この本丸には堀川国広は存在しない
へしきり長谷部は書類の束を持って廊下を歩いていた。本丸の審神者から資料の整理を頼まれたのだ。これは重要な機密で信頼できる長谷部にしか任せられないと言われて渡されたものだから、長谷部は大事に大事にそれを運んでいた。
長谷部の部屋は審神者に頼み込んで一人部屋にしてもらっている。別に人付き合いが嫌いなわけではなかったが、一人部屋の方が気が楽であった。それに審神者は快く承諾した。長谷部はいつも頼らせてもらっているからね、これくらいのことを叶えるのはたやすいことだと審神者に労いの言葉をかけられたときは長谷場はこの審神者に今度こそ最後までついて行こうと希望を抱いたのであった。
その審神者からの大事な仕事。しかも長谷部にしかできないものであるなら責任は重大だ。長谷部は無事に書類を自室の机の上に置くと、早速仕事にとりかかろうとした。
「長谷部さん、いますか?」
その仕事に水を差したのは短刀の前田だ。長谷部は「なんだ?」と返す。襖がぱたんと横に引かれる。
「事件が起きました」
その言葉に長谷部は眉を寄せて、前田の方を見た。前田は深刻そうな表情で続ける。
「洗濯物が一面泥だらけです」
秋晴れの青い空の下、本来であれば真白な布団のシーツが泥まみれになっていた。長谷部はなるほどと前田と一緒に庭に出て、その惨状を見た。
今日の洗濯番は宗三と江雪のはずだった。二人も泥だらけになったシーツをみて「おやまぁ」と驚いてそれを見ている。
「宗三、江雪、これは一体どういうことだ?」
「私は知りませんよ。いつものように洗濯を干していただけです。今は小夜とおやつをするために少し席を外していただけです」
宗三と江雪の間に挟まってその場にいた小夜もこくりと頷く。
「おやつに行くまでは泥なんかなかった。本当だよ」
「しかしな……」
「なんですか長谷部。私や小夜が嘘をついているとでも?」
「そうは言ってない」
宗三が長谷部を睨むのに慌てて否定する。だが、シーツが泥で汚れてしまっていることは事実なのだ。宗三や江雪の手際に不備があったとは長谷部も思ってはいない。干してしまえばあとは乾くまでの間暇になるだろうからその間何をしていようが強く言うことができないのも確かであるから宗三のいう事は正しい。
「鯰尾か?」
一番やりそうな刀の名をあげれば前田が眉を下げた。
「鯰尾兄さんは今日は遠征に出かけています」
そう言われてみれば、鯰尾は今日は朝から遠征に出ておりまだ戻ってきていない。だとしたら誰がシーツを泥だらけにしたのか。長谷部は悩んだ。何故誰が何の目的でシーツを泥だらけにしたのかわからない。うんうん頭を唸らせて悩んでいる長谷部に小夜がぽつりとつぶやく。
「それよりも、早く洗濯物をどうにかした方がいいんじゃない?」
まったくもってその通りである。
小夜の言葉を皮切りに本丸で休んでいた者達にも声をかけて皆で洗濯をすることになった。
快く受け入れてくれたのは堀川や歌仙などで、逆に渋々と言った様子でやるのは和泉守と大和守であった。二人とも堀川が手伝うよと声をかけるとのろのろと動き出し、桶の水に布を濡らしてはそのよごれを洗濯板でごしごしと洗う。
「泥とかも洗える自動洗濯機があればいいのに」
「主様の時代にはそういうものもあるらしいですけど……」
愚痴る大和守の言葉を拾ったのは前田だ。審神者の生きる時代では泥でもなんでも洗える洗濯機があるが、この本丸にそれを導入するにはかなりの金がかかるらしい。そこそこの昔の時代のものであれば安価になるらしいからそれで我慢してほしいと本丸のできたばかりの頃に審神者にそう説明されたと前田は大和守に話す。
「へぇ……主の住んでる時代ってすごいね」
言い出したのは大和守ではあるが、本当に存在することに驚いたようだ。まぁ確かに長谷部もこの本丸に来た当初、小さい箱から音が聞こえるのに驚いたし、薪も蝋もない場所から火がついたのも驚いた。刀が不要になった未来の器具は長谷部にとっては未知で恐ろしい。今でも必要がなければそれ以上のことは覚えようとしない。
