東雲 健吉
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屋敷に居ると、三宮万里の仕事姿を見かける事が多くなる。
今日は広間でノートパソコンを広げていた。
健吉から見ればあどけなさすら感じる万里だが、仕事に没頭する横顔からは年下とは到底思えない覚悟と風格―が伺える。
彼を眺めていると兄を思い出してしまう。万里と兄は顔も性格も全く似ていないのだが…。
―兄ちゃんより恰好いい大人はいない―
健吉は20歳を超えてからも、結構長い期間、本気で、そう思っていたのである…
―約十年前・東雲家―
ガチャン、と斜めに歪み始めた扉が開く。
健吉は畳に寝転がっていた体を起こし、顔をあげた。
「兄ちゃん。おかえりーっ」
「おう、健吉。この時間に居るなんて珍しいじゃねえか。」
健吉の兄・健司(けんじ)は建築系の職人―基本は造作大工だがとび職・型枠工等もこなす一家の大黒柱だった。
父の死去後、貧窮していた東雲家を支えるべく、高校卒業と同時に工務店へ就職した。
5年間修業の末、独立し、一人親方を経験した後、現在は数人の職人をまとめている。
「あー、就職も決まったし。ちょっとまったり、的な」
「ふーん。じゃあ飯でも食いにいくか?俺ァ明日休みなんだよ」
「!行く行く!健伸もそろそろ部活終わる頃だろーし、連絡しとくよ」
健伸(けんしん)は、健吉より下の弟で、高校生だ。
長兄の健司とは12歳も離れている為、兄弟というよりは父と子の関係に似ていた。
また、健司は母と並んでいても、親子というよりも恋人同士にも見える。
母親が若く美しい事もあったが、それ以上に健司は20代とは思えない落ち着きと貫録があったのだ。
そんな兄が、健吉にとっては誇りであり、また彼の守ろうとする家族は自身にとってもかけがえのないものだった。
「あ~、食ったー!」
健伸はラーメンのスープも全て飲み干して、無邪気に笑った。
「お前らほんっと安上がりな。ラーメン以外ないのか?」
「だって一番美味いじゃん。餃子も美味いし、ビールにも合うし」
「ビールか~、いいな兄ちゃん達、二人で飲んじゃって」
三人は狭く油臭い座敷の席で食後の余韻に浸る。
本当なら母親も呼びたいのだが、健伸にかかる今後の学費の為、今も昼夜働いている。
それは健司も同じだった。
当然健吉も高校卒業と同時に就職をするつもりでいたが、健司と母に止められたのだ。
お前は出来がいいから、と健司に頭を撫でられ、大学に進むよう促された。
いつまでも兄の庇護対象である自分が悔しくもあったが、兄の頼みごとは断れない。
結局健吉は国立大学に入学し、つい最近大手建築会社への就職を決めていた。
学部は経営学であったが、やはり兄と同じ業界の仕事に就きたかったのである。
これからは仕事の話も出来るなーとぼんやり考えていた。
団らんの中、ふと兄が真剣なトーンで切り出した。
「…お前らにもそろそろ言っとくか」
「へ?」
兄が少しはにかむように言う。
「俺、来年結婚するわ」
突然の健司の言葉に健吉と健伸は目を丸くした。
「…えっ…」
「前々から話にはあったんだけどな。…健吉の就職も決まったから、卒業後にって事で」
「…………まじ、か……」
「兄ちゃん!もしかして、前、家に連れてきてた人?」
「ああ。もう長いからな。いい加減キレられた」
はは、と健司は幸せそうに笑う。
健吉は何か喋ろうと思ったが喉が詰まったように何も言えないでいた。
すると怪訝な顔で健司が覗きこんで来る。
「健吉?なんだ、お前…反対か?」
「や!そんな訳ねーじゃん。た…ただびっくりしただけっつーか」
「うん。俺もびっくりしたよー!兄ちゃんおめでとう!」
「おう。まぁ、まだ先の話だからな。近くなったらまた話す」
健吉は至極複雑な気持ちであった。
父のように思っていた健司が、実家を出、結婚すると言うのだから。
