9.紅い花の涙【前編】
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あの日からその日の授業が終わると、彼女、本庄が一人残る別棟に向かうという小さな習慣がついた。
なにか特別なことをするというわけではない。彼女の練習を眺め、本を読み、他愛もない話をして、そして一緒に帰る。そんなかすかで、ちいさな日々。五限目、六限目になると俺の視線は授業中の黒板から、ときおり自然と窓の外の別棟にむかうようになっていた。
今日も俺は黒板の前の段にすわって本を開き、活字を目で追いかけながら、彼女が終わるのをまっている。ふと、室内の中央をみた。本庄がおどっている。メトロノームのリズムにあわせて回転しながら移動し、弾みをつけて飛んだ。三回連続。着地した先で、足をあげる。毎日同じ動きをしているようだけれど、俺の目からは毎回違って見えた。少し前までおれの人生にはまったく無縁だったはずの芸術のジャンル。
不思議と退屈じゃない。むしろ、――嫌いじゃない時間だ。
「お待たせ」
練習を終えた彼女が俺の元へ戻ってきた。
「ん……お疲れ」
「ありがとう」
タオルで汗をぬぐいながら、本庄が隣に腰掛けてくる。その瞬間。俺は、少しだけ体を固くした。……いや。別に何かされたわけじゃない。練習中に遠目で見ているぶんには気にならない。ただ、近くに来られると、どうも落ち着かない。理由は、はっきりわかっている。本庄の着ているバレエの練習着だ。彼女いわくレオタードというらしい。
体のラインに寸分の狂いもなくフィットするつくりのもので、俺にはまったく馴染みのないものだ。ここのところ毎日見ているけれど、正直慣れない。鎖骨のくぼみとか、開かれた背中とか、その身体の中でゆいいつ柔らかさを残した女子特有のふくらみとか、――いたたまれなくなって、俺はふいと顔を逸らした。俺の様子に気付くこともなく、本庄はスマホを取り出し画面を見て「あ、」と小さく声をあげる。
「千切くん」
「ん?」
「上がってる」
「何が?」
「ほら。こないだの全国ツアーの。最終日の特設会場の分」
俺は思わず自分のスマホを確認すると、知らぬ間に通知が一つ増えていた。動画アプリで登録しているチャンネルの更新。俺たちが共通して聞いているアーティストの新しいライブ映像が、ついさきほど上がったらしい。数日前にお互いの好きな曲を語り合ったばかりだった。
「もう配信でたんだ」
「少し前にツアー終わったばかりなのに、早いわよね」
「見る?」
「うん」
俺はイヤホンを取り出し片方を耳に差し込み、もう片方を彼女に渡した。本庄にも見えやすいようにスマホをかかげる。彼女が無意識に距離を縮めてきたのには、無反応をよそおうことにする。
再生ボタンを押すと、そこには夜の闇を彩る壮大な野外ステージが映し出された。
まるで深い海を照らす光の生物のように、客席のサイリウムがきらびやかに揺れている。ステージの後方には巨大なプロジェクションマッピング。最初の一音から、大波のように音が俺達に押しよせてきた。
「やばっ」
「すごいでしょう?」
「会場思ったよりデカいな」
「ええ。今回、これでも動員数あぶれちゃってたみたい」
ベースの重低音と弾くドラム。ギターが高らかに鳴り響く。オープニングを終えると、そのまま音をつないで二曲目に移った。
「千切くんの好きな曲」
「マジか。結構前のなのにライブでやるんだ」
「古株にも良心的よね」
「あ、次本庄の言ってたやつじゃん」
「まぁ! これこそ随分昔の曲なのに……」
「こないだも思ったけど、お前ほんとダークロック好きだよな」
「通学の時とかに聞くと、モチベーションが上がるの」
「普段クラシック曲で踊ってるからその反動とか?」
「たまに授業でコンテンポラリーダンスもあるから、別枠よ?」
次の曲に移って、俺は画面を軽く指さした。
「ここ好き」
「分かる」
「特に、この切り返しで音が入るところ」
「私はその後」
