日ノ原 楓
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今から―数年前の秋。
築40年の、古びたアパートの2階―小野寺の部屋。楓は酷く困惑していた。
以前より親しくしている小野寺龍が資金的な援助を申し出て来たからだ。
神経線維腫症Ⅰ型―レックリングハウゼン病。慢性的な遺伝病を発祥している弟―晴太の為である。
「…そういうのはいいって」
「お前なぁ。進学しないで入団テスト受けるって…、納得できる訳ないだろ」
「だからって……何で龍にぃにそこまで面倒みて貰うって話になるんだよ」
小野寺とは確かに家族のように親しい。
こうして小野寺の部屋に訪ねてくつろぐ事も少なくないぐらいに。
寧ろ、ほとんど晴太につきっきりの両親とよりも話す事が多いかもしれなかった。
―それでも。
結局は家が近いだけの他人である。
「俺に反対されんの、解ってて話したんだろ?」
「…それは……そうだけど………」
小野寺の言う事はもっともであった。
反対されると解っていて、伝えてしまう。
それが習慣である事には違いないが、同時に楓自身の葛藤のあらわれでもあった。
楓は甲子園出場経験のある、未来を嘱望された高校球児だった。
しかもその甘いルックスから、球界の王子などと呼ばれ女性人気も高い。
彼の為に、野球のルールすら知らない女性陣が練習風景に押し寄せる程だ。
そんな楓であれば喜んで受け入れる球団が山ほどあるにはあるのだが。
元々大学に進学したいと言っていたのは、楓自身であった。
きちんと整備された環境で、学術的な側面からも野球を学びたいと考えているのだ。
憧れてやまない早慶戦だって経験したい。
また、野球とは別に、教職にも多少なり興味があった。資格自体に興味があるわけではなくスポーツ分野の教育学に惹かれていた。
しかも楓であれば推薦枠は確実で、奨学金もおりるだろう。
それでも―進学をあきらめる理由がある。
晴太が―神経線維腫症Ⅰ型から悪性末梢神経鞘腫瘍を引き起こした事から事態が悪くなっていた。
摘出手術をこれから行うのだが、成功率は極めて低く、再発率も高い。
国の補助金もあるが、ストレスから体調不良を引き起こしてしまった母親に代わって父親が晴太の面倒をみるといった事が続き、父親は仕事の降格を余儀なくされていた。
更に楓の通う高校は甲子園出場経験の豊富な私立高校である。
学費の納入も今の両親にとっては重荷であり、教育ローンに頼っても易々と払える額ではなかった。
家計が逼迫していることは、楓から見ても明らかだった。
「……お前がほんとにそれでいーなら俺はいい。けど―」
「いいんだって。俺が決めたんだから」
「家族には相談したか?」
「…………………」
「おい、俺に話す前に話す相手が居るんじゃねえか」
「……いいよ」
「いい訳ねーだろ!」
「………いいんだよ!お母さん達が俺の事までかまう余裕あるわけないだろ?!」
「余裕とかそういう問題じゃない。親に養って貰ってんなら、筋を通せ」
「…………………」
目をそらす楓。
小野寺が顔を覗き込む。
「俺もそうだったけどよ……親としっかり話さねーと後悔するぞ」
「…………っと……」
「ん?」
「もっと、後悔……するかも、しれないじゃん……」
「…どういう意味だ」
「…………………」
言葉に詰まる。
(こんな子供っぽい事言えない―)
進学を辞めると申し出て、父親も母親も口では反対するかもしれない。
けれど―心の中ではホっとして―それが表情にあらわれるかもしれないと楓は思った。
そんな様子を見たくなかった。
「黙ってたら解んないだろ。…お前がそーいう態度なら俺は
反対だ」
「………っ」
「大人しく進学しろ。金のことなら心配すんな」
「……嫌だってば!何でそんな事までして貰わなきゃいけないんだよ!」
「俺からみたらお前なんかまだ子供なんだから、素直に甘えとけ。そのうちお前んち行って話してやってもいい」
小野寺は楓の両親とも顔なじみだった。
―確かに小野寺の経営する小料理屋は繁盛していて、金銭的にも余裕がある事は解る。
しかも料理以外にあまり興味が無い彼で、住まいも店が繁盛する前から住んでいる木造アパート。
つまり収入に対して支出が圧倒的に少なく、蓄えは貯まる一方だった。
「子供って……………俺はもう子供じゃ…」
「筋も通さねえで勝手するなんざガキの証拠だろうが」
「…………っうるさい!」
たまりかねて叫び、立ち上がった。
