8.夜市
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ある程度露店を一周し、満足したであろうティエドールを連れて宿へ戻ろうとした時だった。
『――――――』
「呼ばれた……?」
音にないそれが聞こえて咲耶が足を止める。
「咲耶?」
「先に帰っててマリ」
「どこか行くのか?」
「うん。ちょっと」
すでにはるか前方を進んでいる神田とティエドールは気付いてもいないようで、隣を歩いていたマリにそう告げて、彼女は雑踏の中へ姿を消していった。
通りからさほど離れていない裏路地に入ると人影はなく、竹藪の森が広がっていた。躊躇なく咲耶はその中へと入っていった。灯りもなく手探りで突き進むため、時折固い葉が頭やら顔を掠めた。すばらくすると仄かな光が先に見えて、吸い寄せられるようにそこへ一歩踏み込んでみる。
森の出口のひらけた光景。夜空が広がって、あまい色をした月がやわく浮遊している。涼しい空気が肺まで入ってきた。切り立った崖から滝が流れ、深い湖をつくっていた。地面に膝をついて水面を覗き見る。
「ここにいたの」
水面に幾重にも波紋がひろがったのは、肯定の証。うっすら口角が上がった。
辺りに誰もいないことを確認して団服を脱ぎ、適当に畳んで水際においた。下に着ていた白いハーフスリップ姿で、湖に飛び込んだ。
咲耶にとって水に触れるという行為は、対話そのもの。
外界の音を遮断した、みずとわたしだけのせかい。
深く深く水底まで潜っていく。海藻や珊瑚の広がる海とは違い、灰色の石だけが積もって滝の水圧で時折転がりながら移動していた。身体を反転させ水中に四肢を投げ出してみる。揺らぐ視界の中、まあるい月もはるか彼方で泳いでる。少しだけみずに体を遊ばれながら、ゆっくりと浮上していった。
水面から顔を出し頬やら額に張り付く髪を一度かきあげる。
ふと目に入ってきた湖の中央。水面から突き出た大きな岩を見つけた。そこまで泳いで、上によじ登りまあるい月を見上げた。「アジア支部から、お月様は見えないだろうな」なんて考えた。
(なにあいつに入れ込んでんだ……)
神田の言葉が頭の中で反響する。
入れ込んでいるというよりアレンのような、アクマに対してあんな温かな気持ちを向ける人間を見たのがはじめてで、戸惑っていた。
彼の考え方はこの戦場を走り抜けるにはあまりにもぬくくて、人によっては偽善にもなりうるかもしれない。人を重んじ、アクマを愛して。自分は少し、彼にほだされている。
自分が真っ白な彼の立場だったら、同じ気持ちでいられたのか。
今、どんな気持ちでいるだろう。絶望しないで、お願い。
かわいい子。強くて儚い、かみさまのおとこのこ。だから。
「――待ってるよ。あなたの帰りを、ずっと待ってる」
左腕を、戦う力を失っていようとも。どんな姿になっていても――
「誰を?」
氷の冷たさが、耳を撫でた。反射的に首が向けた先に、その声の主はいた。
竹藪の一本に背を預け、ふかした煙草から紫煙をくゆらす一人の男。厚みのある長身は白いシャツと皺のないスラックスに包み、癖の強い黒髪から覗く双眸が、こちらを見ていた。男は竹から背を放し、煙草を指で挟んで口から放す。
「むこうの大通りにすごい美女がきたって聞いたんだけど。君のこと?」
ぞわり。人ならざるものが話している気がした。
気配がまるでなかった。煙草の匂いすら。錆びた機械のように咲耶はぎこちなく首を横にふった。
「違い……ます」
「いやそんな警戒しないでよ」
「あなた、は?」
「はじめまして。しがない流浪のお兄さんです」
口角だけが、紳士的に吊り上がっている。男は水際ぎりぎりの箇所で足をとめて、岩の上の咲耶をまじまじと凝視した。気怠げでなんとも射るような視線が咲耶の体に絡みついてくる。