「確かに。そこもいいよな」
「でしょう?」
終盤なのか、プロジェクションマッピングの色合いが華やかさを増し、夜空に大輪の花火が舞った。サイリウムの海がまばゆい音をたてる。画面いっぱいに、光が咲っている。
「綺麗……」
「これ、現地で見たらすげぇだろうな」
「絶対すごいわ。私感動して泣いてそう」
「想像つく。ライブタオルが涙で絞れるんじゃね」
「もう……千切くんってたまに意地悪ね」
「ははっ……行ってみたいな」
「私も」
肩が触れてしまいそうな距離で、同じイヤホンから流れてくる音を共有する。同じ映像と同じ曲。不思議だ、この感じ。
ラスト曲の終盤で、俺も彼女も、同じところで目を大きく見開いた。
「「――っ!」」
思わず、俺は片手で顔を覆って天井をあおいだ。横で本庄は、両手で顔を覆っている。
ラストのサビでボーカルが、原曲にはない圧倒的な高音のロングトーンと厚みのある転調を叩き込んできた。
ずりぃ……、なんだこの神アレンジ。
画面の向こう側でメンバー同士が笑いあう。ボーカルが両手を広げて、曲の最後で愛を叫べば、観客から地鳴りのような歓声があがる。
ふと、横の彼女を見た。音の余韻を追いかけるような瞳をきらきらさせて、俺のスマホ画面を見つめている。色素の薄い髪の上を、窓からの夕日がすべるようになでて、金色に光っている。
楽しそうだ、心から。
その表情を見て俺は、しばらく目を離せなかった。踊っている時の彼女は、神経の隅々まで意識を張り巡らせているような、研ぎ澄まされた顔をしている。今この瞬間の本庄は、もっと透明で。ただの一人の少女だ。好きな音楽を聴いて笑って、俺と同じタイミングで感動している。こういう誰かと感情を、好きななにかを分かち合うって気持ち。ここ最近では思い出すことすら忘れていた気がする。彼女を見ていると、胸のずっと奥で、サッカーを辞めてから眠っていたいろんな感情が、一つずつ目を覚ます音がする。
「どうしたの……?」
俺の視線に気付いた本庄から、すぐに画面へ目の焦点をひき戻した。
「……もう一回、最初から見るか」
「ふふっ。ぜひ」
また一つだけ、彼女が咲った。
なにか特別なことをするというわけではない。彼女の練習を眺め、本を読み、他愛もない話をして、そして一緒に帰る。そんなかすかで、ちいさな日々。五限目、六限目になると俺の視線は授業中の黒板から、ときおり自然と窓の外の別棟にむかうようになっていた。
今日も俺は黒板の前の段にすわって本を開き、活字を目で追いかけながら、彼女が終わるのをまっている。ふと、室内の中央をみた。本庄がおどっている。メトロノームのリズムにあわせて回転しながら移動し、弾みをつけて飛んだ。三回連続。着地した先で、足をあげる。毎日同じ動きをしているようだけれど、俺の目からは毎回違って見えた。少し前までおれの人生にはまったく無縁だったはずの芸術のジャンル。
不思議と退屈じゃない。むしろ、――嫌いじゃない時間だ。
「お待たせ」
練習を終えた彼女が俺の元へ戻ってきた。
「ん……お疲れ」
「ありがとう」
タオルで汗をぬぐいながら、本庄が隣に腰掛けてくる。その瞬間。俺は、少しだけ体を固くした。……いや。別に何かされたわけじゃない。練習中に遠目で見ているぶんには気にならない。ただ、近くに来られると、どうも落ち着かない。理由は、はっきりわかっている。本庄の着ているバレエの練習着だ。彼女いわくレオタードというらしい。
体のラインに寸分の狂いもなくフィットするつくりのもので、俺にはまったく馴染みのないものだ。ここのところ毎日見ているけれど、正直慣れない。鎖骨のくぼみとか、開かれた背中とか、その身体の中でゆいいつ柔らかさを残した女子特有のふくらみとか、――いたたまれなくなって、俺はふいと顔を逸らした。俺の様子に気付くこともなく、本庄はスマホを取り出し画面を見て「あ、」と小さく声をあげる。
「千切くん」
「ん?」
「上がってる」
「何が?」
「ほら。こないだの全国ツアーの。最終日の特設会場の分」
