えていた。
「いい色だね、僕も好きだな」
 和泉守は不思議とこの少年の声に懐かしさを感じた。そしてその少年が好きだといったその水風船をとってやろうと針金を再び水に落とした。今度は水をかけられることもなくうまくそれを救い上げることができた。どうだすごいだろうと和泉守が言うとそうだねと狐面の少年は笑った。
「兼さんはやっぱりすごいよ」
 少年の言葉に気を良くした和泉守はそのまま少年と一緒に祭を練り歩いた。少年は和泉守の話を親身になって聞き、相槌を打ち、相談に乗ってくれた。和泉守はいろいろなことを少年に話した。頼りになる仲間のこと、最近できるようになったこと、今日も仲間を探しに夏祭りにきたことを話すと少年がある一方を指さした。
「兼さん、あれ」
 その方向には見慣れた二人の姿があった。あつあつのたこ焼きを頬張る加州と大和守の姿だ。和泉守が二人に駆け寄ると二人も和泉守に気づいたようであっと驚いた声をあげる。
「なんだ和泉守も結局来たんだ」
「お前らあんまりにも遅いから迎えにいけって言われたんだよ」
「えー。別に俺達そんなに遊んでないよ」
 ねぇと加州と大和守はたくさんの食べ物の入った袋を両手に下げながら言う。それに和泉守は説得力ねぇぞと睨めば加州も大和守を顔を見合わせる。
「ねぇ、そう言えばよく和泉守は僕たちを見つけられたね。
 こんなに人がいっぱいいるのに」
「ああ、それはあいつが教えてくれて……」
 大和守の疑問に和泉守は後ろを振り返り、狐面の少年を二人に紹介しようとする。けれどそこには誰もいない。慌てて辺りを見回すが少年はどこにもいなかった。「和泉守?」加州が名前を呼ぶのを無視して和泉守は少年の姿を探し続けた。
「ねぇ、和泉守、いきなりどうしたの?」
「ああ、いや……」
 腕を掴まれてようやく和泉守は加州と大和守の事を思い出したようにそちらを見る。二人とも怪訝な表情で和泉守を見つめている。
「祭で出会ったやつにお前らのことを教えてもらったんだ」
「えぇ……」
「そんなことある?」
 加州も大和守も半信半疑だ。和泉守が本当だってと言うが二人はため息をつくと和泉守の背を押した。
「はいはい。寝言は家に帰って布団に入ってから言いましょうね」
「そうそう寝ぼけてたんだよ」
 違う、本当にいたんだと和泉守は大和守と加州に言うが二人は信じずにそのまま三人で山を下りた。
 陽が完全に落ちた山はまだ提灯の明かりが煌々としており、まだ神社に行くのがこれからという人もいて混雑していた。和泉守はその雑踏の中、一度だけ山の方を振りかえる。
 一瞬その中に見知った顔がいたような気がした。
 口が勝手に動く。だが、それが言葉になることはなかった。
「行こう、和泉守」
 加州に手を引かれる。和泉守は手の引かれるままに本丸へと戻る道を歩く。その道すがら、和泉守は違和感の正体を知った。
 彼は遠くへ行ってしまったのだ。和泉守の手の届かないほどのずっと遠くに行って、そして消えてしまった。それが誰なのかはわからないけれど、和泉守にとって大切な誰かだったのだ。

◇ ◇ ◇

 太郎太刀は一人、抱え込んだ記憶をどうしたものかと悩んでいた。誰もが忘れてしまった記憶。本来いたはずの刀が存在していないことに気づいてしまった。最初、彼と親しい刀達がみんな違和感を覚えていた。もしその時に何か言えていればまだ何かが違ったかもしれない。
 ひたひたと本丸を歩く音が聞こえる。それは聞きなれた足音だった。
 たった一か月と少ししかこの本丸いなかった者の足音だ。
 彼は長い間、相棒に願われていたがこの本丸に顕現することなかった。
 別の本丸からやってきたという彼は拙くとも相棒やその兄弟刀と過ごすことで少しずつその仲を深めていたと太郎太刀は思っていた。けれどそれはもしかしたら違ったのかもしれない。いつぞやか、長谷部が太郎太刀に見るかと言われて渡された資料にはある本丸のことが書かれていた。その本丸では刀達を使って呪術のようなものが行われていたと記されている。
 それは彼らが彼らたる命を使って他の刀を守る呪術であった。その中の一振りにその刀はいたのだろう。あれは優しい刀であった。仲間をよく見て、手伝いによく駆け回っていた。だから、その呪術に手を伸ばしてもおかしくはない。
 それに手を出したのは六振りの刀だという。
 日々おかしくなっていく本丸に負傷者が増える日々に心を痛めた一振りが、それを提案した。それに他の刀達も同意した。ただそれは純粋に仲間を守るため。主を守るためであった。

「怖い話をしよう」

 彼らは自分達の存在が消えて幽霊になったとしても彼らは仲間を守りたかった。ふざけるようにそう言ったのは、彼らなりの不安や恐れを消すための一つの手段だったのかもしれない。そしてその願いは叶った。ある一振りがその本丸から存在が消えたのだ。
 忽然と。それこそよくある夏の怪談噺のように。
 その本丸はその一振りが消えてなんとか持ち直すことができた。けれど、それも一瞬の間だけ。その次にまた一振りが消えた。そうして五つの刀が消えたが、その頃には人数不足で本丸は任務遂行できない状態になっていた。政府はその本丸に残された数本の刀を回収し、人手の足りぬ本丸にその刀を割り振った。
 それが偶然この本丸であったのだ。
 太郎太刀はこの本丸で起こるちょっとした幸運の話を聞くたびに少し複雑になるのは彼の事を思ってのことだった。最後の一振りであった堀川国広がこの本丸で最後に何を考えたのかはわからなかった。ただ、恐らく後悔と罪悪感をずっと抱いていたに違いない。だからただ彼の安寧を願うしかない。
 存在の消えてしまった彼の刀はこの本丸では未来永劫もう現れることはないのだろうから。

 ひたひたと廊下を歩く足音が止まる。太郎太刀がそちらを見る。赤と青の風車を腰にさした洋風の装いの少年が歩いている。その姿は透けていて風景と同化しているようにも見える。
 幽霊となった彼と話す事はできない。ただただ彼は本丸の見回る。誰か怪我していないか、誰か困っていないか。そしてだんだんとその姿は薄くなっていく。
 元より、それはこの本丸に来る前からもう決まってしまっていた運命なのだ。太郎太刀の視線に一瞬気が付いたように彼が振り向く。顔はもう限りなく透明に近くなっていたから彼がどんな表情をしているのかわからない。
 けれど、太郎太刀は彼が笑っているように思えた。太郎太刀が微笑むと彼の姿はふわりと消えてしまった。
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