「主様の話を聞くと驚いてばかりですよ。なんでも鉄の塊が空を飛ぶとか」
あんな重い物がと大和守は眉を寄せて空を仰いで手が止まっていることに気づいた歌仙が手を動かすようにと声を飛ばす。手際よく泥を落とした刀達はそれを洗濯機にもうすでに入れているようだ。
「しかし、誰が一体泥をつけたんでしょうね」
長谷部も泥を落とした洗濯物を洗濯機の前に桶ごと置くと、宗三がそう話しているのが聞こえた。洗濯機の前には宗三と江雪、堀川と浦島の四人が立っていた。
「今日は天気が良かったから泥のある場所なんてないよね?」
「うんうん、蜂須賀兄ちゃんについて本丸を見回りしてたけど、地面が濡れたところなんて一つもなかったよ」
「なんとも面妖な話ですね」
四人とも不思議な現象に首を傾げている。考えても泥がつく理由などないのだ。それこそ意図的に泥を付けようとしなければ。
「何者かが本丸に入ったとかはないのか?」
「そんなことが起きたら大事件ですよ!」
長谷部がそう言えば、すぐに堀川にそう返される。確かに本丸には政府による強固な結界が張られていると聞いたことがある。それは悪意のある人や物は決して入ることができないと。
しかし、逆を言えば悪意のない者がこの本丸に入ることができるのではないかと長谷部は考えたのだ。その考えを宗三はすぐさま組んだのか、一度見回りでもしますか?と言う。
「そうだな……あまり大掛かりに見回りするのは得策ではないから、ここにいる者達だけで行うか」
「ならば、私と江雪兄さん、長谷部はそちらの脇差二人と組んではどうです?」
「…いえ、脇差の方が偵察には優れています。であれば私が堀川殿と組みましょう。
宗三は長谷部殿と浦島殿とお願いします」
江雪はそう言うと早速堀川に声をかけてすたすたと歩いて行ってしまう。確かに江雪の言う事は最もだ。宗三はこちらを見て「じゃあ、行きましょうか」とすたすたと歩いてく。もう少しごねると思ったが意外だ。待ってよと走る浦島の背を見ながら長谷部も宗三の方へとやや大股で近寄る。
「宗三さん、どこへ行くの?」
「そうですねぇ、江雪兄さんが稽古場の方へ向かうなら、私たちは厨のほうへ行きましょうか。
しかし、長谷部いいのですか?」
「何がだ?」
「主に何か仕事を頼まれてるのでしょう?」
宗三は長谷部の方をちらりと見ずに言う。浦島は「えっそうなの!?」と驚いた表情をするが、この場で浦島と宗三の二人だけに見回りをさせるのは少し不安がある。
「構わん」
「そうですか」
「えっえっ?いいの?お仕事大変だったら俺と宗三さんだけで見回りするから大丈夫だよ?」
「問題ない。本丸の平穏を維持するのも大事な仕事だからな」
その言葉は長谷部にとって間違いなく本心であった。少なくともこのまま主に任された仕事をしに部屋に戻ったとしてもどうしても気になって仕方がなくなるだろう。あっさりと頷いた宗三と違って、浦島は本当に大丈夫?と気にしている様子だった。脇差というのはどうも揃って人の表情を伺う癖があるようだと思いながら長谷部は大丈夫だと繰り返し答えた。
三人で厨を覗くとすでに昼餉の準備をしているらしい燭台切とそれの手伝いをする今剣の姿があった。燭台切が欲しいといった食材を今剣は手渡すだけで、主に調理をしているのは燭台切のようである。
三人が厨に顔を出すと、今剣が「あれどうしたんですか?」と首をころりと傾げた。
「ひるごはんができるのはまだまださきですよ!」
「いや、なんか怪しいものをみなかったかと思って」
「あやしいものですか」
それに今剣がむむむと顔を顰めるのに自分で言ってて要領を得ない聞き方をしてしまったと思う。
「怪しいものかどうかはわからないけれど、不思議なことが一つあったよね」
「あ!たしかにありました!」
燭台切のその言葉に今剣は足音もなく、冷蔵庫の横においてある籠の中から煮干しの入った袋を取り出す。
