8.たとえ、ヒーローになれなくても
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学校の正門をくぐり、少し離れた人通りの少ない静かな一本道に出て、ようやく千切の足が止まった。 それに準ずるようにケイナも立ち止まる。千切が深い息をひとつだけ吐いて、ゆっくりと自分の方を振り返った。
「あんまりひとりで校内うろつくなよ。あんた、目立つんだから」
少しだけ、ぶっきらぼう。力がなく、困ったような声で彼は言った。しかし、その響きの奥には、不器用な気遣いが覗いている。
千切の眼には、先ほどまであの双子に向けていたような、激しい怒りはもうなかった。ただ、すべてを投げ出し諦めてしまったかのような、ひどく疲れ切った色が、ぽつりと滲んでいる。
たった数日離れていただけなのに、会えない時間がこんなにも長く感じるなんて思わなかった。
ただ、会いたかった。声が聞きたかった。その一心で、今私はここに立っている。
「……先週の日曜」
千切の肩がぴくりと微かに跳ねた。
「偶然、病院の前で千切くんを見かけて」
ずっと胸に淀んでいた疑念を、ケイナは静かに切り出した。 あの時、彼が自分の存在に気づいていたかどうかは、あえて聞かなかった。
「どこか具合いが悪いの……?」
ようやく出てきた問いは、たったそれだけだった。本当はもっと聞きたいことが、たくさんあった。
あの時、自分に気付いていたのなら、どうして避けたのか。どうして音楽室へ来なくなったのか。
病院にいたことが関係しているのなら、体調が悪くて来られなかった?
さっきの人たちは誰。――≪元天才≫って一体なんのこと?
しかし、本人を前にすると言葉が喉の奥につっかえて出ることを拒んでいる。その全てを聞いてしまえば、彼が壊れてしまいそうな気がした。
千切は一瞬だけ、視線を痛々し気に彷徨わせた。それから、ゆるりと小さく首を振った。
「……違う」
「本当に?」
「うん、本当。体調が悪いわけじゃない。どこも痛くねぇよ」
少しだけ、彼は笑った。けれど、その笑顔はどこか無理をしているようにも見えた。まるでその肌ではなく、皮膚の内側の傷をかばうように。
だから心配するなと同時に、それ以上なにも聞くなと言われているようで。 内側へ踏み込ませないために築かれた、高く冷たい鉄の壁のようにも感じた。触れたその悲しさに、ケイナはもう何も言えなくなってしまう。
「本庄、東京帰るのって明日だよな」
唐突に千切から投げかけられた言葉に、ケイナは一瞬だけ言葉がつまった。
「え、えぇ。そう……明日の午前の便で、みんなで帰るわ」
「そっか」
千切は一度瞼を閉じて、またすぐ開く。
「なら、早めにホテルに帰って身支度しないとだよな。――行こうぜ。ホテルまで送る」
千切は迷いのない足取りで、再び歩き始める。彼はいつも自分の歩幅にあわせて隣にいてくれたのに、今日はいつもよりその背中が遠くて、ケイナは静かに後ろをついていくしかなかった。
いつもの道を信号で止まって、青になったらまた渡る。夕方の買い物客で賑わう、歴史を感じる商店街を抜ける。今日で、この道筋を一緒に辿るのも最後なのに。二人は、なにも話さないままだった。
宿泊先のホテルのエントランスへと到着した。夕方の街の雑踏と、ホテルのロビーから漏れる華やかな光が、二人の境界線を明確に切り離している。
「それじゃあ、俺はこれで」
こんな時まで、彼はいつも通り。そのまま踵を返して、行ってしまおうとするのを、ケイナはすがるような声で呼び止めた。
「千切くん…………!」
「……何?」
今しかない。せめて、せめて連絡先だけでも。SNSでも、電話番号でもなんでもいい。このまま明日、東京に帰ってしまえば、彼ともう会えない。
自分たちの繋がりは完全に途絶えてしまう。もう二度と、この人生で彼と交わることはなくなってしまう。
千切がケイナに振り返った。
「あの、私――あなたと、これからも……っ」
紡ごうとした拙い言葉を遮るように、千切は少しだけ目を細めた。ひどいくらいに、穏やかなそれだった。
「…………バレエ」
「え?」
「……がんばれよ」
少し掠れて、優しい声。やさしいのに、その言葉はケイナを突き放すのに十分な威力だった。
まるでもう二度と会わない人へ向ける、決別と励ましの花束みたいに。夢に向かって走る自分への、最大級の祝福なのだと。
「元気でな、本庄」それが、彼の残した最後の言葉だった。 千切はもう二度と振り返ることはなかった。燃えるような赤い髪が遠ざかっていく。ケイナは回転を停止した頭のまま、ホテルの自動ドアを潜る。それが静かに閉じる音につられて、後ろを振り返った。ガラスの向こうに、もう彼の姿はなかった。