嬉しくない訳はないが、寂しくはあった。
大事な自分の一部が離れていってしまうような、体温が奪われていくような感覚―。
健吉にも当時付き合っている女が居たが、自分の結婚等は遠い遠い話のように思っていた。
家族から離れる自分、など全く想像も出来なかったのである。
女は、同じサークルで知り合ったミカという名だった。
ミカは賢く、あまり喧嘩等はしない二人であったが、常々言われている事があった。
「健吉は私の事なんてどうでもいいんじゃない?」
そう頻繁ではないが、事ある毎にチクチク言われていた。
見当違いではないから困る。思い当たる節しかなかった。
正確に言うと、家族以外に中々興味が持てないのである。
そうしてある日ミカがせきを切ったように泣きだし、爆発した。
ミカの部屋に来ていた健吉だったが、健伸が女に振られたので、突然帰ると言いだした為である。
「うっ…酷いよ……健吉は、自分の家族と結婚したら…?」
「へ?」
「もう無理。健吉って、どうやっても私より家族の方が好きじゃん。いっつも優先する」
「いや…そんなことは………」
「あるよ。弟が失恋したって……先に約束したの私なのに。ひどい、酷い……」
ミカの言う事は最もであった。
ミカから寂しい、と夜中に電話がはいっても、せいぜい翌日に会いに行く程度だ。
けれど、家族に何かあれば健吉は飛んで帰るのだ。
「……泣くなって……」
「さわらない、で……」
曖昧な抵抗を制し、適当に甘い言葉を耳元で囁き慰める。
それからお決まりのキスと愛撫をし、ミカのベッドへとなだれこんだ。
健吉は煩わしい諍いが苦手だったが、体の触れあいは単純に好きだった。
面倒事があっても、ぬくもりを手放す事は勿体なく思われたのである。
けれどその事件から数週間後、はっきりミカから別れの言葉を頂戴してしまう。
たまりかねたミカが別の男を好きになったのだと言う。
(ま、仕方ねーか)
健吉は自分でも驚く程アッサリ身を引き、1年と9カ月の付き合いが終わってしまった。
あんなに気に入っていたカラダも自分から離れてしまえばさして興味もなく、同時に次の恋愛をする気も起きていなかった。
(本気になって、って言われてもなぁ)
(俺だってなりたいけど、なれないんだよな……)
やれやれ……と、行きつけの焼き鳥屋で一人ビールを流し込んでいた。
健吉はオシャレなイタリアンだとかカフェだとかが苦手で、好んでいく店は大抵兄と行くようなラーメン屋や飲み屋である。
大勢で飲む事も好きだったが、こうしてひとり深酒をする事も珍しくなかった。
(まぁ……だったら誰とも付き合うなって話だよな?)
(でもなぁ…好かれちゃったら断る理由ないっつーか)
思い出してみればミカとの付き合いも、彼女からの好意の告白で始まったものだった。
体中を心地よく酒がじわりと浸食していく。
ふわふわした心地でふと横を見れば、見知らぬ女がこちらをニコニコ見つめている。
「お兄さん、こんなトコで寝たら風邪ひきますよ」
「ああー…スイマセン」
店のカウンターでウトウトしていたらしい。
「私の家、来ます?」
「へ?」
「あなた東雲さん、でしょ?私もあの授業…、経営戦略論とってるの」
「あー、そーなん、だ……」
あまり働くなった頭でどうやって断るか考えるものの、鼻をくすぐる甘酸っぱい匂いに健吉は抗う事が出来なかった。
女の名前はサクラといって、健吉より2年後輩らしかった。
清らかに輝く黒髪と挑発的な目が印象的である。
それからまたサクラとの付き合いが始まったが―
大学を卒業してから社会人2年目の秋が過ぎた時期、ミカと全く同様の終わりを迎えてしまったのである。
その頃には健吉にとって家族と同じぐらい仕事が大事になってしまっていたからだ。
兄だけでなく弟も建築の仕事に興味を持ってからは、益々仕事にのめり込んだ。
