1.暮日と亡霊
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唐突に視界がひらけて眼がちかちかする。増した風圧に髪を抑えながら反射的に閉じた眼を今一度ひらいた。
屋上だった。落下防止のための柵で囲われた広くて何もない開放的な空間に、簡素な給水タンクが高く聳えている。打たれたような紅い夕暮れが、空を一色に染めあげていた。遠く西の果て、山々の渓間へわずかにと太陽が顔の断片を残していた。下校する生徒達の微かな笑い声と、風の慟哭が耳元でごわごわしている。ある一点をたまたま見てしまった時、視線が縫いつけられるように動かなかった。
空を支配する暮れ日の果てのもっと手前。柵の外側。屋上ぎりぎりのその場所に、ひとの影があった。黒い制服を身にまとった背中と、灯篭の火すら尻込みするような深紅の髪。風圧をものともせずそこに立つ、誰か。一瞬この世のものじゃない気すらして。
現実離れした不可思議な情景に、足元がふわつくようで鳥肌がたった。
影の下肢へ目線をすべらせた。足はある。人間だ。間違いなく生身の。
「上着もなしにそんなところにいると、風邪を引いてしまうわ」
呼応するように紅い髪がこちら向いて、はじめて顔を見せてきた。
一つだけ笑みをつくりあげ、紅のいる柵近くに手を添えて西の果てを見遣った。
「きれいな夕焼けねぇ。景観を邪魔するビルがないから空が広く感じる。あなたもこれを見にきたのかしら?」
頭の中で言葉を厳選し、レコードのように口からたれ流した。この人物が何かよくないことをしようとしているならば、今自分にできることはと思考を全力で回転させる。
冷静に、慎重に、刺激してはだめ。この人物の体がいまにも風圧で前に投げ出される前に、柵の内側へ戻す方法を。
紅の視線が自分の下から顔を流し見て、怪訝そうな表情に変わると柵に手をかけ飛ぶようにこちら側に乗り越えてきた。近くにあったであろうスポーツバックらしきものを肩にかけ、一言も何かを発することもなく扉の向こうに消えていった。
世の中の自殺願望者をひとり救った――と思っていいのだろうか。あのひとを飲み込んでいった緑色の扉を、しばらくじっと見つめるほかなかった。
ホテルの一室に戻り、荷物を机の上に置いた。スマホの連絡用アプリを開き担任へ、今戻りました。と簡易的に送信すればすぐさま既読がついて元より入っている公式スタンプの「おかえり」が飛んできた。
カーテンを開けて窓の外を見る。関東より明かりの少ない穏やかな夜景がひっそりと南国の夜を華あるものにしていた。
「…………不思議な人」
異空間にでも迷い込んだのかと思った。一瞬あのひとを生きた人間ではないと勘違いするほどには。見たこともないような紅い髪に紅い眼。存在主張の美の強さが、目の裏にこびりついてとれない。
亡霊とうかんだ言葉はすぐに消えてしまった。理由もたしかな確信もないはずなのに。いまとなっては紅のあのひとが形のない暴力に羽をもぎ取られた、かみさまのこどものように思えた。
紅の、あなた。すべての、はじまりのいろでした。
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