確かに自分は子供に違いない。けれど―家族でもなんでもない人間の世話になどなれる訳がないのだ。
それなのに……当たり前のように、自分の意志とは無関係にまるで自分の子供のように扱って勝手に話をすすめる小野寺に苛立った。
「おい、帰んのか」
「……………」
楓は小野寺の言葉を無視して玄関口に向かう。
こんな態度が益々ガキっぽくて、自分で自分が嫌になる。
けど、今顔を見て話せばもっと子供じみた事を言ってしまうに違いない。楓は後ろを振り返らずにアパートを飛び出した。
それから1週間後―晴太の腫瘍摘出手術が行われた。
朝から雨が降り続いている日だった。
数時間にも及ぶ手術自体は成功したが…すでに転移している可能性がゼロではなく、また再発の可能性も極めて高い事が告げられる。
両親の表情は一向に晴れない。
窓から見える雨空も、永遠に続くように思われた。
「ごめんね。…あんたにまで心配かけて」
母の顔はこれ以上ない程疲れきっていた。
生真面目な母を父が支えるように抱く。
父もまた、そんな母を見て酷く辛そうである。
それから程なくして―晴太の意識が戻った。
「晴太………」
「おかーさん…」
母の目から大粒の涙がこぼれる。
「お母さん、泣いてるの…?俺のせい?」
「…晴太の手術が成功したから、嬉しくて泣いてるのよ」
「本当………?」
「うん。本当……良かったねえ、晴太」
そう言って晴太の頭をなでる。
母の涙が嬉しいだけの涙ではない事を楓は解って、心臓を掴まれるみたいに胸が痛かった。
これから降りかかる苦労を晴太に気取られないようにと振る舞う母―同じように笑う父。
…今の自分は何もしてあげられない。
……それなら―すべき事はもう決まってるじゃないか。
……大学なんて行かなくたって、俺は野球が出来れば……。
その晩、楓は自宅には戻らなかった。
―小野寺のアパートに向かっていたのである。
「………楓?」
アパートの前で蹲っていると、―帰ってきた小野寺が少し驚いたような表情で声をかけてくれる。
「龍にぃ。……その………………」
この間喧嘩腰で出ていってしまったのに。>
何かあるとついつい此処に向かってしまう自分が情けなく、目を泳がせてしまう。
「お前いつから居たんだ?腕、冷えちまうぞ」
小野寺に促されるまま部屋に入る。>
野球選手として、楓の腕を誰よりも慮っていた。
「ほら、飲めよ」
温かい緑茶を差し出される。
小野寺はいつもこうして、自分が言わなければならない事を言わないうちに酷く甘やかしてくれるのだ。
それが心地よくて。
でも、これじゃ駄目だ、と何度も後悔する。
両親にとっても小野寺にとっても負担になりたくない、のに。
「……………」
「…………………手術、どうだったんだよ」
「あ………、うまく、いったよ」
「そうか」
ホっとした顔で少しだけ口元を緩めて笑う小野寺。
小野寺は表情が豊かな方ではないからか…楓はその顔が好きだった。
「良かったじゃねーか。…お前は余計な心配しないで進学しろ」
「…無理。転移も再発も可能性が高いんだって」
「…腫瘍なんてそういうもんじゃねーの」
「……………」
「……もう、金がどーこーって話はしねえからよ、とりあえずお前はお前が思ってる事を親に話せ」
「え…………」
「そりゃ弟にばっかり時間使っちまうだろうけど、お前のことが大事じゃねーわけねえだろ。そーいう事を相談もせず勝手に決めたら親がすげぇ傷つくの、解んねーか?」
「………っ」
小野寺には自分の考えが読めるのだろうか。
自分が危惧していたような事をピタリと言われて、力が入る。
「心配すんなって。お前見てたら、どんだけ愛されってか…解るから。だからちゃんと話してやれ」
「……………っ」
―どうして龍にぃは、いつも俺の欲しい言葉をくれるんだろう―
目頭が熱くなって、こみ上がってくるものを誤魔化す為に下を向く。
小野寺はソレに気が付いたのか、わしゃわしゃと楓の頭を撫でた。
「飯、食うだろ。適当に作ってやるから座ってな」
「………うん」
ありがと、と小さく付け加える。
その声が届いたのか否か解らないが、またあの優しい笑みを向けてくれたので、楓は酷く安心した。
それから二人で食事をして、風呂も借りて、布団まで用意して貰う。
窓の外を見れば、雨は弱まっていた。
「電気消すぞ」
「うん」
パチンと音がして眠りにつく。
―そうして…少しウトウトし始めた時だった。
ガチャリ…と扉が開く。
(え………?!)