家族と仕事を優先していてはサクラと会う時間など無いに等しかったのである。
健吉は特定の彼女が居れば浮気をするタイプでもないし、日頃女遊びが激しいタイプでもないのだが。
他人への執着心が薄く、相手が疲弊しきってしまい関係が終わる。
自身でもその短所を直したいと思いつつも、興味が持てないのだ。
例えば、結婚して家を出た健司が実家に帰ってくるとなれば、家族の集合以外を優先する気になど全くなれない。
健司には二人の子供も出来、兄の子供だと思えば、愛しく思えてたまらなかった。
健吉は自分の子供のように可愛がり、一層家族以外の人間に興味を持てなくなってしまっていた。
それでも健吉は、フレンドリーな雰囲気と人懐っこいキャラクターから特別な好意をもたれる事が多い。
皮肉な事に、ガツガツしていない所がいい、等とも言われる。
けれど、仕事関係の人間とだけは絶対に関係を持たないと決めていたので、社会人になってからは彼女の居ない期間も続いた。
飲み屋で知り合ったOLと付き合った事もあったが、やはり1年程度で終わりを迎えていた。
月日は流れ―健吉は関わったプロジェクトでいずれも利益を伸ばしていった。
同期の中で一番の出世頭となり、益々女にモテるようになっていく。
また、そのように好意を寄せる人間の中には、男も混じっていることを知り、健吉を驚かせた事もある。
あれはいつかの忘年会。同じ部署の上司やら部下やら、無礼講で全員呑んで騒いでいた。
当然健吉も盛大に酔っ払い、最後には広い座敷の席に大の字で横たわっていたのだが―
気が付けばとある一人の同期の唇が自分の頬をかすめていた。酒がまわって薄れる意識の中だったが、はっきりと覚えている。
それから、頭をなでられた記憶。
男になど興味は持てないのだが、触れる手は優しく、寧ろ心地よいと感じてしまった。
東雲家はスキンシップの多い家庭で、兄とも弟とも一緒に眠ったりじゃれあったり風呂にはいったりしていた。
特に兄は褒める時頭をなでる癖があって、あの時間が酷く好きだった。
だからかもしれない。
今兄のあの優しい手は、自分達兄弟のものではなく、兄自身の子供たちのものである。
別段悲しいだとか思った事はないが、何かを諦めるような気分ではあった。
だからといって、兄に代わるぬくもりなど存在しないだろう。健吉はぼんやりとそう考えるようになっていた―
「―ふう……」
万里は仕事用の眼鏡を外しため息を吐いた。
休憩をはさみたいように見られたので、健吉は紅茶を淹れる。
珈琲しか飲まない健吉は紅茶など当然淹れた事もなかったが。
万里の為に進藤から巧い淹れ方を教わり、最近では自分なりのコツも掴めてきた。
「はい、どーぞ」
「ああ」
万里の整った眉目に少しだけ疲れの色が見える。
いつも驚く程強引で、子供のような独善的な感情をぶつけてくる万里。
かと思えば、想像出来ない程大きなプレッシャーの中、愚痴も言わず淡々と成果をあげ続けている。
その裏にはどれだけの努力があるだろうか。
彼と接する機会が増えて、健吉は何かしらシンパシーを感じてしまう部分があった。
家族のように近しく思うことすらある。
友達にも恋人にも覚えた事のない感情だった。
「お前もここに座れ」
ソファの隣席を示して万里が言う。
「あ、…はい……じゃあお言葉に甘えて」
「美味く淹れられるようになったじゃないか。お前も飲んでみろ」
「ありがとーございます。最近じゃ自分でも巧くなったなーとか思ったり」
「―…俺は疲れた。少し寝る」
「…っえ…?」
万里が健吉の肩にもたれかかるようにして目をつむった。
やはり、疲れていたらしい。
彼は時々こうして、親しい友人のように接してくる事があり、健吉も次第にそれを嬉しく思うようになっていた。
万里の熱がじわじわ体に届いて、くすぐったい。
出会い方を思い出せば、彼がどれだけ面倒な人物か解らないはずがないのだが―健吉は幸せなぬくもりから逃れる事など出来そうになかった。
