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忘却本丸

「あれ?」

…男だっけ。私は呟いた。
私が現れたのは一瞬の事だった。
何もない空間に、いや、有ることには有るか。
森林。眼下に広がるのは崖、そしてその下に森林が広がっていた。
そこに突如として私が出現した。
私の記憶は何もない。名前は何なのか、どこからどうやってここに来たのか、家族はいるのか。
何も思い出せない上に周囲にも手がかりが見受けられない以上は、ここに突然私という存在が現れたとしか私には表現しようがない。
どこへ行こう。どうしよう。
選択肢を用意するだけの記憶、いや知識はあるようだった。


眼下に広がる森林と周囲に生い茂る木々からしておそらくここは山かどこかだろうと推測した。
こういう山に迷ったときは、とりあえず登ればよいのだと、なにかで遭難の怖さに触れた折りに見た。
ここが人の通る山ならば、山頂に行けば正しい下山への道がわかるはずだ。むやみに降りようとすると遭難してしまう。
そういえば水や食料はあるのだろうか。
あいにく私は手ぶらだった。
ただひとつの所持品をのぞいて。

私の腰には大きな刀がぶら下がっていた。
大きさに反し軽かったため、おそらくは模造刀であると思われたので、刀身を鞘から抜くことはしなかった。
山中をうろうろするにあたり邪魔かとも思ったが、下山したあと私の身元を探る時に何かの手がかりになるかと考え、軽かったのもあってそのまま携帯することにした。

山を上ろう。
このままここに居ては食べ物も飲み物もなく餓死してしまう。いや、餓死は少し突飛すぎたか。
とにかく助かるには街へ行かなくてはならない。
日は高い。私は開けた崖のところに立っていたが、山に入るとなんとなく木々のない道のようなものがあり、そこに沿って歩くことにした。
しかし困ったことに、ふたてに分かれる道のどちらへいけば登る事ができるのかわからなかった。

いくら悩んでいても知りようがないので直感で向かって右へ足を踏み入れた。
しばらくざくざくと進み続ける。
いくら進んでも森林から開けることはなく、景色が変わらないまま数時間が過ぎると、不安感が募っていった。
大丈夫だ、ダメだったら引き返せばいい。
しかし、これだけ歩いてこの先が行き止まりだったら、戻るだけの体力はあるのか?そもそも、ダメ、という明確な目印に行きつくのか。
このまま、いつまでも続く森林に抱かれたまま歩き続けて、そのまま街へは下りられないのではないか。
ダメだ、余計なことは考えるな、どうせ歩かなければ街へ行けないなら歩き続けるしかない。


やがて日は暮れて、辺りが暗くなっていく。
何か食べたい。喉が乾いた。
我慢するしかない。
切迫した空腹感がないため、おそらくものを食べていないのは私があそこに出現してからだと思われた。
心もとないが、今日はここで夜を明かすしかない。歩いていた時は鳥以外の動物の気配を感じなかったが、もしかしたら熊や猪がいるかもしれない。
寝るのは怖い。
しかし、この山で恐れながら起き続けるのも恐ろしかったし、眠りで空腹や乾きを誤魔化してしまいたい気持ちが勝った。
そこらの木の根本に腰掛け、辺りが完全に暗くなる前に、まぶたを閉じた。


数時間後だろうか。
目が覚めた。
じー、じーとよくわからない虫の音と、暗闇。目を開けているのと閉じているのと変わらないほど暗かった。
少し怖い。
遠くの方で、赤い小さな光がひとつ、ちかっと光った。
星にしては低く(そもそも星なんてほとんど見えない)蛍にしては高い位置にあったその光に、まさか霊的なものかとどきりとした次の瞬間、顔に風を感じ肩に激痛が走った。

「っあぁあぁぁ!!」

あえぐことしかできず激痛に目を剥いていると、右肩から何かが引き抜かれる感覚がして、傷口が熱くなった。
呼吸と一緒に呻きながら肩をおさえて前屈みになった。
人。人だ。何も見えない暗闇だが、人が目の前にいて、私を何かで刺したのだ。
無意識的に、私の手は腰にかかった模造刀にかかった。
無いよりはましだ、これで相手を攻撃して何かのきっかけを、殺すでも逃げるでもいい一矢報いるのだ何か何か何か、そうして私が模造刀を抜刀するに至るまで一秒無かったように思う。
目の前だ、まだ目の前にいるに違いない!