驚いて、反射的に起き上がり、電気をつける。
―と、そこには―
「ちはる、さん…?」
「……楓くん?久しぶり。ごめん……起しちゃった?」
小野寺とは長い付き合いになる彼女、千春が立っていた。
何年か前になるが、挨拶をし、軽く言葉をかわした事がある。
「いえ……、まだ眠ってなかったんで、大丈夫です」
「ごめんね。楓くん来てるって聞いたから、凄く静かに入ったつもりだったんだけど……」
「いえいえ……俺こそすいません」
「何でお前らが謝るんだよ。俺んちだろーが。」
「あ、そういえばそうね」
クスクスと千春が笑う。楓もつられて笑った。
聞けば、看護婦である千春の担当患者が彼女を気に入り、家まで着いてきかねない勢いだったと言う。
準夜勤を終えた自分をつけ狙う男に気が付き、たまりかねて小野寺の家に急遽泊ることにしたらしい。
「狭くて悪いが、三人で寝んぞ」
「……ありがとう、龍」
千春は少女のように微笑む。小野寺もその目を優しく見つめ返していた。
「………えーと…俺お邪魔みたいだから帰ろっかな」
楓は少し茶化すように言う。
「何馬鹿言ってる。こんな時間にガキを外にやれるか」
「…ガキっても、もう普通に男なんですけど」
「お前童顔だからなあ…間違えたら女に見えるし」
「…ひでー。気にしてるのに」
「ほんとね。楓くん、昔から綺麗な顔してる」
そして「夜道は危ないから、お願い、泊っていって」と千春は付け加えて言った。
二人に促され、返す言葉が見当たらない。
仕方なく、小野寺を真ん中にして、三人で川の字のようになって眠る。
…楓は何故か目が冴えて、眠りにつけないでいた。
トイレに行こうと、立ち上がると月明かりに小野寺と千春がうつしだされている。
タンクトップからのぞく、小野寺の逞しい腕。その中へもぐりこんで眠っている、小動物みたいな千春。
当たり前に、べったりとくっついてる男女がいた。
楓は、顔を赤くして目をそらす。何だか恥ずかしくて見ていられなかったのだ。
男子高という事もあり、楓も楓の友達も恋愛経験のない人間がほとんどである。
小野寺にとっては日常でも、楓にとっては遠い世界―ドラマや漫画での出来事のように見えるのだ。
単に二人が肌を寄せ合って眠っているだけでも楓にとっては強い刺激があった。
(龍にぃも……この人とセックス……とか、するんだよな……)
ふと浮かんだ考え。
瞬間、小野寺と千春が裸で絡み合うシーンが脳裏に浮かぶ。
(………っ…俺、何考えてんだ!)