fin
今日は広間でノートパソコンを広げていた。
健吉から見ればあどけなさすら感じる万里だが、仕事に没頭する横顔からは年下とは到底思えない覚悟と風格―が伺える。
彼を眺めていると兄を思い出してしまう。万里と兄は顔も性格も全く似ていないのだが…。
―兄ちゃんより恰好いい大人はいない―
健吉は20歳を超えてからも、結構長い期間、本気で、そう思っていたのである…
―約十年前・東雲家―
ガチャン、と斜めに歪み始めた扉が開く。
健吉は畳に寝転がっていた体を起こし、顔をあげた。
「兄ちゃん。おかえりーっ」
「おう、健吉。この時間に居るなんて珍しいじゃねえか。」
健吉の兄・健司(けんじ)は建築系の職人―基本は造作大工だがとび職・型枠工等もこなす一家の大黒柱だった。
父の死去後、貧窮していた東雲家を支えるべく、高校卒業と同時に工務店へ就職した。
5年間修業の末、独立し、一人親方を経験した後、現在は数人の職人をまとめている。
「あー、就職も決まったし。ちょっとまったり、的な」
「ふーん。じゃあ飯でも食いにいくか?俺ァ明日休みなんだよ」
「!行く行く!健伸もそろそろ部活終わる頃だろーし、連絡しとくよ」
健伸(けんしん)は、健吉より下の弟で、高校生だ。
長兄の健司とは12歳も離れている為、兄弟というよりは父と子の関係に似ていた。
また、健司は母と並んでいても、親子というよりも恋人同士にも見える。
母親が若く美しい事もあったが、それ以上に健司は20代とは思えない落ち着きと貫録があったのだ。
そんな兄が、健吉にとっては誇りであり、また彼の守ろうとする家族は自身にとってもかけがえのないものだった。
「あ~、食ったー!」
健伸はラーメンのスープも全て飲み干して、無邪気に笑った。
「お前らほんっと安上がりな。ラーメン以外ないのか?」
「だって一番美味いじゃん。餃子も美味いし、ビールにも合うし」
「ビールか~、いいな兄ちゃん達、二人で飲んじゃって」
三人は狭く油臭い座敷の席で食後の余韻に浸る。
本当なら母親も呼びたいのだが、健伸にかかる今後の学費の為、今も昼夜働いている。
それは健司も同じだった。
当然健吉も高校卒業と同時に就職をするつもりでいたが、健司と母に止められたのだ。
お前は出来がいいから、と健司に頭を撫でられ、大学に進むよう促された。
いつまでも兄の庇護対象である自分が悔しくもあったが、兄の頼みごとは断れない。
結局健吉は国立大学に入学し、つい最近大手建築会社への就職を決めていた。
学部は経営学であったが、やはり兄と同じ業界の仕事に就きたかったのである。
これからは仕事の話も出来るなーとぼんやり考えていた。
団らんの中、ふと兄が真剣なトーンで切り出した。
「…お前らにもそろそろ言っとくか」
「へ?」
兄が少しはにかむように言う。
「俺、来年結婚するわ」
突然の健司の言葉に健吉と健伸は目を丸くした。
「…えっ…」
「前々から話にはあったんだけどな。…健吉の就職も決まったから、卒業後にって事で」
「…………まじ、か……」
「兄ちゃん!もしかして、前、家に連れてきてた人?」
「ああ。もう長いからな。いい加減キレられた」
はは、と健司は幸せそうに笑う。
健吉は何か喋ろうと思ったが喉が詰まったように何も言えないでいた。
すると怪訝な顔で健司が覗きこんで来る。
「健吉?なんだ、お前…反対か?」
「や!そんな訳ねーじゃん。た…ただびっくりしただけっつーか」
「うん。俺もびっくりしたよー!兄ちゃんおめでとう!」
「おう。まぁ、まだ先の話だからな。近くなったらまた話す」
健吉は至極複雑な気持ちであった。
父のように思っていた健司が、実家を出、結婚すると言うのだから。
嬉しくない訳はないが、寂しくはあった。
大事な自分の一部が離れていってしまうような、体温が奪われていくような感覚―。
