8.たとえ、ヒーローになれなくても
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体より、心より先に、魂が動いた。
それが正しいかどうかなんて、考える余地すらなかった。ただ、自分の中の奥深い場所にある何かが、紅い光を求めて雄叫びを上げている。
終礼を告げるチャイムが校舎全体に鳴り響くと同時に、張り詰めていた空気が一気に弛緩する。学校という広いようで狭い箱の中から、次々に生徒が雪崩れでてきた。放課後の喧騒の渦中、帰宅組の波の先に、見慣れた紅を見た。遠目でも見つけられてしまうくらいに、自分の目はすっかり彼の色に魅入られてしまっているようで。最終日の居残り練習を投げ出してまで、今ここにきた。彼女の体は思考を置き去りにして、ただ動く。
「千切くん――」
その背中に向けて、ケイナは彼の名を紡いだ。 紅の肩がピクリと跳ねて、ゆっくりとこちらを振り返る。
「っ……なん、で……」
虚をつかれたように、千切はその大きな切れ長の眼を見開いた。
彼が驚くのも無理はなかった。時刻はまだ、生徒たちがいくらでも校内に残っている時間帯。普段のケイナなら別棟の音楽室で居残り練習をしている頃であり。そんな彼女が自分の目の前に立っている。周囲の下校中の生徒たちが、その異様な空気に気付き始めていた。何より、この羅古捨実業の校内に、見慣れない他校の制服を着た女子生徒がいること自体がまず目立つ。ひそひそとした好奇の視線が、針のように二人を刺し始めた。
「お前、こんな時間にこんな場所で……何やってんだよ」
困惑を露わに、ケイナを連れ出そうと千切が手を伸ばしかけた。
――その直後。
「おいおい、部活にこないでもう帰るのか?……とお兄は言っている」
グラウンドの方から吹き抜ける、ざらざらとした砂の匂い。それに便乗して低く蛇のような声が、陰湿に二人の間にすべりこんできた。声の方をむけば、そこには全く同じ顔をした双子の男子生徒が立っていた。
「どなた……?」
千切にしか聞こえないほどの微弱な声で、ケイナは彼に尋ねた。しかし、返答はない。それどころか、千切の空気が明らかに変わった。 先程まで自分へ向けていた戸惑いとはまったく別物。苦く、張り詰めたそれ。ケイナは二人に目の視点を当てる。
――友達?
「まぁ、来たところで走れないんじゃお荷物だしなぁ、今のお前だと」
――ではなさそう。
千切を二つ分の同じ顔が下から小馬鹿にするような笑みで、まとわりつくように覗き込んでいる。野蛮な悪意が面のような顔から垂れ流れていた。笑っているようで、これ以上ないほどに視線が暴力的だった。
千切の横顔を見て、ケイナは思わず息を呑んだ。 その花のような顔立ちが、これまでに見たこともないほど険しく、そして耐え難い痛みに耐えるかのように、歪んでいた。美しく紅い瞳の奥で、激しい怒りのような感情が濁って渦巻いているように見てとれる。
「そうだな、お前がグラウンドに突っ立ってても、邪魔なだけだ……とお兄も同意している」
話の意図はわからない。それでも二人のその言葉がナイフとなって千切の尊厳を切りつけているのだけはよくわかった。
反射とでもいうのだろうか、ケイナは千切の前にさっと踏み出し、彼と双子の間に入った。
「すみません。私達、先を急ぎますので」
嘘をついた。彼を守りたいがための嘘。
軽く胸の前で片手を添えて制し、あくまで穏やかに笑む。
「あ? なんだお前」
ケイナの行動に双子はあからさまに不快そうな視線をギロリと向け、値踏みするように上から下まで視線を走らせ威嚇してきた。
次の瞬間には彼らの薄薄しい口端が、醜く吊り上がる。
「あぁ、なるほどねぇ。暇だからって女といちゃついていいご身分だな。――元、天才(笑)くん」
最後のその一言が棘らしきものになって、ケイナの頭に鋭く突き刺さる。無意図的に彼女は千切を見た。
――元……天才?
混乱と衝撃の中、目に映った彼。世界からすべての色彩を奪われたかのような、痛々しいほど真っ青になった千切の姿だった。あの日、夕暮れの屋上で見た、今にも消えてしまいそうだった亡霊のような顔が、温度をなくしてそこにいる。
「…………行こう。本庄」
千切の声は冷え切り、ひび割れていた。 門へと向かう彼の背中を追う。回りの生徒達の好奇の目を振り切るように、学校の敷地を後にした。背後から聞こえる双子の品性のない笑い声が、いつまでも耳の奥に居座っていた。
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