10.紅い花の涙【後編】
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どこだここ。それが意識をもってはじめに呟いた一声だった。
視界を浸す黒、黒、そして黒。音も色も、距離感覚も、すべてが俺の知らない場所まで追放されて返してくれないとでも言うように。足場はあるけれど、まるで世界と切り離されたような、現実感のない場所。暗黒の曠野。
宇宙に行った人間の生活空間ってこんな感じかなと、絵空事のように思ってしまう。
その時だった。誰もいないと思っていた空間に、人の気配がしてそちらを向いた。うちの学校の女子が二人、そこにいた。
『あれって天才だった人でしょ?』
『さぁ、いたっけそんな人』
記憶には薄かったが、たしか以前練習している俺を見に来ていた奴等だったと思う。俺が怪我をして学校に戻った頃には、手の平を返したようにグラウンドを横切っていった。
『また走れるようになったら、その時はまた取材させてよ』
次は地元の新聞記者。よく俺の取材にきていた。熱量のある視線をカメラ越しに向けてシャッターを連射していた気がする。うわべだけ取り繕って、その言葉の裏に「まぁ、期待薄だけど……」という落胆が見え見えだった。
『元気だして。きっとまた走れるようになるよ』
『世の中他にも楽しいことが沢山あるんだから、サッカーに固執することないって』
わかったような口聞くな。俺がどれだけサッカーを大切にしていたか、知りもしないくせに。
たくさんの人が慰めてきた。彼等彼女等なりの労わりだってわかっていたけれど、その時の俺はそれを受け取る余裕はなくて。無反応を決め込む俺にしびれを切らして、みんな離れていった。
そいつらが消えると、能面のような顔が二つ分闇の中から浮き上がってきた。俺は思わず歯を食いしばってそいつらを睨む。実力では俺の足元にも及ばなかったくせに、今の俺では打ち負かすことすらできない。以前から俺を敵視していた部活の先輩、鰐間兄弟。
『おいおい、どうした天才くん。自慢の快速はどうした?』
――うるせぇ
『ざまぁねぇな。ずっと調子にのってたツケが回ったんだよ』
――黙れ
『あのグラウンドにもうお前の居場所はない、とお兄が言っている』
――黙れ!
『才能のぶっ壊れたお前に、なんの価値がある?』
――黙れっ!!!!!
怒りと懊悩が叫びとなった瞬間、鰐間兄弟の顔は霧のように常闇に消えた。脚にずしりとした重みを感じて、そこを見る。おびただしい数の鎖が、右膝に絡みついていた。まるで鉄の牢獄のように、俺を閉じ込めて一歩も動けない。
刹那、視線を感じて顔を上げる。本庄が、立っていた。思わず身体がこの鉄の鎖のように、閉ざすように凍り付いた。怪我をして、夢から切り離された俺を、彼女が見ている。
本庄の両背後から真っ黒で長い爪をもった腕が伸びてきた。漆黒の凶器のようなそれは、片方は彼女の喉元を、そしてもう片方は胴を捕らえるように、鋭利にまとわりつく。そして彼女の肩越しからぬるりと、腕と同じ黒い顔をだしたそいつに、俺は慄然とした。
≪——お前はもう走れない。≫
あいつだ。俺の魂をえぐるような宣告をしたあの悪魔。ニヤリと、俺の心を蝕むように不気味にその口角が三日月をつくる。
本庄は悲しさを孕んだ双眸を俺にむけていた。その口がゆっくり、切なげに動く。音のないそれの口の動きを読んだ。ぴしりと、右膝と心に、ひびが入る音がした。
――カ ワ イ ソ ウ
ハッと、弾けるように俺は目を覚ました。
「はぁ……、はぁ……、っ」
ピッチを爆走していた時のような息切れ。けれど、あの時のような快感も、高揚感も一切ない。暑くもないのに、ひどい汗をかいていた。部屋着のTシャツが、じっとりと湿っていて気持ちが悪い。襟元に指をかけて、肌から生地を引き離す。