「きのうのよるにはたくさんあったのに、きょうのあさみたらすくなくなってたんです!」
これはじけんです!と今剣が言う。確かに泥棒か何かの仕業かもしれないが、それにしても煮干し泥棒とは……つまみに持っていきそうな刀を考えるとどれも犯人のように思えてくるし、少し煮干しを拝借したくらいで目くじらを立てて怒るほどではないとも思う。
燭台切はくすくすとそれに笑いながら「長谷部」と名前を呼ぶ。そちらに近づけば厨の裏口の扉当たりを見てみろと言われる。言われるがままに裏口の扉を見ると薄くはあるが、肉球の跡が二、三ついている。よく見てみれば扉にひっかき傷がいくつかある。それは五虎退の虎のもののようにも見えたが、五虎退はいつも抱えている虎と共に今日は遠征しているはず。だとすればこれは。
「なるほど、そういうことですか」
「えっ?どういうこと?」
厨の裏口に来た宗三はどうやら長谷部と同じ考えに至ったらしい。浦島はよくわからず、見上げているが、説明をしている暇はない。長谷部は浦島と宗三にすぐさま背の低い木の影や茂みにそれらがいないかよく確認するように伝えて、本丸の外を半刻ほど歩き回った。
「あ、いたよ!」
本丸の表門の近くの生け垣で浦島が声を上げて呼ぶのに小走りで駆け寄る。ほら、見てという浦島の言葉に生け垣の裏を見ると、3匹の子猫が日陰でぐっすりと寝ていた。よっぽどぐっすり眠っているのか長谷部が覗き込んでも子猫は寝たままであった。その姿は少し泥塗れではあったものの、大方洗濯の布に擦り付け終わった後なのか、薄汚く程度であった。
「猫が入り込んでいるとはな……」
「政府の結界とやらも悪しきものを防ぐだけで、このような物は予想していなかったのでしょう」
浦島がその三匹の猫を抱えて持ち上げてもその猫たちはすやすやと眠ったまま。ふてぶてしいやら度胸がすわってるやら、と宗三がため息交じりに言うのに長谷部も同意見だったので頷く。
「この子達どうするの?」
長谷部がもし同じ言葉を言ったなら、宗三はにべもなく捨ててきなさいと言っただろう。しかし、相手は浦島だ。純真な目を前にその言葉は言いづらいらしく、その冷たいで有名な刃は身を潜めており、代わりに長谷部の脇腹をつついた。その目は貴方がどうにかしなさいと語っている。
「……この本丸では飼えないだろう」
「捨てるの?」
しゅんっとあからさまに気落ちする浦島にいやと長谷部は言おうとしてその言葉を飲み込む。この本丸は刀やそれを運営する審神者のもので、それ以外のものが住んで良い場所ではないのだ。たとえ紛れ込んだ子猫であろうと例外はない。
浦島は亀吉やら五虎退の虎やらぬえやら動物に対してとても優しい刀だ。故にこの子猫たちも放ってはおけないのだろう。
「どうかしたのか?」
隣から刺さる無言の宗三の視線に耐えながら、言葉を選び、口にしようとした時にその声が後ろからかけられる。審神者だ。すぐに礼を取り、膝をつく。事情を説明しようと口を開くよりも早く、審神者は浦島の腕に抱えられたものを見て「子猫か」と呟いた。
「最近、やたらと鯰尾が猫についての本を欲しがると思っていたけれど、どうやらどこかで拾ってきたみたいだね」
すでに審神者は全体を把握済のようだ。浦島の抱える子猫の頭をぽんぽんと撫でると、これも良い学びの機会だろうと言う。
「この子猫は本丸で飼おう。政府にも私の方から連絡をしておく」
「正気ですか?」
「宗三!」
不敬だぞと長谷部が叱るのに対して審神者は良いと手で制止する。
「鯰尾にちゃんと説明した上で子猫を里親にだすのであればともかく、知らぬうちにどうにかしては恨まれてしまうだろう。ならばしかるべき手順で猫を引き取ればいい。
飼育は鯰尾に見させるし、他の刀達にとっても良い学びの場となるだろう」
そう審神者は言いたいことだけいうと去っていく。審神者の言う良い学びの機会を長谷部には理解できなかったが、それでもこの子猫たちが捨てられるような危機は去り、同時に浦島にどう伝えようかと考えていた気苦労も終わった。