下品な想像を打ち消すように布団の中へもぐりこむ。
けれど一度浮かんでしまった情景はそう簡単に消えてくれない。
それどころか、何度か友達と一緒に見たAV―とリンクして段々映像化していってしまう。
―千春の足を抱えあげて、激しく律動する小野寺―
―AVの男は女を想いやるようなそぶり等見せないけれど
小野寺なら、名前を呼び、優しく彼女を抱きしめるだろうか―
…どんどんリアルになっていく想像。
しかも―それが現実味を帯びる程、何故か息苦しさを感じていった。
こんな想像をする自分への嫌悪からだろうか?
辛い。
苦しい。
冴えていく頭。
…ダメだと思うのに、反応する体…
朝の訪れを強く願うしかなかった。
翌朝、睡眠不足のまま小野寺のアパートを出て行った。
仕事が休みの小野寺と、夜勤の千春は楓を見送ってくれる。
「お前……ちゃんと、親と話せよ」
「…わかってる」
「またね、楓くん」
二人が穏やかに手をふる。
楓の両親は仲が良く、…二人もきっとあんな夫婦になるんだろうな、等とチラリ思った。
そして…小野寺はやはり他人であって家族ではない、と実感してしまう。
―ああ、だからか………
そのことが寂しくて、昨夜、胸の苦しさを覚えていたのだと気が付いた。
小野寺は他人なんだから頼ってはいけない、等と言い聞かせながらも、こんな事を感じるなんて。
自分はなんて甘ったれなんだろう―と、いっそ笑えてきてしまう。
雨はやんで、曇り空が広がっていた。
太陽が少しだけ顔をのぞかせ、光がそこかしこに漏れている。
****
それから楓は両親と話し合い―結局進学することを決めた。
両親も、晴太でさえも進学を望んでいたからである。
寧ろ、進学しなければ許さないとまで言われてしまった。
―お前を見ていれば、どれだけ愛されているか、解る
小野寺の言葉がよぎった。
両親にも、弟にもこんなに想って貰っている。
自分はなんにも解っていないんだな、と苦笑した。
子供だと思われて、当然だ。
―早く大人になりたい。
体面だけではなく、心も体も全部。
強くそう感じた。
親でも兄でもない小野寺。
家族には絶対なれないのなら―せめて、同じ男として対等な関係を築いていきたい。
そんな風に思ったのだった。
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築40年の、古びたアパートの2階―小野寺の部屋。楓は酷く困惑していた。
以前より親しくしている小野寺龍が資金的な援助を申し出て来たからだ。
神経線維腫症Ⅰ型―レックリングハウゼン病。慢性的な遺伝病を発祥している弟―晴太の為である。
「…そういうのはいいって」
「お前なぁ。進学しないで入団テスト受けるって…、納得できる訳ないだろ」
「だからって……何で龍にぃにそこまで面倒みて貰うって話になるんだよ」
小野寺とは確かに家族のように親しい。
こうして小野寺の部屋に訪ねてくつろぐ事も少なくないぐらいに。
寧ろ、ほとんど晴太につきっきりの両親とよりも話す事が多いかもしれなかった。
―それでも。
結局は家が近いだけの他人である。
「俺に反対されんの、解ってて話したんだろ?」
「…それは……そうだけど………」
小野寺の言う事はもっともであった。
反対されると解っていて、伝えてしまう。
それが習慣である事には違いないが、同時に楓自身の葛藤のあらわれでもあった。
楓は甲子園出場経験のある、未来を嘱望された高校球児だった。
しかもその甘いルックスから、球界の王子などと呼ばれ女性人気も高い。
彼の為に、野球のルールすら知らない女性陣が練習風景に押し寄せる程だ。
そんな楓であれば喜んで受け入れる球団が山ほどあるにはあるのだが。
