9.紅い花の涙
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フィールドは、俺だけの王国だった。
走ることは元々好きだった。小さい頃、よく近所の友達と鬼ごっこや、誰が一番足が早いかでかけっこの競争をしていたものだ。
「豹馬が鬼になるとすぐ全員捕まるよな!」、「君にかけっこで勝てる子いるの?」と友達たちから言われ、それらが自分が人より足が早いということを知ったきっかけでもあった。
そんな時、母親に連れられていった地元のサッカークラブ。ボールを蹴るのが楽しくて、人から称賛された自慢のスピードで敵をぶち抜いたあの瞬間、幼かった俺の世界は一変した。サッカーという、青い情熱一色。それが今の俺、千切豹馬を形成したすべての始まりだった、
ボールを弾きながら身を閃光にして、フィールドを駆ける。どんな敵でも、この持って生まれた力で切り裂いていく。
充実して流れていく月日、それと共に成長していく体。高校は県内でもサッカーの強豪校へ入学した。ここでトップをとることは、あくまで通過点だ。使えるものは全部使って、目指す先はもっと上。神様が俺にくれたこの才能と日々の鍛錬、それに呼応するようにどんどん早くなっていく足が俺の、世界一のストライカーになるという夢へ連れていってくれる。そう信じて疑わなかった、日本を飛び越え、世界の頂点まで走っていけると、そう思っていた。
あの日、死神に命の糸を、刈り取られるまでは。
鹿児島県大会の予選準々決勝。ここまで難なく進んできた。いつも通りだった。俺の独壇場。緑のフィールドを、風を味方に駆け抜ける。誰にも止めさせない、どんどん加速して、ゴールはもう目の前。ボールを打ち込もうとした、その刹那ー。
体の内側から、太いゴムが引きちぎれたような、そんな音がした。
瞬間、ぐらりと視界が反転して、気付けば俺は倒れていた。遠くでホイッスルと、悲鳴が聞こえる。
―何が、起こっている……?
思考が追いつかない。嫌な感覚がする。痙攣する視線を、足に向けた。俺の右足が、ありえない方向に曲がっていた。感じたことのない激痛が時間差で襲ってくる。唇が戦慄いた。
嘘だろ。動け、動けよ俺の足――!
目前だったはずの勝利が、目の前が、闇色に侵されていく。
右膝前十字靭帯断裂。後の医師に下された診断名は、俺にとってまるで死刑宣告のようだった。
手術の後は歩くことが困難で、松葉杖に頼らなければならないことが歯がゆくてしかたがなかった。長いリハビリ生活を終え部活に戻った頃には、以前のような走ることができなくなっていた。あの時感じた激しい痛み、靭帯の切れる鈍い音、愛したはずの緑の芝生に打ちのめられた絶望。嫌でも思い起こして、足が氷のように動かなくなっていた。
耳元で悪魔が囁いた。
ーお前はもう走れない。
W杯で手にする黄金色の夢。世界一のストライカー。幼い頃から思い描いた未来が、打ち砕かれた。すべてが、手から砂のように零れ落ちていく。
それ以来俺の世界は、鈍色に淀んでしまった。
月日は流れ、俺は二年生になっていた。部活には、あれ以来行っていない。行ったところで、自分の無力さに絶望するだけなのが目に見えていた。何に対しても無気力で、押し流されるように過ごす日々。四月も後半に差し掛かり、新学期の少し浮ついた空気も落ち着いてきた、そんなある日のことだった。
いつも通り担任が朝のHRで出席確認を終えた後、「えー、一つ連絡事項がある」と全員に通る声で言った。
「来週から二週間ほど、うちの学校の別棟に、東京のバレエ学校から女子生徒たちが合宿に来ることになった」
教室がざわついた。誰かが「バレエ?」と小さく反応する声が聞こえる。
「向こうの専攻コースの集中合宿らしくてな。本館とは基本的に交流はないと思うが、廊下ですれ違うこともあるかもしれないから、失礼のないように」
四方八方で、言葉が飛び交った。
「マジかよ!?」
「バレエってあれだろ? 白いふわふわの衣装着て爪先で踊るやつ」
「多分。詳しくは知らねぇけど」
付け足すように、担任は続ける。
「別棟はあっちの貸し切り状態になるから、お前ら無駄にうろついて冷やかしに行くなよ。特に男子。見つけたら即説教だからな」
「えー、厳しいって!」
「挨拶くらいはいいでしょ!」
男子達からところどころブーイングが上がっている。
「東京のバレリーナかぁ。垢抜けてそう」
「絶対スタイルいいよね」
「食堂とか購買でワンチャンすれ違えるかもな」
そんな会話が繰り広げられていた気がするが、俺は流し聞くくらいで正直まったく興味がなく、机に頬杖をついて窓の外のグラウンドを静かに眺めていた。
この時の俺には、微塵も関係のないことだと思っていた。
そう、思っていた――。
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