浦島が良かったなぁお前たちと猫に頬ずりするのを傍目にため息をつくと、宗三は甘いですねとと呟いた。
江雪と堀川と合流後、泥で汚れていた子猫をみんなで洗って乾かしてやると綺麗な黒と白の子猫が三匹、縁側に置いた座布団で仲良く寝ていた。それを見た小夜が可愛いねと宗三と江雪に言うと二人とも微笑んでそうですねと返す。あれだけ猫を飼うのに拒否反応を示していた宗三だが身内にはとことん甘いらしい。小夜と一緒に煮干しを手に子猫達を世話する様子を見ていると、少し複雑な気持ちになった。
昼を過ぎた頃に鯰尾が遠征から帰ってくると遠征の報告を聞くよりも早くに彼を中庭で正座させ長々と説教をした。子猫を無断で拾ってきたのもそうではあるが、それを隠して一人で世話をしていたのも悪い。鯰尾は口を尖らせて叱られるのがわかってたから隠したと文句を言うのに、容赦なく雷を落とす。
それを遠巻きに他の刀は見守り話の中心である子猫達も我関せずと小夜の腕で小さくあくびをした。
結局長谷部が主の仕事に取り掛かることができたのは夕方頃になってしまったのであった。
長谷部が見たのはとある本丸の記録である。
病気がちな審神者の本丸の元で刀の失踪が相次ぎ、残った刀達で何とか政府の指令を遂行していた。だが、時間遡行軍との戦いが激化していく中でこの本丸では任務の遂行が不可能だと政府から烙印を押された。それにより解散となったと記されている。
この記録に本丸に一か月前にやってきた脇差のことを思い出す。諸事情でと蜂須賀が彼について説明していたが、その諸事情について長谷部は詳しく聞かなかった。そもそも他の本丸の事情など長谷部が聞く理由などない。己が存在するのはこの本丸で、主である審神者はただ一人なのだから。
けれど、審神者はこの資料を長谷部に渡したのだ。であれば、恐らくきっと何か意味があるのだと思った。審神者のメモには整理して本棚に置いておいて欲しいと書いてある。長谷部はそのメモの指示通り、その記録を夜通し写す作業をして徹夜をし、次の日に目の下に隈を作りながら資料を審神者へと戻すのだった。
長谷部の部屋は審神者に頼み込んで一人部屋にしてもらっている。別に人付き合いが嫌いなわけではなかったが、一人部屋の方が気が楽であった。それに審神者は快く承諾した。長谷部はいつも頼らせてもらっているからね、これくらいのことを叶えるのはたやすいことだと審神者に労いの言葉をかけられたときは長谷場はこの審神者に今度こそ最後までついて行こうと希望を抱いたのであった。
その審神者からの大事な仕事。しかも長谷部にしかできないものであるなら責任は重大だ。長谷部は無事に書類を自室の机の上に置くと、早速仕事にとりかかろうとした。
「長谷部さん、いますか?」
その仕事に水を差したのは短刀の前田だ。長谷部は「なんだ?」と返す。襖がぱたんと横に引かれる。
「事件が起きました」
その言葉に長谷部は眉を寄せて、前田の方を見た。前田は深刻そうな表情で続ける。
「洗濯物が一面泥だらけです」
秋晴れの青い空の下、本来であれば真白な布団のシーツが泥まみれになっていた。長谷部はなるほどと前田と一緒に庭に出て、その惨状を見た。
今日の洗濯番は宗三と江雪のはずだった。二人も泥だらけになったシーツをみて「おやまぁ」と驚いてそれを見ている。
「宗三、江雪、これは一体どういうことだ?」
「私は知りませんよ。いつものように洗濯を干していただけです。今は小夜とおやつをするために少し席を外していただけです」
宗三と江雪の間に挟まってその場にいた小夜もこくりと頷く。
「おやつに行くまでは泥なんかなかった。本当だよ」
「しかしな……」
「なんですか長谷部。私や小夜が嘘をついているとでも?」
「そうは言ってない」
宗三が長谷部を睨むのに慌てて否定する。だが、シーツが泥で汚れてしまっていることは事実なのだ。宗三や江雪の手際に不備があったとは長谷部も思ってはいない。干してしまえばあとは乾くまでの間暇になるだろうからその間何をしていようが強く言うことができないのも確かであるから宗三のいう事は正しい。