元々大学に進学したいと言っていたのは、楓自身であった。
きちんと整備された環境で、学術的な側面からも野球を学びたいと考えているのだ。
憧れてやまない早慶戦だって経験したい。
また、野球とは別に、教職にも多少なり興味があった。資格自体に興味があるわけではなくスポーツ分野の教育学に惹かれていた。
しかも楓であれば推薦枠は確実で、奨学金もおりるだろう。
それでも―進学をあきらめる理由がある。
晴太が―神経線維腫症Ⅰ型から悪性末梢神経鞘腫瘍を引き起こした事から事態が悪くなっていた。
摘出手術をこれから行うのだが、成功率は極めて低く、再発率も高い。
国の補助金もあるが、ストレスから体調不良を引き起こしてしまった母親に代わって父親が晴太の面倒をみるといった事が続き、父親は仕事の降格を余儀なくされていた。
更に楓の通う高校は甲子園出場経験の豊富な私立高校である。
学費の納入も今の両親にとっては重荷であり、教育ローンに頼っても易々と払える額ではなかった。
家計が逼迫していることは、楓から見ても明らかだった。
「……お前がほんとにそれでいーなら俺はいい。けど―」
「いいんだって。俺が決めたんだから」
「家族には相談したか?」
「…………………」
「おい、俺に話す前に話す相手が居るんじゃねえか」
「……いいよ」
「いい訳ねーだろ!」
「………いいんだよ!お母さん達が俺の事までかまう余裕あるわけないだろ?!」
「余裕とかそういう問題じゃない。親に養って貰ってんなら、筋を通せ」
「…………………」
目をそらす楓。
小野寺が顔を覗き込む。
「俺もそうだったけどよ……親としっかり話さねーと後悔するぞ」
「…………っと……」
「ん?」
「もっと、後悔……するかも、しれないじゃん……」
「…どういう意味だ」
「…………………」
言葉に詰まる。
(こんな子供っぽい事言えない―)
進学を辞めると申し出て、父親も母親も口では反対するかもしれない。
けれど―心の中ではホっとして―それが表情にあらわれるかもしれないと楓は思った。
そんな様子を見たくなかった。
「黙ってたら解んないだろ。…お前がそーいう態度なら俺は
反対だ」
「………っ」
「大人しく進学しろ。金のことなら心配すんな」
「……嫌だってば!何でそんな事までして貰わなきゃいけないんだよ!」
「俺からみたらお前なんかまだ子供なんだから、素直に甘えとけ。そのうちお前んち行って話してやってもいい」
小野寺は楓の両親とも顔なじみだった。
―確かに小野寺の経営する小料理屋は繁盛していて、金銭的にも余裕がある事は解る。
しかも料理以外にあまり興味が無い彼で、住まいも店が繁盛する前から住んでいる木造アパート。
つまり収入に対して支出が圧倒的に少なく、蓄えは貯まる一方だった。
「子供って……………俺はもう子供じゃ…」
「筋も通さねえで勝手するなんざガキの証拠だろうが」
「…………っうるさい!」
たまりかねて叫び、立ち上がった。
確かに自分は子供に違いない。けれど―家族でもなんでもない人間の世話になどなれる訳がないのだ。
それなのに……当たり前のように、自分の意志とは無関係にまるで自分の子供のように扱って勝手に話をすすめる小野寺に苛立った。
「おい、帰んのか」
「……………」
楓は小野寺の言葉を無視して玄関口に向かう。
こんな態度が益々ガキっぽくて、自分で自分が嫌になる。
けど、今顔を見て話せばもっと子供じみた事を言ってしまうに違いない。楓は後ろを振り返らずにアパートを飛び出した。
それから1週間後―晴太の腫瘍摘出手術が行われた。
朝から雨が降り続いている日だった。
数時間にも及ぶ手術自体は成功したが…すでに転移している可能性がゼロではなく、また再発の可能性も極めて高い事が告げられる。
