9.紅い花の涙【前編】
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翌日の放課後、≪第二音楽室≫と表記された扉の前で、俺は立ち止まっていた。意識的でもなく俺の脚は、吸い寄せられるように俺をここへ連れてきた。昨日、屋上で出会ったあの女子の「いつでも来て」といった声の温度と、やわく、それでも迷いのない目の色が、頭から離れなかった。そろりと、扉の小窓から室内を覗く。
いた、彼女だ。昨日とは違い、髪をシニヨンにまとめている。窓枠の手すりに手を添えて、上体をゴムのようにして背を逸らしている。それだけのことなのに、まったく別の生き物がそこにいるような感覚がした。気付けば俺は、無意識に扉に手をかけていた。
ガラリと音を立てて開くと、彼女の視線が俺を捉える。
「こんにちは、千切くん」
彼女の表情が、柔らかいものに一変した。
「来てくれて嬉しいわ。もう少しで終わるから待っていてね」
そう言われると、なぜか断れなかった。俺は黒板下の段差あたりに腰を下ろし、室内を見渡した。練習のための空間を作るためか、椅子等はすべて撤去され、教卓とグランドピアノだけがある。
教卓の上の古いメトロノームが、振り子のように規則的なリズムを刻んでいた。
次の瞬間、彼女の手すりを掴んでいないほうの腕が、ふわりと頭上に持ち上がった。ピンク色の特殊な形の靴で、すっとつま先で立ち、流れるように床をすべりながら時折膝を曲げた。腕は関節を無視してなだらかに空を泳ぎ、指すら波打つように動く。ふいに踵が高く持ち上がり、あり得ない角度まで足が上がった時には、思わず目を丸くした。
人の足って、あんなに上がるものなのか。
つま先立ちで体重すべてを支えている。タイツに包まれた足の薄い筋肉の動きに、目を奪われる。俺が知っているスポーツで作られたそれとは違う。これもまた、戦うために鍛えられたものだ。それを感じさせないような、空気に泡を描くような動き。
しばらくすると、満足したのか彼女がメトロノームを止めた。
「退屈じゃなかったかしら」
「……はじめて見たけど、不思議だった」
見たままの素直なそれを口に出した。俺がやっていたサッカーとはまったく違う。別の世界を覗いたような感覚。
彼女はタオルで汗を拭いながら俺の隣に腰掛ける。髪をまとめていたシュシュをとると、髪が舞いながら肩に落ちていく。
「名前。本庄さん、だっけ」
「覚えていてくれたのね」
「昨日聞いたじゃねーかよ」
俺はふと彼女の足元に目をやった。先程まで彼女の身体を支えていた、ピンクの不思議な形の靴。
「何、この靴」
「トウシューズっていって、つま先で立てるように作られているの」
そういうと彼女は座ったままつま先を立てるようにして、俺にそれを見せてきた。足先に触れてみると、その表面は生地が上品な光沢を放ってつるつるしている。指で押してみると、見た目からは想像もできないほど硬質だった。
「先かってぇ、こんなんで立てんのかよ」
「ふふっ、履けるようになるまでにはかなり訓練が必要だけどね」
「いつからやってんの」
「幼稚園のころから」
「へぇ、長ぇな」
「子供のころいくつか習い事させられてて、その中で一番体になじんで楽しくできたのがバレエだったわぁ……。あなたは? 小さいころ何かしてた?」
身体が一瞬こわばった。
「――とくには」
反射的に、嘘をついた。出会って数日の人間に、なんでもかんでも開示するのを脳が拒んだ。話を逸らすように、俺は尋ねた。
「…………専門の高校にいるってことはプロ目指してんのか?」
彼女は「ええ」と頷いた。
「将来海外のバレエ団に入って、向こうの舞台で踊るのが目標なの」
「夢が壮大だな」
「あら知らなかった? 世の中の大きなことって人の夢からはじまるのよ」
その一言が重く深く、半年ほど前の自分と重なってしまう。すでに懐かしいものを想う気持ちで、遠くを見た。
「覚えならあるよ。俺もちっさいころから持ってた」
「まぁ」
「なんかいいよな。そういうの」
自分で言っておいて、まるで他人事のようだった。夢と、勝利。才能に、光。すべて俺の手の中に、間違いなくあったものたち。
目を閉じれば思い出す、眩い緑色のフィールドの先の、ずっと遥か彼方で、黄金色の杯が褪せることなく光っている。もう俺が、届くことはないけれど。
「それは叶えられそう?」
彼女が尋ねてきた。純粋な問いかけなんだと思う。ただ、それに答えることができず、「さぁ……、どうだか」と濁した。自分でも驚くくらい、温度のない声が出た。
現実が一気に押し寄せて、頭の中の光景が、さぁっと砂のように消えた。
次の瞬間、彼女が呟いた言葉に、思わず顔を上げる。
「――≪ひかりにあいにいきたくて、ひとは脚をえることをおぼえた≫」
「……何」
「私の好きな言葉。ずっと昔に廃れた国の、誰が伝えたかもわかっていない。唯一文献に残されていたのが、この言葉なんですって」
脚。その一言が、妙に残る。彼女は慣れた手つきで足首に巻いたリボンを解いていく。俺は自然にそれに視線を奪われた。俺の脚とはまったく違う。過去の俺とは違う形で鍛えられた脚。
「≪ひかり≫というのはいろんな説があって、一番有力だったのが当時の時代背景の人工的な明かりがなかったことから、生活に必要な≪火≫だったんじゃないかって言われているわ。他には崇拝対象の神、その国の王とか、もしくは将来結ばれる運命の相手だったり――。あなたは何だと思う? 千切くん」
理由もなく、喉の奥がカラカラに乾いた。
なんで、そんな質問をするんだ……。
昔の俺だったら。その答えはたった一つだった。けれど、今の俺は?自分のすべてに蓋をした今の俺には、それを口にする資格はない。そう、思った。なのにーー。フィールドを駆けていた頃の俺が、迷いなくそれを口にした。
「…………夢?」
「ふふっ、やっぱり」
彼女は笑った。なにがやっぱりなんだ、と問い詰める前に、彼女はトウシューズを脱いで立ち上がり、黒板に向き合った。
「ほしいものを取りに行くために私達には脚があるんだと思うの。自分から近づかないとそこにはいけない」
「……」
ずしりと、胸の奥が重くなる。迷いのない彼女の言葉は、それを神からのお告げのように信じて生きてきた人間のそれだった。じゃあ、聞きたい。走れなくなった俺の脚にも、その権利はあるのか。
夢を掴みに行く手段をなくした人間の存在を、知らないからそれが言えるんだ。
腹が立つはずなのに、なぜか目を逸らせなかった。
黒板には、バレエの専門用語らしきカタカナが乱雑に書き記されている。彼女は自身の名前が記されたそれを、赤いチョークで円形に囲った。
「私は夢に愛してもらえるだけの力がほしいの」
ああ、これが、彼女の美学か。彼女の生きた夢。俺の死にかけた夢。同じ言葉がまるで陰と陽のように、対極の場所にある。夢に愛してもらうなんて、そんな言葉を俺は知らない。俺はずっと生まれながらに、夢に愛された人間だと思っていたから。
才能に恵まれて、そのまま世界まで行けると。けれど、あの日、夢は俺を置き去りにしていった。力を亡くした抜け殻のような、この脚だけを残して。
だからこそ、目の前のこいつの、自分を信じて疑わないこの顔が、見ていて少し苦しい。そして同時に、眩しくてたまらなかった。