俺はベッドから抜け出し、一階の台所へ向かった。冷蔵庫から水と取り出してコップに注ぎ、一気に飲み干し息ついた。おかしい、体内の枯渇は潤ったはずなのに、喉の乾きが張り付いたように取れない気がする。心臓の動悸がいまだ治まらない。俺はキッチン台に手をついて、崩れるように床に身をかがめた。
なんで夢って、起きた時に覚えていてほしいものの記憶は薄くて、悪夢みたいなものに限って鮮明に覚えてしまうんだろう。
あいつに、話せればいいなと思った。一緒に流星を見た日に伝えようとして、未遂におわってしまった。俺の一番大切にしていた宝物の話。
けれど、ふと考えてみる。
もし、もし本庄に、他の連中のように憐れみを帯びた目を向けられたら、俺はどうなってしまうんだろう。
違うって思いたい。けれど、夢の中の本庄の悲しそうな顔が、脳裏に焼き付いて離れてくれなかった。
土曜日の午後。俺は鹿児島市内の大きな総合病院に来ていた。右膝の手術をしてから、定期的に経過を診てもらうために、この市内の大きな総合病院へ通っている。
リハビリもとっくに終えてはいるけれど、今でも家でできる筋トレとか生活の中で気を付けることなど医者や理学療法士からアドバイスを受けていた。怪我をしてからもう半年近くたっていた。手術直後のリハビリには一日でも早くピッチに戻りたい一心で死に物狂いで取り組んだせいか、日常生活への復帰も普通より早かった。だけど違う、俺が戻りたいのはそこじゃなかった。毎回そうだ、この白い壁と消毒液のきつい匂いに囲まれた空間に足を踏み入れた瞬間、どこまでも責め立てられて、気持ちが削ぎ落されてしまう。
「経過は良好です。靭帯そのものは、しっかり生着している。膝の安定性も悪くないし、可動域も十分に戻ってきています。引き続き、筋力トレーニングを続けてください。ただし、焦って負荷を上げすぎないこと。万が一、再断裂でもすれば、二度と元の競技に戻れなくなる可能性もあります。若いからって過信しないことです。焦らず、自分の身体と相談していきましょうね」
担当の医者に毎回問いただしたくても、いつも声帯から吐き出される前に、虚しく胃の底に落ちていく。
――俺はまた、前みたいに走れるようになりますか。
はっきりとした答えがほしくても、望めないであろう医者の顔が浮かんで、やめた。
俺の体は変わらずサッカーを求めているというのに、膝が壊れるという恐怖心が足枷となって、立ち上がることすらできない。そのまざまざとした現実を、思い知らされる。
待合室で待っていた母さんが「車を出してくるから、表で待っていて」と俺に告げて駐車場へ向かった。俺は病院の自動扉を出て、うちの車を待っていた。
ふと、何気なく病院の門へ眼の焦点をずらした瞬間、体が撃たれたように固まった。なんで、ここに……。
本庄が、そこに立っていた。観光でもしてきたのか、制服でも練習着でもない休日の装いで、手には俺でも知っている地元でも有名な土産屋のロゴが印刷された紙袋を持っている。明らかに俺に気付いているようで、軽く片手をあげてきた。丁度その時、うちの車が俺の前に止まって後部座席へ即座に逃げ込んだ。
「出して母さん……」
「豹馬? どうしたの?」
「いいから早く!」
戸惑う母さんを急かして、車はすべるように病院の大門を出た。一瞬本庄の横をすり抜けた気がしたが、俺は直視することができなかった。
サイドミラーを見てみると、白く清潔な牢獄が段々と遠ざかっていく。
俺は俯き、両手で顔を覆った。
――見られた、……見られたっ…………!
なんでこの日のこの時間に、俺の一番嫌いな場所で。俺が一番見せたくなかった姿を、よりにもよってあいつに。
神様とやらが本当にいるのなら、そいつは相当性格が悪いらしい。
夢に突き進んでいる彼女と、夢に見捨てられようとしている俺。この瞬間、それがあまりも生々しく可視化されて、俺の指先は雪に晒されたように、冷たくなっていった。
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