思わずぎゅっと胸元を片手でおさえ、身を縮めた。今自分は人に見せていいような恰好をしていない。男は一度煙草を加えて軽く吸い、口から煙を薄く解放した。
「ふーん。君みたいなのもいるんだ」
「エクソシストって」と語尾の部分は心の内だけで男は呟く。
「俺たちそのうちまた会うと思うよ。その時は、仲良くしてね」
男の言葉の意味を汲み取れず、ただ彼と視線を交わせることしかできなかった咲耶も、そこではっと我に返る。再び湖に飛び込み団服をおいた水際まで辿り着いて、乱暴にそれらを掴んで駆けだした。
頼りない薄絹だけでも、着ていてよかった。髪が長くてよかった。きっと体は隠せてみられてない。走りながら後方を振り返る。彼の呪われたような美貌が笑みをかたちどっていた。
「殺しとかないでよかったのか? 甘党」
男は竹藪の奥、殺気をあらわに立つ大男に振り返った。自分も背は高いほうだが、この大男は獣ばりの図体をしている。
「スキン・ボリックだ。強い男から順番に殺していく。女は後だ」
「回りくどくねぇかそれ」
「己のやり方に文句があるのか」
「へーへー。むしろ心臓とらなかっただけ褒めてほしいね」
ここに居合わせたのが自分でなくあの顔色最悪なファンキー双子だったら、女としての尊厳を踏みにじるだけ踏みにじって殺害していただろう。
男は快楽のノア、名をティキ・ミック。アレン・ウォーカー殺害任務完了後、次の目的地である江戸へ向かおうとしていた矢先、同じくエクソシスト殺害任務を請け負ったこのスキンと鉢合わせたのだった。自分の場合標的を見つけ次第四の五の言わずに命を狩ってしますので、スキンのなんとも効率の悪い遂行方法にはたんに頭が悪いだけだと思うことにする。
ティキは吸い終わった煙草を地面に落とし、靴で踏みつけて火を消した。二人の闇の申し子の姿は、常夜の闇に紛れて溶けていった。
2024/9/7.
『――――――』
「呼ばれた……?」
音にないそれが聞こえて咲耶が足を止める。
「咲耶?」
「先に帰っててマリ」
「どこか行くのか?」
「うん。ちょっと」
すでにはるか前方を進んでいる神田とティエドールは気付いてもいないようで、隣を歩いていたマリにそう告げて、彼女は雑踏の中へ姿を消していった。
通りからさほど離れていない裏路地に入ると人影はなく、竹藪の森が広がっていた。躊躇なく咲耶はその中へと入っていった。灯りもなく手探りで突き進むため、時折固い葉が頭やら顔を掠めた。すばらくすると仄かな光が先に見えて、吸い寄せられるようにそこへ一歩踏み込んでみる。
森の出口のひらけた光景。夜空が広がって、あまい色をした月がやわく浮遊している。涼しい空気が肺まで入ってきた。切り立った崖から滝が流れ、深い湖をつくっていた。地面に膝をついて水面を覗き見る。
「ここにいたの」
水面に幾重にも波紋がひろがったのは、肯定の証。うっすら口角が上がった。
辺りに誰もいないことを確認して団服を脱ぎ、適当に畳んで水際においた。下に着ていた白いハーフスリップ姿で、湖に飛び込んだ。
咲耶にとって水に触れるという行為は、対話そのもの。
外界の音を遮断した、みずとわたしだけのせかい。
深く深く水底まで潜っていく。海藻や珊瑚の広がる海とは違い、灰色の石だけが積もって滝の水圧で時折転がりながら移動していた。身体を反転させ水中に四肢を投げ出してみる。揺らぐ視界の中、まあるい月もはるか彼方で泳いでる。少しだけみずに体を遊ばれながら、ゆっくりと浮上していった。
水面から顔を出し頬やら額に張り付く髪を一度かきあげる。
ふと目に入ってきた湖の中央。水面から突き出た大きな岩を見つけた。そこまで泳いで、上によじ登りまあるい月を見上げた。「アジア支部から、お月様は見えないだろうな」なんて考えた。
