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忘却本丸

「あんたは昨晩、見たはずだ。どこから連れてこられたのかわからないあわれな刀の化け物を」


ぶわっと汗が沸いた。血の気配が引き重力が飛んでいく。

あれは夢ではなかった。
昨晩、私は切りつけられた。赤い光を見た。それから、月夜にきらめく神様も。
薬研にあわれと言わしめる化け物がどれなのか何となく想像がついた。でもそんなのはどうでもよかった。
一方的になぶられる苦痛と恐怖が私を支配して、それ以上を考える余裕などありはしなかったからだ。

日本の歴史とか、そんな実感のわかないことなんてどうでもいい。時間をさかのぼるのだって馬鹿げているし、さかのぼる体験をしてみたいなんて思わない。
私のなかにはあの痛みと恐怖だけが現実として存在する。寄り添って私の頬に手を滑らせ、早く会いたい、と耳元で悪魔がささやくかのような気配がしてぞくぞくと鳥肌がたった。


「いやだ」


「え?」


とても言いづらい言葉を振り絞った。レールを正面から曲げるのは勇気がいる。堰を切ってしまえば、と思ったが、やはり言いづらいものは言いづらかった。私に記憶があれば、もっと言いやすい言葉で拒否ができたのだろうか。


「またあんな目にあうなんて、できません」


さにわも薬研も、私を見ていた。どんな視線なのかはわからない。
私は私の膝にのせた、二つの拳を苦しく見つめていた。

「いち兄?歴史が危ないんだ。いち兄が世話になってきた人たちや、現代の人間たちも軒並み危ないし、何より自分を振るえるんだぞ。こんな機会逃す手は…」

調子を取り戻すように薬研が言うが、歴史を守るだとか、自分を振るえるだとか、私が痛い目にあうのに見あった理由だと思うことができなくてぎゅっと拳に力をいれる。


「薬研、この人、刀の時分の記憶ないんでしょ?そんな理由じゃ釣れないでしょ」


薬研に対して、全くもう、とでも言うような声音だった。
空気を意外な方向に塗り替える声に思わず顔をあげて審神者を見た。薬研も、審神者の方へ瞬時に視線を変え口を開く。


「けど」

「あーはいはい、じゃあとりあえず血判だけでいいよ。あんた名刀だから、その辺うろちょろしてたら敵に目つけられるし。うちで保護するにも契約ないやつうちに置いても監視係が無駄にコストかかるし。まあ、とりあえずね。詳しい事は後で決めよ。
戦闘以外にも仕事あるしね。まあ戦いたくなったらその時は戦っちゃえばいいから」


私が決意して拒否を絞り出したにもかかわらず、大して感情を揺さぶられた様子のない審神者の様子に驚きと安堵がこみあげた。
審神者は私より線が細くて小柄だが(しかし薬研より大きいが)、精神的な余裕というかタフさを感じる。
彼は戦争をしているのだとか大臣だとかいう状況下で、カリカリして神経質になるのではなく、ちょっとやそっとじゃ動揺しないメンタルを手に入れたのかもしれない。


こちらの意思を汲んだ形の提案で推された契約でも、実際に判を押さなくてはならないことを考えると、書面が気になってくる。
バインダーに挟まれた横向きの紙を見てみると、なんだか高級そうな和紙であり、縦長の封筒に入れていたか入れる予定であることを思わせる縦の折り目が等間隔にいくつかつけられていた。
そして完成された作品であるような芸術的かつ荘厳な様相の文字が縦書きされている。同じ文字はフォントみたいに同じ形をしているが少し雰囲気が異なったので手書きであるように感じられた。
そしてなんて書いてあるのかわからない。


「なんて書いてあるのですか?」

「読めねぇのか?読もうか?」

「お願いします」

「まあ要するに、大将のこと傷つけない、大将の兵隊を殺さない、本丸の情報の一切を外に漏らさない、てのを誓わせる文だな」

「本丸?」

「ん?あー、ここだ、俺たちが今いる城が本丸だ」


城だったのか。
とりあえず契約書の内容が先ほどの通りならば、契約してもなんら不利はない。
先ほど審神者がさらっと、私は外にいたら敵に狙われると言っていたし、あんな恐ろしい敵が存在する外へ行くのは今は無理だ。


