4.黒猫
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分数の含まれた数式達を約分を要いて細かく紐とけば、最終的にシンプルな数字がイコールの後に出てきた。一見複雑そうな数式の羅列も基礎にそって分解すれば特に頭を悩ませることもない。プリントの八割を埋めたところで千切は一度シャープペンシルをおいて息をついた。
誰もいなくなった放課後の教室、集中するには丁度いい。おかげで家だと途中で投げ出していたであろう明日提出のこの数学課題も、ゴールは目の前だ。
飲み物でも買いにいこうかと思案していれば、がらりと音を立てて扉が開けられた。
「お疲れ様」
思わずぎょっとしてしまう。我が校の制服ではないものに包まれた肢体が立っていた。
「俺クラスの場所言ってたっけ」
「向こうの棟から千切くんが見えたの」
「お姉ちゃんと豹馬はどこにいても見つけやすいから助かる」と母に言われたのはずっと幼いころだったか。遺伝であるこの髪色はたとえ群衆にまぎれても摘まんでとってしまえるような目印だと我ながら自覚している。
前の席の椅子に手をかけ座っていいかと問われたので了承する。椅子に座ったケイナが机の上を覗き込んだ。
「勉強? 偉いわぁ」
「宿題。結構面倒くさい内容だったから学校で終わらせて帰ろうと思ってさ」
「私お邪魔じゃなかった?」
「全然、もう終わる。で、今日はどうした?」
「これ、差し入れ持ってきたの」
そう言ってケイナは学校の自販機で売られている紙パックジュースを千切の机に置いた。自分もよく買うやつだった。何が好きかわからなかったから無難にこれにしたという。礼を言って付いているストローを外して上部に刺す。自分の分も買っていたのか彼女も同じものにストローを通した。
「本庄ってこういうの買って飲んだりするんだな」
「え?」
「あんまイメージないっつーか」
「私どんな人だと思われているの?」
いつもの笑みを転がして返してくる。彼女の意識が机の上のプリントの横に広げたテキストに注がれた。自身の学校の物と違うらしい。見てもいいかとお願いされたので、どーぞとうながした。ケイナはテキストを手にとって物珍しそうに頁を眺めだす。
反対側の手で髪を耳にかけた。もう何度みたかも数えていない彼女の癖だ。教室の中の異なる者の顔面を、千切は改めてじっと観察してみる。
目を伏せたときの睫毛の影に、話すたび時折のぞく小ぶりな歯の羅列。歩くときと座るときの姿勢に、ふっくらとした相槌の速度。そして踊るために取って付けられたような腕と足。学校にも家の近所にも自分の生活圏にはこんなのまずいない。
あれから少しずつ彼女と過ごす時間が増えていった。毎日ではないけれど自分が別棟に赴いてケイナの練習が終われば一緒に帰る。駅近くのホテルに滞在しているとのことで帰る道すがらそこまで送る。そんな小さな日々。
彼女が練習している最中それを眺めていたり、持ってきた本を読んだりと好きに過ごしていた。休憩を挟んでいる最中、それこそ他愛もない話をしていたり。
「これできる?」と彼女が股を割ってきたので、同じものを披露すれば彼女は驚きつつ頬をほころばせた。それこそ体が本調子に戻ってからも寝る前のストレッチはかかしていない。時にはお互いの好きなアーティストのライブ動画をスマホで見せあったり、好きな作家の小説を進めあって、双方読んだことがあるタイトルについての感想を語り合う。
ある時、帰りに寄ったコンビニで自分が買った好物のかりんとうまんじゅうを不思議そうに見つめながら、これは何と問われたのには今年一驚愕した。見たことも食べたこともないと言っていた。こんなうまいもの知らずに生きてきたとか、人生の半分以上損している。
追加でもう一つ購入してそれを二人公園のベンチで食べた。目をしばたたかせながら「おいしい」を頂いた時には妙に達成感があったものである。
波はない、まろい時間だと思った。
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