(なにあいつに入れ込んでんだ……)
神田の言葉が頭の中で反響する。
入れ込んでいるというよりアレンのような、アクマに対してあんな温かな気持ちを向ける人間を見たのがはじめてで、戸惑っていた。
彼の考え方はこの戦場を走り抜けるにはあまりにもぬくくて、人によっては偽善にもなりうるかもしれない。人を重んじ、アクマを愛して。自分は少し、彼にほだされている。
自分が真っ白な彼の立場だったら、同じ気持ちでいられたのか。
今、どんな気持ちでいるだろう。絶望しないで、お願い。
かわいい子。強くて儚い、かみさまのおとこのこ。だから。
「――待ってるよ。あなたの帰りを、ずっと待ってる」
左腕を、戦う力を失っていようとも。どんな姿になっていても――
「誰を?」
氷の冷たさが、耳を撫でた。反射的に首が向けた先に、その声の主はいた。
竹藪の一本に背を預け、ふかした煙草から紫煙をくゆらす一人の男。厚みのある長身は白いシャツと皺のないスラックスに包み、癖の強い黒髪から覗く双眸が、こちらを見ていた。男は竹から背を放し、煙草を指で挟んで口から放す。
「むこうの大通りにすごい美女がきたって聞いたんだけど。君のこと?」
ぞわり。人ならざるものが話している気がした。
気配がまるでなかった。煙草の匂いすら。錆びた機械のように咲耶はぎこちなく首を横にふった。
「違い……ます」
「いやそんな警戒しないでよ」
「あなた、は?」
「はじめまして。しがない流浪のお兄さんです」
口角だけが、紳士的に吊り上がっている。男は水際ぎりぎりの箇所で足をとめて、岩の上の咲耶をまじまじと凝視した。気怠げでなんとも射るような視線が咲耶の体に絡みついてくる。
思わずぎゅっと胸元を片手でおさえ、身を縮めた。今自分は人に見せていいような恰好をしていない。男は一度煙草を加えて軽く吸い、口から煙を薄く解放した。
「ふーん。君みたいなのもいるんだ」
「エクソシストって」と語尾の部分は心の内だけで男は呟く。
「俺たちそのうちまた会うと思うよ。その時は、仲良くしてね」
男の言葉の意味を汲み取れず、ただ彼と視線を交わせることしかできなかった咲耶も、そこではっと我に返る。再び湖に飛び込み団服をおいた水際まで辿り着いて、乱暴にそれらを掴んで駆けだした。
頼りない薄絹だけでも、着ていてよかった。髪が長くてよかった。きっと体は隠せてみられてない。走りながら後方を振り返る。彼の呪われたような美貌が笑みをかたちどっていた。
「殺しとかないでよかったのか? 甘党」
男は竹藪の奥、殺気をあらわに立つ大男に振り返った。自分も背は高いほうだが、この大男は獣ばりの図体をしている。
「スキン・ボリックだ。強い男から順番に殺していく。女は後だ」
「回りくどくねぇかそれ」
「己のやり方に文句があるのか」
「へーへー。むしろ心臓とらなかっただけ褒めてほしいね」
ここに居合わせたのが自分でなくあの顔色最悪なファンキー双子だったら、女としての尊厳を踏みにじるだけ踏みにじって殺害していただろう。
男は快楽のノア、名をティキ・ミック。アレン・ウォーカー殺害任務完了後、次の目的地である江戸へ向かおうとしていた矢先、同じくエクソシスト殺害任務を請け負ったこのスキンと鉢合わせたのだった。自分の場合標的を見つけ次第四の五の言わずに命を狩ってしますので、スキンのなんとも効率の悪い遂行方法にはたんに頭が悪いだけだと思うことにする。
ティキは吸い終わった煙草を地面に落とし、靴で踏みつけて火を消した。二人の闇の申し子の姿は、常夜の闇に紛れて溶けていった。
2024/9/7.
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