「鯰尾か?」
一番やりそうな刀の名をあげれば前田が眉を下げた。
「鯰尾兄さんは今日は遠征に出かけています」
そう言われてみれば、鯰尾は今日は朝から遠征に出ておりまだ戻ってきていない。だとしたら誰がシーツを泥だらけにしたのか。長谷部は悩んだ。何故誰が何の目的でシーツを泥だらけにしたのかわからない。うんうん頭を唸らせて悩んでいる長谷部に小夜がぽつりとつぶやく。
「それよりも、早く洗濯物をどうにかした方がいいんじゃない?」
まったくもってその通りである。
小夜の言葉を皮切りに本丸で休んでいた者達にも声をかけて皆で洗濯をすることになった。
快く受け入れてくれたのは堀川や歌仙などで、逆に渋々と言った様子でやるのは和泉守と大和守であった。二人とも堀川が手伝うよと声をかけるとのろのろと動き出し、桶の水に布を濡らしてはそのよごれを洗濯板でごしごしと洗う。
「泥とかも洗える自動洗濯機があればいいのに」
「主様の時代にはそういうものもあるらしいですけど……」
愚痴る大和守の言葉を拾ったのは前田だ。審神者の生きる時代では泥でもなんでも洗える洗濯機があるが、この本丸にそれを導入するにはかなりの金がかかるらしい。そこそこの昔の時代のものであれば安価になるらしいからそれで我慢してほしいと本丸のできたばかりの頃に審神者にそう説明されたと前田は大和守に話す。
「へぇ……主の住んでる時代ってすごいね」
言い出したのは大和守ではあるが、本当に存在することに驚いたようだ。まぁ確かに長谷部もこの本丸に来た当初、小さい箱から音が聞こえるのに驚いたし、薪も蝋もない場所から火がついたのも驚いた。刀が不要になった未来の器具は長谷部にとっては未知で恐ろしい。今でも必要がなければそれ以上のことは覚えようとしない。
「主様の話を聞くと驚いてばかりですよ。なんでも鉄の塊が空を飛ぶとか」
あんな重い物がと大和守は眉を寄せて空を仰いで手が止まっていることに気づいた歌仙が手を動かすようにと声を飛ばす。手際よく泥を落とした刀達はそれを洗濯機にもうすでに入れているようだ。
「しかし、誰が一体泥をつけたんでしょうね」
長谷部も泥を落とした洗濯物を洗濯機の前に桶ごと置くと、宗三がそう話しているのが聞こえた。洗濯機の前には宗三と江雪、堀川と浦島の四人が立っていた。
「今日は天気が良かったから泥のある場所なんてないよね?」
「うんうん、蜂須賀兄ちゃんについて本丸を見回りしてたけど、地面が濡れたところなんて一つもなかったよ」
「なんとも面妖な話ですね」
四人とも不思議な現象に首を傾げている。考えても泥がつく理由などないのだ。それこそ意図的に泥を付けようとしなければ。
「何者かが本丸に入ったとかはないのか?」
「そんなことが起きたら大事件ですよ!」
長谷部がそう言えば、すぐに堀川にそう返される。確かに本丸には政府による強固な結界が張られていると聞いたことがある。それは悪意のある人や物は決して入ることができないと。
しかし、逆を言えば悪意のない者がこの本丸に入ることができるのではないかと長谷部は考えたのだ。その考えを宗三はすぐさま組んだのか、一度見回りでもしますか?と言う。
「そうだな……あまり大掛かりに見回りするのは得策ではないから、ここにいる者達だけで行うか」
「ならば、私と江雪兄さん、長谷部はそちらの脇差二人と組んではどうです?」
「…いえ、脇差の方が偵察には優れています。であれば私が堀川殿と組みましょう。
宗三は長谷部殿と浦島殿とお願いします」
江雪はそう言うと早速堀川に声をかけてすたすたと歩いて行ってしまう。確かに江雪の言う事は最もだ。宗三はこちらを見て「じゃあ、行きましょうか」とすたすたと歩いてく。もう少しごねると思ったが意外だ。待ってよと走る浦島の背を見ながら長谷部も宗三の方へとやや大股で近寄る。
