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忘却本丸


薬研が立ち上がると私も習って立ち上がった。
加州はもといたデスクへと戻っていく。
この洋風の部屋が古参の彼の城ならば、審神者はいったいどんな部屋を構えているのかと少しだけ気になる。
部屋の外と中でこんなにも違うのなら、中華風の扉を開いたら、中には中華料理が乗っているあの回るテーブルが鎮座していたりして。
まあ、ここの洋風の部屋を守っているのは日本風のふすまなのだが。

なんてどうだっていいような想像をしながら、ふと気づいた。
今日は起きてからまだ何も食べていないではないか。


「薬研君、朝食は本丸を回った後でなんですか?」


部屋を出ないうちから薬研の背中に問いかけると、薬研はぴたっと一瞬止まってから、振り返った。
人間の動作を一瞬止めるほどまずい事でも言ってしまったのかと思ったが、薬研の顔を見るに、怒っているというよりは、私がどうしてそんな事を言うのか思い当たらなくて、何言ってるんだ?と今にも言い出しそうな様子だった。


「どうしてそんな事聞くんだ?」


薬研は実際に口にした。
どうして?って、言いたいのはこちらだ。
薬研は私の起床から付き添っていて、私が意識を取り戻してから何も食べていないのを知っているはずだ。
私があの森林に現れてから食事はしていないので、胃が小さくなっているのかもしれない。
それならそれでお粥とか、やわらかいものを食べるのにやはり食事の時間は必要だと思った。



「そりゃあ、今日はさっき起きてからまだ何も食べていないではないですか。薬研君はもう食べたのですか?」

「…ああ、もう食べたが」


え?みたいな顔で薬研は言った。
よくわからない。
つまり薬研は、俺は食べたが、どうして私がご飯を食べたがるのかわからない、と言っているんだ。
普通なら怒るところなのかもしれないが、なんというかびっくりしてしまって戸惑うことしかできない。


後ろから加州が先程から狂いを見せないテンションで、


「もうお昼だから昼にまとめて食べたほうがいいよー。料理のセンスないやつはお粥作りもままならないから」


見れば書類から目を話さずに言っていた。
薬研は、もうすぐ昼なのに何で急いで食べる必要があるのかがわからなくて聞き返したのか?


おそらく違うだろう。そうだとしたら、薬研は早い段階で合点して、もうすぐ昼だぞと私に教えているはずだ。

だってここに来るまでに薬研と何回も会話した。薬研はよどみなく言葉を発して、時には私が何を考えているのかだいたい想像して声をかけてくれた。
容姿や年齢に反し声が低く振る舞いも落ち着いていたが、普通だった。
悪い方向の違和感なんて全くなかった。
そんな簡単な事に思い至らないはずがないのだ。


じゃあ、私に原因があった?
そうだとしたら、それっていったい何なんだ?

加州の方を向いたまま、今度は私が固まる番だった。



少し続いた沈黙の後、加州がため息をついてからようやくこちらに視線を向けた。


「切羽詰まった空腹感はないはずだよ。手入れって薬研から聞いてる?それやると、怪我が治るし、空腹もなくなるんだよね。手入れ完了後6時間ほどは何も食べなくて平気なわけ」

「え」


怪我が治るし空腹もなくなる。
なるほど、あの大怪我は現実にあったのに今私はほぼ全く傷を負っていないのはそういう事か。
確かに差し迫った空腹感はなかった。ほんのすこし、緩やかな空腹感があるだけだ。
朝だな、じゃあご飯が食べたいな、といった習慣からくる欲求だったのかもしれない。
空腹状態から回復していると聞いた今でも食べたいくらいなのでわからないが。


手入れが何時に行われ何時に終わったのかは不明だが、差し迫った空腹感がないということは、その効力が保たれているのだろう。


「薬研、もしかしてさ…」


加州の声。しかし私は他の声を関知することを忘れていた。
あんな怪我が一晩で治ってしまうのならいよいよ私が思う常識の世界から逸脱した場所にいることを認めなくてはならない。私の体も普通ではないことも。そんな事を考えるのでいっぱいだった。

しかし私は何をそんなに動揺してるんだ?
どうせ、私が考える常識の世界の記憶もない、私が思う普通の体を得ていた記憶もない、未練など抱きようがないのだ。
それから逸脱している事に衝撃を受ける自分の心情が不思議だと、頭のすみで思った。


ここは夢の世界ではない。
この場にいる人間に気づかれないように、数秒だけ息を止めることも、足の指に力をいれることも、頬の内側を噛むことも、思いのままにできる。
思いのままに体を動かせる。こんな下らない動作確認は誰にも気づかれない。
気づかれないという当然すぎる結果もまた現実的であり、ここは紛れもない現実世界だった。
あの夜は夢じゃなかった、夢じゃないのなら、ここは…。