両親の表情は一向に晴れない。
窓から見える雨空も、永遠に続くように思われた。
「ごめんね。…あんたにまで心配かけて」
母の顔はこれ以上ない程疲れきっていた。
生真面目な母を父が支えるように抱く。
父もまた、そんな母を見て酷く辛そうである。
それから程なくして―晴太の意識が戻った。
「晴太………」
「おかーさん…」
母の目から大粒の涙がこぼれる。
「お母さん、泣いてるの…?俺のせい?」
「…晴太の手術が成功したから、嬉しくて泣いてるのよ」
「本当………?」
「うん。本当……良かったねえ、晴太」
そう言って晴太の頭をなでる。
母の涙が嬉しいだけの涙ではない事を楓は解って、心臓を掴まれるみたいに胸が痛かった。
これから降りかかる苦労を晴太に気取られないようにと振る舞う母―同じように笑う父。
…今の自分は何もしてあげられない。
……それなら―すべき事はもう決まってるじゃないか。
……大学なんて行かなくたって、俺は野球が出来れば……。
その晩、楓は自宅には戻らなかった。
―小野寺のアパートに向かっていたのである。
「………楓?」
アパートの前で蹲っていると、―帰ってきた小野寺が少し驚いたような表情で声をかけてくれる。
「龍にぃ。……その………………」
この間喧嘩腰で出ていってしまったのに。>
何かあるとついつい此処に向かってしまう自分が情けなく、目を泳がせてしまう。
「お前いつから居たんだ?腕、冷えちまうぞ」
小野寺に促されるまま部屋に入る。>
野球選手として、楓の腕を誰よりも慮っていた。
「ほら、飲めよ」
温かい緑茶を差し出される。
小野寺はいつもこうして、自分が言わなければならない事を言わないうちに酷く甘やかしてくれるのだ。
それが心地よくて。
でも、これじゃ駄目だ、と何度も後悔する。
両親にとっても小野寺にとっても負担になりたくない、のに。
「……………」
「…………………手術、どうだったんだよ」
「あ………、うまく、いったよ」
「そうか」
ホっとした顔で少しだけ口元を緩めて笑う小野寺。
小野寺は表情が豊かな方ではないからか…楓はその顔が好きだった。
「良かったじゃねーか。…お前は余計な心配しないで進学しろ」
「…無理。転移も再発も可能性が高いんだって」
「…腫瘍なんてそういうもんじゃねーの」
「……………」
「……もう、金がどーこーって話はしねえからよ、とりあえずお前はお前が思ってる事を親に話せ」
「え…………」
「そりゃ弟にばっかり時間使っちまうだろうけど、お前のことが大事じゃねーわけねえだろ。そーいう事を相談もせず勝手に決めたら親がすげぇ傷つくの、解んねーか?」
「………っ」
小野寺には自分の考えが読めるのだろうか。
自分が危惧していたような事をピタリと言われて、力が入る。
「心配すんなって。お前見てたら、どんだけ愛されってか…解るから。だからちゃんと話してやれ」
「……………っ」
―どうして龍にぃは、いつも俺の欲しい言葉をくれるんだろう―
目頭が熱くなって、こみ上がってくるものを誤魔化す為に下を向く。
小野寺はソレに気が付いたのか、わしゃわしゃと楓の頭を撫でた。
「飯、食うだろ。適当に作ってやるから座ってな」
「………うん」
ありがと、と小さく付け加える。
その声が届いたのか否か解らないが、またあの優しい笑みを向けてくれたので、楓は酷く安心した。
それから二人で食事をして、風呂も借りて、布団まで用意して貰う。
窓の外を見れば、雨は弱まっていた。
「電気消すぞ」
「うん」
パチンと音がして眠りにつく。
―そうして…少しウトウトし始めた時だった。
ガチャリ…と扉が開く。
(え………?!)
