middle/英雄の仕立て屋
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
前回レインディナーズを訪れてから10日が過ぎた。
作業の進捗は今のところ順調だ。
大変お世話になった副支配人のスーツはすでに完成していたし、オールサンデーさんのものも明日には完成するだろう。
今日の作業を終えて店仕舞いしていると、電伝虫が間抜けな着信音を発した。
下ろそうとしていたシャッターから手を離し、慌てて受話器を取る。
「お電話ありがとうございます。テーラー・ネーベルです。ご用件はなんでしょうか?」
「……アスター君か」
その声に一瞬時間が止まったかと思った。耳元で響くその低い声は紛れもなく、かの依頼主様で。
「は……ク、クロコダイル様?」
「あァ、正解だ」
震える手で、すぐそばに置いてあったメモとペンを手繰り寄せた。
「ど、どうされました?」
何か依頼に関してのことであれば正確にメモを取らねばと、手の中でペンを転がす。けれど返って来たのは予想外の内容だった。
「明日アルバーナへ行く用があってなァ。ついでに寄っても構わないかね?」
また時間が止まったかと思った。
え?クロコダイル様が、ここに、来る?
混乱する頭をなんとか押さえつけて、返事を絞り出す。
「え、ええ、構いませんが……」
「決まりだな。では明日」
呆然とする私を残して、そんな短いやり取りで電話は切れてしまった。
「あ、時間……」
何時に来るのか、聞き損ねた。
翌日。つまりクロコダイルさんが、私の店に来る日。
午後から一件だけ予約が入っていたのでその対応を速やかに終わらせ、資料を片付けてすぐにクロコダイルさんのスーツ作製に取り掛かった。
ちなみにオールサンデーさんのものは、午前中で完成していた。我ながら、女性もののスーツとしては最速で終わったのではないかと思う。
何時に来るか分からないけれど、来店までに少しでも作業を進めておこうと、これまでにないほどの集中力で事を進めた。
そうして作業に集中しすぎて周囲への注意力はひどく散漫だったと思うけれど。
さすがに、自分の腹の虫が鳴いたのに対してすぐ側で笑い声が聞こえた時は飛び上がるほど驚いた。
「クックックッ……クハハハッ」
「え、え、く、クロコダイル様……い、いつからそこに……」
作業部屋と店舗の間のドアに背を預け、彼はいつになく笑っていた。
「そんなに、ククッ腹が減ってるのかァ?」
言われてみれば午後の対応前にクッキーをかじったくらいで、昼食をとっていなかった。ちらりと時計を見れば、既に17時を回っていた。
とはいえ、何時に来るか分からない大口の依頼主様の為に少しでも作業を進めておこうとするのは、職人として当然だと自分を正当化する。
「何時にいらっしゃるか分からなかったので……」
言外に仕方なかったのだという気配をにじませる。
クロコダイルさんはまだ笑いながらも、ならばと手を差し出してきた。
「食事でもどうだね?お嬢さん」
そんなつもりはなかったのに、来訪時間を言わなかったお詫びに、だなんて言われてしまい恐縮していると。
「おれもそろそろ腹が減ったんでね」
早く行くぞと差し出した手を引っ込めて、こちらの答えを聞く前にドアの向こうに行ってしまった。
なんて事だ。仕事以外で関わることなんてないと思っていたのに。
わたわたと作業を切り上げて戸締りを確認し、仕事着の上からコートを羽織って。早くと急かすように脈打つ心臓を深呼吸で落ち着けて、ドアを開けた。
格式張ったレストランではなかったけれど、きっとそれなりにお値段の張るであろうコースをご馳走になった。
お詫びにしては行き過ぎていると抗議したけれど、男性で歳上でなんなら英雄様である彼には、こちらが出す方がむしろ失礼かもしれないとすぐに引き下がった。
そうして満腹になり店舗兼自宅まで送ってもらい、何度もご馳走様でしたとありがとうございましたを繰り返していると。
何やら物言いたげな目でクロコダイルさんは私を見下ろしていた。
何だろう、と首を傾げた瞬間、私の視界は急に暗くなった。
「んっ……!?」
唇に柔らかな感触が、一瞬だけ触れる。
少し苦味を伴った、タバコの香りがした。
押し当てられたそれがクロコダイルさんの唇だと分かった時には、彼はもうそこにはいなかった。
ただ通りに、ザァ、と砂混じりの風が吹いていた。