俺は思わず自分のスマホを確認すると、知らぬ間に通知が一つ増えていた。動画アプリで登録しているチャンネルの更新。俺たちが共通して聞いているアーティストの新しいライブ映像が、ついさきほど上がったらしい。数日前にお互いの好きな曲を語り合ったばかりだった。
「もう配信でたんだ」
「少し前にツアー終わったばかりなのに、早いわよね」
「見る?」
「うん」
俺はイヤホンを取り出し片方を耳に差し込み、もう片方を彼女に渡した。本庄にも見えやすいようにスマホをかかげる。彼女が無意識に距離を縮めてきたのには、無反応をよそおうことにする。
再生ボタンを押すと、そこには夜の闇を彩る壮大な野外ステージが映し出された。
まるで深い海を照らす光の生物のように、客席のサイリウムがきらびやかに揺れている。ステージの後方には巨大なプロジェクションマッピング。最初の一音から、大波のように音が俺達に押しよせてきた。
「やばっ」
「すごいでしょう?」
「会場思ったよりデカいな」
「ええ。今回、これでも動員数あぶれちゃってたみたい」
ベースの重低音と弾くドラム。ギターが高らかに鳴り響く。オープニングを終えると、そのまま音をつないで二曲目に移った。
「千切くんの好きな曲」
「マジか。結構前のなのにライブでやるんだ」
「古株にも良心的よね」
「あ、次本庄の言ってたやつじゃん」
「まぁ! これこそ随分昔の曲なのに……」
「こないだも思ったけど、お前ほんとダークロック好きだよな」
「通学の時とかに聞くと、モチベーションが上がるの」
「普段クラシック曲で踊ってるからその反動とか?」
「たまに授業でコンテンポラリーダンスもあるから、別枠よ?」
次の曲に移って、俺は画面を軽く指さした。
「ここ好き」
「分かる」
「特に、この切り返しで音が入るところ」
「私はその後」
「確かに。そこもいいよな」
「でしょう?」
終盤なのか、プロジェクションマッピングの色合いが華やかさを増し、夜空に大輪の花火が舞った。サイリウムの海がまばゆい音をたてる。画面いっぱいに、光が咲っている。
「綺麗……」
「これ、現地で見たらすげぇだろうな」
「絶対すごいわ。私感動して泣いてそう」
「想像つく。ライブタオルが涙で絞れるんじゃね」
「もう……千切くんってたまに意地悪ね」
「ははっ……行ってみたいな」
「私も」
肩が触れてしまいそうな距離で、同じイヤホンから流れてくる音を共有する。同じ映像と同じ曲。不思議だ、この感じ。
ラスト曲の終盤で、俺も彼女も、同じところで目を大きく見開いた。
「「――っ!」」
思わず、俺は片手で顔を覆って天井をあおいだ。横で本庄は、両手で顔を覆っている。
ラストのサビでボーカルが、原曲にはない圧倒的な高音のロングトーンと厚みのある転調を叩き込んできた。
ずりぃ……、なんだこの神アレンジ。
画面の向こう側でメンバー同士が笑いあう。ボーカルが両手を広げて、曲の最後で愛を叫べば、観客から地鳴りのような歓声があがる。
ふと、横の彼女を見た。音の余韻を追いかけるような瞳をきらきらさせて、俺のスマホ画面を見つめている。色素の薄い髪の上を、窓からの夕日がすべるようになでて、金色に光っている。
楽しそうだ、心から。
その表情を見て俺は、しばらく目を離せなかった。踊っている時の彼女は、神経の隅々まで意識を張り巡らせているような、研ぎ澄まされた顔をしている。今この瞬間の本庄は、もっと透明で。ただの一人の少女だ。好きな音楽を聴いて笑って、俺と同じタイミングで感動している。こういう誰かと感情を、好きななにかを分かち合うって気持ち。ここ最近では思い出すことすら忘れていた気がする。彼女を見ていると、胸のずっと奥で、サッカーを辞めてから眠っていたいろんな感情が、一つずつ目を覚ます音がする。
「どうしたの……?」
俺の視線に気付いた本庄から、すぐに画面へ目の焦点をひき戻した。
「……もう一回、最初から見るか」
「ふふっ。ぜひ」
また一つだけ、彼女が咲った。