3.小さな気付き
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「豹馬ー、お昼ご飯よ」
一階からの母親の声で千切は我に返った。ふと部屋の壁掛け時計を見るとまもなく昼になろうとしているころだった。同等の声量で了承を唱え、読みかけの小説の頁にしおりをはさむ。
今日は日曜。当たり前のように学校は休み。特に外出する所用もなかったので、朝から自室で読書をしていた。今読んでいるのは先日本屋の新刊コーナーにて至極シンプルな表紙にぽつんとわびしい単語だけのタイトルがのっかったもので、作者は昨年話題となった少年少女の青春を題材とした映画の原作を手がけていたらしい。本の帯にそう書かれていたのでなんとなく手にとった。結果としては当たりだった。元々好きなミステリーだったが先読みがしずらく、始めの一行目からすでにはじまっていたらしい伏線も未回収で先に先にと紙をめくるペースが早くなる。時間を忘れるほど集中するくらいには。
本を置いて一階へ向かえば、すでにテーブルで昼食が湯気をあげて千切をおとなしく待っていた。休日の昼は麺類が多い。さくっと作れるからと以前母親が言っていたのを料理などできない身として「そういうものか」とよくわからないまま納得する。生姜の他には特別嫌いな食べ物はないので、何をだされたところで文句もなければ残すこともまずない。椅子に座り、目の前のうどんを啜った。
流し台で洗い物をしていた母親が、ちらりと千切を盗み見た。いつもの通りの我が子の姿。年相応の食欲と、まだまだ幼い顔とこれからさらに大きく育っていくであろうその体。
昨年の。広々としたフィールドを王のように駆け抜けていた彼が、その優しい植物の色合いの地に体を打ちのめされたあの日。客席にいた自分は氷のように動けなくなって悲鳴をあげることすらできなかった。視界に一滴の墨が落ちてきたように淀んで、ぐにゃりと我が子の世界ごと曲げられていくようだった。あの日以来彼の日常は一遍していまい、以前は休日に家にいることなどほとんどなかった息子がこうして静かに昼食をとっている。親としては嬉しいようで、けれど喜んでいいことなのかもわからない。
「豹馬」
「なに?」
「最近学校は楽しい……?」
洗い物の手を止めず、母親は問うた。彼が学校に行けるようになってから、時折近状報告を軽く聞く程度の意味合いでなげる言葉だった。ただ毎回返ってくる応えは凝り固まった台本の一行にすらならないようなもので、けれどそれを受け止めるべく母親は片耳に入れ込む準備をした。
「まぁ、それなりに」
皿を洗う手が止まって、息子を見た。先読みの返答ではないそれに思考がぐるりと一回転する。いつも応えは「普通」と決まってかえってくる。その「普通」は、楽しいとはほど遠いものだと母親なりにわかっていて、当たり障りのない応えで対応して心配をかけまいとしている息子に対して、それ以上なにも追及することできず「そう」とだけ返す。このルーティンを想像していただけに。
彼の通うあの学び舎で、息子にそう言わせられるだけのなにかがあった。ほのかに確信する。いつも通りそれ以上言及はしなかった。その変わり「……そう。よかったわね」と返答する。彼に気付かれないほどの安堵を口元に乗せ、母親は水道の蛇口を止めたのだった。
2025/2/25
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