「血判でしたっけ。普通の文字ではダメなのですか」

「血判じゃないとダメだねー。文字の契約書は違反したら後から裁かれたりするもんだけど、これは未然に防ぐっていうか?やろうとしても体が動かなくなるやつなんだよね。やってからじゃ遅いみたいなとこあるから」


なんだか不思議な作用がある契約書であるようだ。
どうみてもただの紙なのに。
しかし刀が肉体を持つとかいう話がまかり通るならば、そのような紙切れも世間から浮いた存在ではないのだろう。
しげしげと眺めていると、薬研が私の顔を楽しそうに覗きこんだ。


「俺の刀使うか?」

「それ好きね。短刀ジョーク?一期一振、手袋脱いで手出して」


ツッコミを入れられた途端に不満そうな顔をする薬研に一切触れずに審神者が声をかけてくる。
なにか痛いことをするのだろうか。
しかし、血判じゃないとダメなら、やるしかない。
緊張を可能な限り隠しながら、素手をさにわに差し出すと、審神者はタバコの外装ほどの大きさの半透明な安っぽい箱を取り出し、応接テーブルに置いた。
審神者が箱を摘まんで開けると、中にはシンプルな台座で支えられた細くて繊細な印象の銀色の針が何本か入っていた。それを手慣れた様子で一本取り出すと、すっと私の人差し指に刺した。
すぐにぷくっと小さな赤い玉ができる。


「痛くない」

「痛いのは戦いだけで十分だから。それをここに押し付けて」


審神者はルーチンワークのひとつをこなしただけの顔と声音で軽く指示をしながら、箱からティッシュペーパーを一枚しゅっと出すと私の指から抜いた針をくるんで、テーブルの端に置いてあったミニチュアのバケツのようなゴミ入れに捨てた。それ専用の回収箱のようだった。
私は言われた通りに指を紙面に押し付ける。


「はい契約ー。これからよろしくね、一期一振」


軽い調子で審神者が言う。
本当に血判だけで記名は必要がないらしい。
違反行為をしたくてもできないという微妙に信じがたい契約をしたわりにはなんの実感もわかないし体感もない。


「ふー、もうちょっと書類頑張ろ。そろそろ神様用の契約書類もデータ管理可能にしてほしいんだけど」

「データに血をかけるのか?」

「血じゃなくてもさ、なんかあるでしょ。データ管理できないなら人間の脳内とかでもいいよ。紙はかさばるから」

「大将の頭が爆発しねぇか心配だな」

「あの人なら大丈夫でしょ」

「そりゃそうか。九九できるし」



その九九への信頼はなんなんだ。
いや、それより、審神者である大将がまるでここにいる青年ではなく、別な誰かであるような。
何て事ないような顔で軽い雑談を続ける二人に問いかける。


「あの」

「ん?」

「あなたが審神者ではないのですか?今の話じゃまるで」

「ああ」


納得したかのようにうなずくと、審神者は表情ひとつ変えずにさらっと、


「俺は審神者代理。本物殺されると困るから」



「ええ!?」

「審神者と刀って普通召喚する時に会話してるんだよね。だから後々の書面契約で応対するのは審神者じゃなくても大丈夫なんだよね、普通は」

「召喚した刀を迎えに行ったときに替え玉つかまされて大将殺されたら大変だからな。まあ、大将はわるいやつじゃないから心配しなくて大丈夫だ」

「俺の正体はここの古参、あんたと同じ刀剣男士の加州清光でしたー。じゃあね、俺仕事だから。新刃さんにゆっくり本丸の案内したげて。あ、記憶の事はちゃんと主に相談すんの忘れないでよ」

「あいよ」


審神者、改め加州清光は事も無げにそう言うと、立て掛けておいた赤い鞘の刀をひっつかみ、契約書の挟まったバインダーを片手に元々座っていたデスクへと戻っていくのだった。

薬研が私の腕を叩く。

「さていち兄、この城の案内をしようじゃないか。今日で全部覚えられなくてもみんな気安いから、誰かに教わりながら覚えりゃいい。地図はあるが肝心の端末が遅れてるんだよな。いくか」

「あ、ああ、はい」
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