「宗三さん、どこへ行くの?」
「そうですねぇ、江雪兄さんが稽古場の方へ向かうなら、私たちは厨のほうへ行きましょうか。
しかし、長谷部いいのですか?」
「何がだ?」
「主に何か仕事を頼まれてるのでしょう?」
宗三は長谷部の方をちらりと見ずに言う。浦島は「えっそうなの!?」と驚いた表情をするが、この場で浦島と宗三の二人だけに見回りをさせるのは少し不安がある。
「構わん」
「そうですか」
「えっえっ?いいの?お仕事大変だったら俺と宗三さんだけで見回りするから大丈夫だよ?」
「問題ない。本丸の平穏を維持するのも大事な仕事だからな」
その言葉は長谷部にとって間違いなく本心であった。少なくともこのまま主に任された仕事をしに部屋に戻ったとしてもどうしても気になって仕方がなくなるだろう。あっさりと頷いた宗三と違って、浦島は本当に大丈夫?と気にしている様子だった。脇差というのはどうも揃って人の表情を伺う癖があるようだと思いながら長谷部は大丈夫だと繰り返し答えた。
三人で厨を覗くとすでに昼餉の準備をしているらしい燭台切とそれの手伝いをする今剣の姿があった。燭台切が欲しいといった食材を今剣は手渡すだけで、主に調理をしているのは燭台切のようである。
三人が厨に顔を出すと、今剣が「あれどうしたんですか?」と首をころりと傾げた。
「ひるごはんができるのはまだまださきですよ!」
「いや、なんか怪しいものをみなかったかと思って」
「あやしいものですか」
それに今剣がむむむと顔を顰めるのに自分で言ってて要領を得ない聞き方をしてしまったと思う。
「怪しいものかどうかはわからないけれど、不思議なことが一つあったよね」
「あ!たしかにありました!」
燭台切のその言葉に今剣は足音もなく、冷蔵庫の横においてある籠の中から煮干しの入った袋を取り出す。
「きのうのよるにはたくさんあったのに、きょうのあさみたらすくなくなってたんです!」
これはじけんです!と今剣が言う。確かに泥棒か何かの仕業かもしれないが、それにしても煮干し泥棒とは……つまみに持っていきそうな刀を考えるとどれも犯人のように思えてくるし、少し煮干しを拝借したくらいで目くじらを立てて怒るほどではないとも思う。
燭台切はくすくすとそれに笑いながら「長谷部」と名前を呼ぶ。そちらに近づけば厨の裏口の扉当たりを見てみろと言われる。言われるがままに裏口の扉を見ると薄くはあるが、肉球の跡が二、三ついている。よく見てみれば扉にひっかき傷がいくつかある。それは五虎退の虎のもののようにも見えたが、五虎退はいつも抱えている虎と共に今日は遠征しているはず。だとすればこれは。
「なるほど、そういうことですか」
「えっ?どういうこと?」
厨の裏口に来た宗三はどうやら長谷部と同じ考えに至ったらしい。浦島はよくわからず、見上げているが、説明をしている暇はない。長谷部は浦島と宗三にすぐさま背の低い木の影や茂みにそれらがいないかよく確認するように伝えて、本丸の外を半刻ほど歩き回った。
「あ、いたよ!」
本丸の表門の近くの生け垣で浦島が声を上げて呼ぶのに小走りで駆け寄る。ほら、見てという浦島の言葉に生け垣の裏を見ると、3匹の子猫が日陰でぐっすりと寝ていた。よっぽどぐっすり眠っているのか長谷部が覗き込んでも子猫は寝たままであった。その姿は少し泥塗れではあったものの、大方洗濯の布に擦り付け終わった後なのか、薄汚く程度であった。
「猫が入り込んでいるとはな……」
「政府の結界とやらも悪しきものを防ぐだけで、このような物は予想していなかったのでしょう」
浦島がその三匹の猫を抱えて持ち上げてもその猫たちはすやすやと眠ったまま。ふてぶてしいやら度胸がすわってるやら、と宗三がため息交じりに言うのに長谷部も同意見だったので頷く。
「この子達どうするの?」
長谷部がもし同じ言葉を言ったなら、宗三はにべもなく捨ててきなさいと言っただろう。しかし、相手は浦島だ。純真な目を前にその言葉は言いづらいらしく、その冷たいで有名な刃は身を潜めており、代わりに長谷部の脇腹をつついた。その目は貴方がどうにかしなさいと語っている。