「夕方、仕事部屋に来てくれる?ちょっと話あるんだけど」

「ああ、わかった…」


私は考え事に忙しかったが、加州はそんな私など無視して薬研と話をしていたようだった。


その薬研の呆然とした声に、私の意識がようやく外部へと向けられ、薬研を見た。
彼は先程一瞬止まって振り返った場所から動いてはいないままだった。
しかしこれまでの薬研の雰囲気とは全く違い、放心したような、余裕も気力もなくしたような。
例えるなら、信じられない失敗をしたかのような…そんな表情をしていた。


相変わらずの態度の加州と少し放心しているような薬研の対比はまさしく、ミスを指摘した上司と指摘された部下に見えた。
私も私で外部の声を一切聞いていなかったので、薬研がいったいどんなミスをしたのか全くわからないし状況についていけなくて、どうしたらいいかわからず、うろたえて薬研と加州を見比べることしかできない。
だが、それも一瞬だった。
一瞬のうちに加州は薬研の胸中を察知する。


「薬研ー、こっち来て」


加州が薬研をデスクに呼ぶ。
すぐさま覚悟を決めたかのように眉根を引き結んだ薬研が加州のもとへ歩いていく。

加州は人差し指をちょいと折り曲げたジェスチャーをして自分の口許へ薬研の耳を引き寄せると、何か耳打ちした。
薬研のこわばった表情が消え、了解したように口許を動かした。
薬研がこちらに戻ってくる。先程までしていたリラックスした表情だった。

加州が上司(先輩?)である立場上危うくならない範囲で薬研のフォローをしたのだと思った。
そしてすぐさま自然にフォローする加州のベテランぶりにまた驚いた。
組織の古株をやっていればすぐに思い至ることなのかもしれないが、タイミングを逃さずスマートに成功させるにはそれなりの機転やその他諸々が要るはずで、容易にはできないだろう事はすぐに想像がつく。



それに比べて私は。

なかば反射的にそんな事を思った。
薬研が私のことを兄と呼んだからだろうか。


もし薬研にフォローを入れることを思い付いて、それが可能な時間が確保され実行に移せる能力があったとしても、立場的に考えて私にはできなかっただろう。
励ましたい気持ちを言葉にして連ねたとしても、どれだけ同情して抱きしめたとしても、薬研の心を揺さぶることはできない。
戦いに参加したくないと表明した私には、弟の仕事の悩みに口を出して心を軽くしてやることはできないのだ。


薬研とは先程出会ったばかりだが、そう思い至ると心が痛んだ。
いや、出会ったばかりだから、痛んだだけだった。の方が正しいのか。


戦わないという選択をし続けたら、なにか取り返しのつかない事が起きてきっと後悔するのでは。なんとなくそう感じた。
私の目線から見下ろす薬研のなんと小さく頼りないことか。
その小さな体を抱き締めて守り戦うことが最善の選択であるような気がしてならない。
未知の焦燥が私に何らかの行動を促しているように感じた。その焦燥は私に楽観的な思考をさせたくないかのように私を追い詰める。


しかし、かといってやっぱり戦いたいです!なんて言うことはできなかった。
怖い。
心のなかに根付いた恐怖というものはちょっとやそっとじゃ無くならない。だからこそ人は、人々のために恐怖を押し退け戦う者を英雄と呼び、畏敬の念を抱くのだろう。
私はそんな大層なものにはとてもなれない。
自分の恐怖心を両手で大事に抱えて、都合の悪いことは見て見ぬふりをするのが、最も嫌な事が起こらなくて安心なのだ。

苦しい。
戦わなければ弟である存在を守れないのに、あの夜の事を思い出すと怖くて怖くて仕方がなくて、どうしても戦いたいと思うことができない。
言わないといけない気がするのに、どうしても言いたくない。
口が動かない。
まるで禁句を口にしようとした時みたい。
…それっていつの事だっけ?


はっと視線に気づく。
視線の主である薬研はもう私の傍らに立っていて、私の腕をノックするように叩いて、行こうぜ?と目配せした。

少し驚いた声音で返事をして、深呼吸をした。
コーヒーの香りと共にすうっと頭に酸素が行き渡り、私は極めて事務的に、

「加州さん。本日はご多忙中にお時間を割いていただきありがとうございました。失礼いたします」 


一礼をして、はいはーい、なんて気の抜けた声を確認してから、薬研の背中を追い部屋を出た。

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