驚いて、反射的に起き上がり、電気をつける。
―と、そこには―
「ちはる、さん…?」
「……楓くん?久しぶり。ごめん……起しちゃった?」
小野寺とは長い付き合いになる彼女、千春が立っていた。
何年か前になるが、挨拶をし、軽く言葉をかわした事がある。
「いえ……、まだ眠ってなかったんで、大丈夫です」
「ごめんね。楓くん来てるって聞いたから、凄く静かに入ったつもりだったんだけど……」
「いえいえ……俺こそすいません」
「何でお前らが謝るんだよ。俺んちだろーが。」
「あ、そういえばそうね」
クスクスと千春が笑う。楓もつられて笑った。
聞けば、看護婦である千春の担当患者が彼女を気に入り、家まで着いてきかねない勢いだったと言う。
準夜勤を終えた自分をつけ狙う男に気が付き、たまりかねて小野寺の家に急遽泊ることにしたらしい。
「狭くて悪いが、三人で寝んぞ」
「……ありがとう、龍」
千春は少女のように微笑む。小野寺もその目を優しく見つめ返していた。
「………えーと…俺お邪魔みたいだから帰ろっかな」
楓は少し茶化すように言う。
「何馬鹿言ってる。こんな時間にガキを外にやれるか」
「…ガキっても、もう普通に男なんですけど」
「お前童顔だからなあ…間違えたら女に見えるし」
「…ひでー。気にしてるのに」
「ほんとね。楓くん、昔から綺麗な顔してる」
そして「夜道は危ないから、お願い、泊っていって」と千春は付け加えて言った。
二人に促され、返す言葉が見当たらない。
仕方なく、小野寺を真ん中にして、三人で川の字のようになって眠る。
…楓は何故か目が冴えて、眠りにつけないでいた。
トイレに行こうと、立ち上がると月明かりに小野寺と千春がうつしだされている。
タンクトップからのぞく、小野寺の逞しい腕。その中へもぐりこんで眠っている、小動物みたいな千春。
当たり前に、べったりとくっついてる男女がいた。
楓は、顔を赤くして目をそらす。何だか恥ずかしくて見ていられなかったのだ。
男子高という事もあり、楓も楓の友達も恋愛経験のない人間がほとんどである。
小野寺にとっては日常でも、楓にとっては遠い世界―ドラマや漫画での出来事のように見えるのだ。
単に二人が肌を寄せ合って眠っているだけでも楓にとっては強い刺激があった。
(龍にぃも……この人とセックス……とか、するんだよな……)
ふと浮かんだ考え。
瞬間、小野寺と千春が裸で絡み合うシーンが脳裏に浮かぶ。
(………っ…俺、何考えてんだ!)
下品な想像を打ち消すように布団の中へもぐりこむ。
けれど一度浮かんでしまった情景はそう簡単に消えてくれない。
それどころか、何度か友達と一緒に見たAV―とリンクして段々映像化していってしまう。
―千春の足を抱えあげて、激しく律動する小野寺―
―AVの男は女を想いやるようなそぶり等見せないけれど
小野寺なら、名前を呼び、優しく彼女を抱きしめるだろうか―
…どんどんリアルになっていく想像。
しかも―それが現実味を帯びる程、何故か息苦しさを感じていった。
こんな想像をする自分への嫌悪からだろうか?
辛い。
苦しい。
冴えていく頭。
…ダメだと思うのに、反応する体…
朝の訪れを強く願うしかなかった。
翌朝、睡眠不足のまま小野寺のアパートを出て行った。
仕事が休みの小野寺と、夜勤の千春は楓を見送ってくれる。
「お前……ちゃんと、親と話せよ」
「…わかってる」
「またね、楓くん」
二人が穏やかに手をふる。
楓の両親は仲が良く、…二人もきっとあんな夫婦になるんだろうな、等とチラリ思った。
そして…小野寺はやはり他人であって家族ではない、と実感してしまう。
―ああ、だからか………
そのことが寂しくて、昨夜、胸の苦しさを覚えていたのだと気が付いた。
小野寺は他人なんだから頼ってはいけない、等と言い聞かせながらも、こんな事を感じるなんて。
自分はなんて甘ったれなんだろう―と、いっそ笑えてきてしまう。
雨はやんで、曇り空が広がっていた。
太陽が少しだけ顔をのぞかせ、光がそこかしこに漏れている。
****
それから楓は両親と話し合い―結局進学することを決めた。
両親も、晴太でさえも進学を望んでいたからである。
寧ろ、進学しなければ許さないとまで言われてしまった。
―お前を見ていれば、どれだけ愛されているか、解る
小野寺の言葉がよぎった。
両親にも、弟にもこんなに想って貰っている。
自分はなんにも解っていないんだな、と苦笑した。
子供だと思われて、当然だ。
―早く大人になりたい。
体面だけではなく、心も体も全部。
強くそう感じた。
親でも兄でもない小野寺。
家族には絶対なれないのなら―せめて、同じ男として対等な関係を築いていきたい。
そんな風に思ったのだった。
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