健吉にも当時付き合っている女が居たが、自分の結婚等は遠い遠い話のように思っていた。
家族から離れる自分、など全く想像も出来なかったのである。
女は、同じサークルで知り合ったミカという名だった。
ミカは賢く、あまり喧嘩等はしない二人であったが、常々言われている事があった。
「健吉は私の事なんてどうでもいいんじゃない?」
そう頻繁ではないが、事ある毎にチクチク言われていた。
見当違いではないから困る。思い当たる節しかなかった。
正確に言うと、家族以外に中々興味が持てないのである。
そうしてある日ミカがせきを切ったように泣きだし、爆発した。
ミカの部屋に来ていた健吉だったが、健伸が女に振られたので、突然帰ると言いだした為である。
「うっ…酷いよ……健吉は、自分の家族と結婚したら…?」
「へ?」
「もう無理。健吉って、どうやっても私より家族の方が好きじゃん。いっつも優先する」
「いや…そんなことは………」
「あるよ。弟が失恋したって……先に約束したの私なのに。ひどい、酷い……」
ミカの言う事は最もであった。
ミカから寂しい、と夜中に電話がはいっても、せいぜい翌日に会いに行く程度だ。
けれど、家族に何かあれば健吉は飛んで帰るのだ。
「……泣くなって……」
「さわらない、で……」
曖昧な抵抗を制し、適当に甘い言葉を耳元で囁き慰める。
それからお決まりのキスと愛撫をし、ミカのベッドへとなだれこんだ。
健吉は煩わしい諍いが苦手だったが、体の触れあいは単純に好きだった。
面倒事があっても、ぬくもりを手放す事は勿体なく思われたのである。
けれどその事件から数週間後、はっきりミカから別れの言葉を頂戴してしまう。
たまりかねたミカが別の男を好きになったのだと言う。
(ま、仕方ねーか)
健吉は自分でも驚く程アッサリ身を引き、1年と9カ月の付き合いが終わってしまった。
あんなに気に入っていたカラダも自分から離れてしまえばさして興味もなく、同時に次の恋愛をする気も起きていなかった。
(本気になって、って言われてもなぁ)
(俺だってなりたいけど、なれないんだよな……)
やれやれ……と、行きつけの焼き鳥屋で一人ビールを流し込んでいた。
健吉はオシャレなイタリアンだとかカフェだとかが苦手で、好んでいく店は大抵兄と行くようなラーメン屋や飲み屋である。
大勢で飲む事も好きだったが、こうしてひとり深酒をする事も珍しくなかった。
(まぁ……だったら誰とも付き合うなって話だよな?)
(でもなぁ…好かれちゃったら断る理由ないっつーか)
思い出してみればミカとの付き合いも、彼女からの好意の告白で始まったものだった。
体中を心地よく酒がじわりと浸食していく。
ふわふわした心地でふと横を見れば、見知らぬ女がこちらをニコニコ見つめている。
「お兄さん、こんなトコで寝たら風邪ひきますよ」
「ああー…スイマセン」
店のカウンターでウトウトしていたらしい。
「私の家、来ます?」
「へ?」
「あなた東雲さん、でしょ?私もあの授業…、経営戦略論とってるの」
「あー、そーなん、だ……」
あまり働くなった頭でどうやって断るか考えるものの、鼻をくすぐる甘酸っぱい匂いに健吉は抗う事が出来なかった。
女の名前はサクラといって、健吉より2年後輩らしかった。
清らかに輝く黒髪と挑発的な目が印象的である。
それからまたサクラとの付き合いが始まったが―
大学を卒業してから社会人2年目の秋が過ぎた時期、ミカと全く同様の終わりを迎えてしまったのである。
その頃には健吉にとって家族と同じぐらい仕事が大事になってしまっていたからだ。
兄だけでなく弟も建築の仕事に興味を持ってからは、益々仕事にのめり込んだ。
家族と仕事を優先していてはサクラと会う時間など無いに等しかったのである。
健吉は特定の彼女が居れば浮気をするタイプでもないし、日頃女遊びが激しいタイプでもないのだが。