「……この本丸では飼えないだろう」
「捨てるの?」
しゅんっとあからさまに気落ちする浦島にいやと長谷部は言おうとしてその言葉を飲み込む。この本丸は刀やそれを運営する審神者のもので、それ以外のものが住んで良い場所ではないのだ。たとえ紛れ込んだ子猫であろうと例外はない。
浦島は亀吉やら五虎退の虎やらぬえやら動物に対してとても優しい刀だ。故にこの子猫たちも放ってはおけないのだろう。
「どうかしたのか?」
隣から刺さる無言の宗三の視線に耐えながら、言葉を選び、口にしようとした時にその声が後ろからかけられる。審神者だ。すぐに礼を取り、膝をつく。事情を説明しようと口を開くよりも早く、審神者は浦島の腕に抱えられたものを見て「子猫か」と呟いた。
「最近、やたらと鯰尾が猫についての本を欲しがると思っていたけれど、どうやらどこかで拾ってきたみたいだね」
すでに審神者は全体を把握済のようだ。浦島の抱える子猫の頭をぽんぽんと撫でると、これも良い学びの機会だろうと言う。
「この子猫は本丸で飼おう。政府にも私の方から連絡をしておく」
「正気ですか?」
「宗三!」
不敬だぞと長谷部が叱るのに対して審神者は良いと手で制止する。
「鯰尾にちゃんと説明した上で子猫を里親にだすのであればともかく、知らぬうちにどうにかしては恨まれてしまうだろう。ならばしかるべき手順で猫を引き取ればいい。
飼育は鯰尾に見させるし、他の刀達にとっても良い学びの場となるだろう」
そう審神者は言いたいことだけいうと去っていく。審神者の言う良い学びの機会を長谷部には理解できなかったが、それでもこの子猫たちが捨てられるような危機は去り、同時に浦島にどう伝えようかと考えていた気苦労も終わった。
浦島が良かったなぁお前たちと猫に頬ずりするのを傍目にため息をつくと、宗三は甘いですねとと呟いた。
江雪と堀川と合流後、泥で汚れていた子猫をみんなで洗って乾かしてやると綺麗な黒と白の子猫が三匹、縁側に置いた座布団で仲良く寝ていた。それを見た小夜が可愛いねと宗三と江雪に言うと二人とも微笑んでそうですねと返す。あれだけ猫を飼うのに拒否反応を示していた宗三だが身内にはとことん甘いらしい。小夜と一緒に煮干しを手に子猫達を世話する様子を見ていると、少し複雑な気持ちになった。
昼を過ぎた頃に鯰尾が遠征から帰ってくると遠征の報告を聞くよりも早くに彼を中庭で正座させ長々と説教をした。子猫を無断で拾ってきたのもそうではあるが、それを隠して一人で世話をしていたのも悪い。鯰尾は口を尖らせて叱られるのがわかってたから隠したと文句を言うのに、容赦なく雷を落とす。
それを遠巻きに他の刀は見守り話の中心である子猫達も我関せずと小夜の腕で小さくあくびをした。
結局長谷部が主の仕事に取り掛かることができたのは夕方頃になってしまったのであった。
長谷部が見たのはとある本丸の記録である。
病気がちな審神者の本丸の元で刀の失踪が相次ぎ、残った刀達で何とか政府の指令を遂行していた。だが、時間遡行軍との戦いが激化していく中でこの本丸では任務の遂行が不可能だと政府から烙印を押された。それにより解散となったと記されている。
この記録に本丸に一か月前にやってきた脇差のことを思い出す。諸事情でと蜂須賀が彼について説明していたが、その諸事情について長谷部は詳しく聞かなかった。そもそも他の本丸の事情など長谷部が聞く理由などない。己が存在するのはこの本丸で、主である審神者はただ一人なのだから。
けれど、審神者はこの資料を長谷部に渡したのだ。であれば、恐らくきっと何か意味があるのだと思った。審神者のメモには整理して本棚に置いておいて欲しいと書いてある。長谷部はそのメモの指示通り、その記録を夜通し写す作業をして徹夜をし、次の日に目の下に隈を作りながら資料を審神者へと戻すのだった。