模造刀を左下から右上へ一閃した。
正確には、相手の体の中ほどで刀は止まったのだが、妄想の中でだけ何者かを切ることを考えていた私にとってはじゅうぶんの切れ味だった。
模造刀だと思っていたものが刃物だった現実に現実感がどこかへ飛んでいく。刀についてのあれこれの疑問は何も思い浮かばなかった。
しかしそれも一瞬で、私を刺した男の叫びで我に返った。

「誰ですか、なぜ私を刺したのです?ここはどこなのですか」

男はうめくばかりで答えなかった。
それはそうか。胸まで斬られては口も利けないだろう。
肩を刺されて息も荒い私は、この男を斬ってしまった事に動揺できるだけの平静を保っていなかった。
この刀はどうしよう。とりあえず男から抜くか。
ずっ、と嫌な手応えと共に刀を引き抜く。
どさ、と男が倒れた音がした。
これで終わったのだろうか。これでもう怖いことはない?
今の男の仲間がいないか、暗闇では何も見えないので耳を澄まそうとした。
その時。

風。
次の瞬間には私は二の腕を切りつけられ、何かものすごい速度のものに体当たりされたかのように横に吹き飛んだ。

さっき私を刺した奴ではない、新しい何者かだ。
仲間だ、やはり仲間がいたんだ!
刀は手離さなかったが、すぐに起き上がってあたりを見回しても何も見えない。足音も聞こえない。
じー、じーと虫の音がするだけだ。
どこかへ行ったのか?なんてそんな事あるはずないのに、あまりの静寂ぶりにそう思わざるをえなかった。
その直後、左の脇腹を切りつけられる。

「ぐっ!!」

吹っ飛びはしなかった。
じー、じー。虫の音だけ。
暗闇だけ。

どこだ、どこに居るんだ!?

「うぐ!」
背中を切られた。
通りすぎ様に切られているように感じた。
足音のない刃物が、張り巡らされたピアノ線かなにかを伝って、ものすごい速度で自分を切り裂いているのではないか。
何も見えない。
何も聞こえない。
激痛だけが身体中にある。
はー、はーと自分の息がとてもうるさくて耳障りなのに止まらなくて、自分の心臓の鼓動がばくばくと痛かった。

どこだ、どこにいるんだ!!

「うわぁぁあああ!!」

痛む体を無理矢理むち打ち、刀を持った腕を振り上げる。
半狂乱だった。
ちかっ、赤い光がまたたいた。

「!!」

右斜め前方か!
そこに居る、こちらへ来る!
殺される!切らなくては!

「あ、ああぁあーー!!」

思いきり刀を降り下げた。
タイミングなんてわからない。
あの光は関係ないのかもしれない。
それでも刀を降り下げなければ、生き残るすべは無い。不思議と体の激痛も遠退いていった。


刀を振り下ろす時間がスローモーションのように感じた。
恐怖から逃れる術として、抵抗することが本能として備わっているならば、私はそれに突き動かされている。本能ではないならば、私の中に根付く記憶だろうか。

すうっと刀が空気を切り裂いていく。
目を見開く。ざくっ!と、手に振動が伝わると、それは土の感触だった。

「………!」

もう、ダメだ。身体中に激痛が戻ってくる。
この刀を振り上げることはもうできない。

ぱきん!
ざっ、ざっ。
音が聞こえた。
自分の息と、虫の音以外の音。

殺意のない穏やかな風が吹く。
すると、今まで隠れていた小さな月が上空に顔を出した。
わずかな月明かりが地上に降り注ぐ。

きらりとナイフのような刃物が光るのを私は見た。
そのナイフを持っているのは、きらきら光る金髪を揺らした、とても美しい女の子だった。
…この子が私を襲った犯人なのだろうか?
しかし、凶悪で一方的に私を痛め付けたとは思えないほど、少女は美しく天使のような雰囲気を纏っていた。
月の神様では。
けして大袈裟な表現ではなく、あまりに幻想的な光景に心からそう思ってしまうほどだった。

あぁ、でも、この子の正体がなんであれもう私には関係のないことだ。
少女の神々しい姿を目にして、争う気が抜けてしまった。
何ヵ所も切りつけられ出血し、ルーベンスの絵を前にしたネロのように、美しいものの前で息絶えようとしている。


少女がこちらを振り返る。
澄んだきらめきを放つ青い瞳と目があった。

「大丈夫?すぐボクの仲間がくるから、それまでの辛抱だからね!」

少女は美しい顔を歪ませ、ナイフをしまいながらこちらへすっ飛んできて、かいがいしく私の顔を覗きこんだ。
近くで見るとその肌は一切の曇りがなく、ふわふわとあたたかな色をしていていっそう魅力的に見える。
齢は私よりだいぶ幼いように見えたが、死にゆく私を気に留めてくださる女神様だと思った。

「おーい!こっちだよ!早く来て!!」

少女が声を張り上げる。
助けが来るのだろうか。
私は痛みに大きく息を吐いた。

「私は助かるのですか。あなたは私を助けてくださるのですか」

「助かるに決まってるよ!すぐボクの本丸に運ぶから、そこで怪我はぜんぶ……え?」

「乱ー!!一期さんの顕現解いとけー!」

「…はーい!いち兄、顕現解いて。もう大丈夫だから」

「………?」

イチニイ、ケンゲントイテ?
未知の指示に首をかしげる。

「すみません、ぅ、それはいったい…?」

「え?顕現を解くってことだけど…」

混乱してる?と、少女は小さく呟いて、少し悩むそぶりを見せた後、よしっと呟いた。

「ちょっと痛いかもね!刀借りるね」

ひょいと簡単に私から抜き身の刀を奪うと、その刃先を私の太ももに突き立てた。

「や、やめ」

「ごめんね!」

ちょん。自分の刀でつつかれた。
そう気づいた時、私は瞬時に眠りに落ちていた。
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