他人への執着心が薄く、相手が疲弊しきってしまい関係が終わる。
自身でもその短所を直したいと思いつつも、興味が持てないのだ。
例えば、結婚して家を出た健司が実家に帰ってくるとなれば、家族の集合以外を優先する気になど全くなれない。
健司には二人の子供も出来、兄の子供だと思えば、愛しく思えてたまらなかった。
健吉は自分の子供のように可愛がり、一層家族以外の人間に興味を持てなくなってしまっていた。
それでも健吉は、フレンドリーな雰囲気と人懐っこいキャラクターから特別な好意をもたれる事が多い。
皮肉な事に、ガツガツしていない所がいい、等とも言われる。
けれど、仕事関係の人間とだけは絶対に関係を持たないと決めていたので、社会人になってからは彼女の居ない期間も続いた。
飲み屋で知り合ったOLと付き合った事もあったが、やはり1年程度で終わりを迎えていた。
月日は流れ―健吉は関わったプロジェクトでいずれも利益を伸ばしていった。
同期の中で一番の出世頭となり、益々女にモテるようになっていく。
また、そのように好意を寄せる人間の中には、男も混じっていることを知り、健吉を驚かせた事もある。
あれはいつかの忘年会。同じ部署の上司やら部下やら、無礼講で全員呑んで騒いでいた。
当然健吉も盛大に酔っ払い、最後には広い座敷の席に大の字で横たわっていたのだが―
気が付けばとある一人の同期の唇が自分の頬をかすめていた。酒がまわって薄れる意識の中だったが、はっきりと覚えている。
それから、頭をなでられた記憶。
男になど興味は持てないのだが、触れる手は優しく、寧ろ心地よいと感じてしまった。
東雲家はスキンシップの多い家庭で、兄とも弟とも一緒に眠ったりじゃれあったり風呂にはいったりしていた。
特に兄は褒める時頭をなでる癖があって、あの時間が酷く好きだった。
だからかもしれない。
今兄のあの優しい手は、自分達兄弟のものではなく、兄自身の子供たちのものである。
別段悲しいだとか思った事はないが、何かを諦めるような気分ではあった。
だからといって、兄に代わるぬくもりなど存在しないだろう。健吉はぼんやりとそう考えるようになっていた―
「―ふう……」
万里は仕事用の眼鏡を外しため息を吐いた。
休憩をはさみたいように見られたので、健吉は紅茶を淹れる。
珈琲しか飲まない健吉は紅茶など当然淹れた事もなかったが。
万里の為に進藤から巧い淹れ方を教わり、最近では自分なりのコツも掴めてきた。
「はい、どーぞ」
「ああ」
万里の整った眉目に少しだけ疲れの色が見える。
いつも驚く程強引で、子供のような独善的な感情をぶつけてくる万里。
かと思えば、想像出来ない程大きなプレッシャーの中、愚痴も言わず淡々と成果をあげ続けている。
その裏にはどれだけの努力があるだろうか。
彼と接する機会が増えて、健吉は何かしらシンパシーを感じてしまう部分があった。
家族のように近しく思うことすらある。
友達にも恋人にも覚えた事のない感情だった。
「お前もここに座れ」
ソファの隣席を示して万里が言う。
「あ、…はい……じゃあお言葉に甘えて」
「美味く淹れられるようになったじゃないか。お前も飲んでみろ」
「ありがとーございます。最近じゃ自分でも巧くなったなーとか思ったり」
「―…俺は疲れた。少し寝る」
「…っえ…?」
万里が健吉の肩にもたれかかるようにして目をつむった。
やはり、疲れていたらしい。
彼は時々こうして、親しい友人のように接してくる事があり、健吉も次第にそれを嬉しく思うようになっていた。
万里の熱がじわじわ体に届いて、くすぐったい。
出会い方を思い出せば、彼がどれだけ面倒な人物か解らないはずがないのだが―健吉は幸せなぬくもりから逃れる事など出来そうになかった。
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