8.たとえ、ヒーローになれなくても
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ガチャリ。と冷たい金属音をたてて、ドアが重苦しく閉まった。外の世界の喧騒が遮断され、水を打ったような静寂が部屋を支配する。 ケイナは肩にかけた鞄を下ろすことも、制服のボタンを外すこともできず、ただ薄暗い室内の真ん中に立ち尽くしていた。 カーテンの隙間から、鹿児島の街の景色が覗いている。ぽつぽつと点在する高くないビルと、遠くに見える海。この街のシンボルでもある大きな島の中央に聳える火山。唯々、綺麗。
静けさの横たわる部屋の中。ケイナの頭の中で、これまでに彼が残していった声が、堰を切ったように溢れ出し、何度もリフレインする。
――……最近俺に絡むのは家族とこいつと――あんたくらい。
――俺だけの才能を返してほしい、かな……。
――ちょっと前まで、あそこは俺の居場所だった。
「……っ」
気づけば制服の胸元を強く握りしめていた。苦しい。体の中で鳴る彼の声の寂しさに、胸が締め付けられる。
ずっと感じていた、数々の違和感。バラバラだったパズルのピースが、繋ぎ合わせられていく。
あの言葉達が、彼の訴える心の悲鳴だったとしたら。
次の瞬間には、はじかれるように部屋を飛び出していた。鞄も、規律を守る忠誠心のなにもかもを、床に投げおとして。
どれくらい走り続けただろうか。空はすっかり夜闇のドレスを身にまとい、制服の裾だけが夜風を受けて激しくはためいていた。ローファーがアスファルトを叩くたび、足首へ鈍い衝撃が突き抜ける。
気付けばきらびやかな繁華街の真ん中にたどり着いていた。
膝に手を突き、激しく肩を上下させる。いくら吸い込んでも冷たい空気が肺を虚しく通り抜け、ただただ焼ける熱さが残るだけ。視界がチカチカと明滅した。息遣いの荒いまま顔を上げ、眩いネオンが躍る周囲を見渡した。 行き交う大勢の大人たち。仕事帰りの会社員、デート中のカップル。異郷の夜の街に立ち尽くす、明らかな未成年の自分を、不思議そうな目で一瞥しては通り過ぎていく。
しらない場所。しらない人達。しらない空気。
――一緒だ。
私はあなたを、何もしらない。
住んでいる場所、誕生日、家族構成。なにをして過ごすのが好きなのか。
どんな子供時代を過ごして、大きくなってきたのか。――どんな人生を、歩んできたのか――。
知っているのは、年齢も学年も同じ。好きな食べ物はかりんとうまんじゅう。黒猫の友達がいて。それから、……それから?
私の知っている千切くんは、彼がほんの気まぐれに見せてくれた日常の断片にすぎない。
当たり前だ。私は彼の長い人生の、ほんの一瞬に出てきたぽっと出のイレギュラー。偶然という偶然が重なって出会っただけの、異端分子。
本当は気付いてた。彼がなにかに傷付いていることに気付いてた。
何気ない会話の端々の、ふとした話題に触れる時、彼の顔に翳る雲の正体。
その先に触れてはいけないと、かろうじて冷静な自分の理性が私を叱咤する。もし彼が何か心の傷を抱えていたとしても、私が触れていい理由は世界をひっくり返したって見つかりはしない。
気後れせず正面をきって、彼の中に踏み込める権限がどこにある。
――元、天才くん
脳裏に、あの双子の嘲笑と、それを聞いた瞬間の絶望に打ちひしがれたような千切くんの顔が甦る。 あのとき、どんな地獄に耐えていたのだろう。 彼の痛みに踏み込もうともせず、ただ目の前の綺麗な部分だけをすくい取って、なにも見ない振りをしてやり過ごそうとした。
よくある強化合宿のはずだった。 朝から晩まで、足の皮が剥けるほどの猛練習。ひたすら鏡に向かって技術を磨き、泥のように眠って、また朝が来れば板を踏む。それだけの、無機質な日々の繰り返しになるはずだった。
けれど、私は彼に出会ってしまった。 地上に燃える真っ赤な髪、少しぶっきらぼうで、だけど本当は驚くほど優しくて、切ないほどに美しい男の子。
バレエが人生で、私のすべて。今だって、それは変わっていない。私の世界は、それだけで完成されていた。
そんな私の世界に、ある日あなたは風をまとって落ちてきた。
彼と共に何気ない言葉を交わし、笑い合った一分一秒。黒猫と戯れて、星屑の下を二人で駆け抜けた、あの尊くて、眩しい時間。
あの時間を過ごしているときの私は、間違いなく、世界で一番幸福だった。
彼が。
私を世界で一番幸せな女の子にしてくれていたのに。
「――ごめんなさい、ごめんなさいっ、……千切くん……っ」
懺悔と後悔が、両目から零れてくる。耐えられなくなって、両の手で顔を覆った。
その刹那、「にゃぁ」とかすかな鳴き声が聞こえた。
思わず頭をもたげれば縞模様の猫が一匹、じっと私を見ていた。丸い眼の鮮やかな金色と、その透明感に思わず目を奪われハッする。
脳裏で自由気儘に生きている、黒くてかわいいあの子が鳴いた気がした。 私は涙をぬぐい、ポケットから唯一持ってきたスマートフォンを取り出した。即座に地図アプリを開いて、無我夢中で文字を打ち込む。
『羅古捨実業高等学校』
検索結果のピンが、画面の上にぽつんと灯る。 ここからそんなに離れてはいない。 あの日、彼が案内してくれた道のりは、不思議なくらい記憶に残っていた。スマートフォンの画面に映る青いナビゲーションの光を命綱のように握りしめ、私は、再び地を蹴った。
まだ、終わっていない。
今無性に、あなたを独りにしてはいけない気がする。
それは狂おしいほどの祈りに変わって、私の心を突き動かした。
わたしに、権限を。どうか――。