middle/あまいなみだ
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タクシーが止まって陣内さんが支払いをしている様子を、どこか他人事のように見ていた。
「アスターちゃん、降りるよ?」
差し伸べられた手を迷わずに取れるほど、考えはまとまっていなかった。出しかけた手を、体の前でウロウロさせていると、
「早くしないと、運転手さん困っちゃうよ」
「っあ、すみません」
突然第三者を引き合いに出されて、我に帰る。
「ありがとうございましたー」
タクシーのドアが閉まり、エンジン音が遠ざかっていく。
「まだ、引き返せるけど、どうする?」
「……タクシー降りてからそれは、ずるいですよ」
「はは、知ってた。確信犯」
ずるい大人だって言ったでしょ?と、私を覗き込む。
「明日仕事?」
「……だったんですけど、後輩が代わってくれました」
「俺も、休み」
それが意味するところが、わからないほど子供ではない。でも、喜んで何もかもさらけ出せるほど、大人にもなりきれない。
その場で動けないでいると、陣内さんもじっと待ってくれていて。
「もっと、もーっとゆっくり、待ちたい気持ちもないではないんだけどね」
少し自嘲するような雰囲気で笑う。
「諦めて、早く帰ろう?一緒に」
おいで、と、ペットか子供にでも接するように、両手を広げて笑いかけられて。
それでも躊躇ってしまう気持ちがあることはどうしようもなくて、縮こまった身体をなんとか動かして一歩、踏み出す。
瞬間、ほんのり香る柔軟剤と陣内さんのにおい。
「時間切れ」
抱き締められているのだと理解した瞬間、耳元で囁かれた短い言葉と、こめかみに落とされた口付け。
そのまま無言で、手を繋いでエントランスを抜け、マンションの一室へ。
「おじゃま、します」
「どうぞ」
背後でカチャン、と鍵が閉められて、ようやく実感が湧いて来た。
私は今、陣内さんの、部屋にいるのだ。
リビングに荷物を置くと、いっぱい泣いたしとりあえず顔洗っておいでよとタオルを差し出され、男性用で悪いけど刺激は少ないからと洗顔も渡され。言われるがまま顔を洗い、先ほど通されたリビングへ戻る。
「さっぱりした?ちょっと座って待ってて」
キッチンにいた陣内さんは、飲み物を入れてくれているようだ。また言われるがまま、ソファに腰を下ろす。
リビングは整理整頓されていて、一人暮らしの男性の部屋とは思えないほど落ち着く。
小さく息を吐いて、カバンから携帯電話を取り出した。メールが1件来ており、開いてみると愛佳からだった。
『怖がりな先輩にお守りをあげます。ないと思いますけど、もし万が一先輩が傷つく結果になったら、アタシがオールで付き合ってあげます』
とっととくっつけコノヤロー、と、投げやりな電話の声がよみがえる。
まだ恐怖感は拭えない。
それでも、もし、1人失っても、全てを失うわけではない。優しくて可愛い後輩ちゃんがいるじゃないか。
これは確かにお守りだ。携帯を握りしめると、少し気が楽になった。
「はい、どうぞ」
コトリとテーブルにマグカップを置いた陣内さんが、隣に座る。
「ホットミルク。に、はちみつとブランデーを少し入れてる」
「ありがとうございます。おいしそう…」
口に含んだ瞬間広がる、ブランデーの香りとほのかな甘味。ほっとする、味だ。
「今日、楽しかった?」
カフェオレを飲みながら、陣内さんが私の肩に優しく手を回す。柔らかいぬくもりに騒ぎ出した心臓を抑えつつ、こくこくと頷いた。
「でも、いっぱい泣いてたよね。どうして?」
「それは、その……」
言い澱み、目線がホットミルクから外せなくなってしまった。肩に回された手に、ぎゅっと力がこもる。
「頼って、甘えてくれていいんだよ。アスターちゃん」
そのために連れて来たようなものだから、と陣内さんの手はさらに私を抱き寄せる。
「……怖いんです。もうずっと、恐怖感と闘ってるんです」
具体的に何が怖い、ということではない。
死ぬことへの怯え。
転じて、生きることへの不安。
孤独への恐れ。
大切な人がいなくなるかもしれないと過度に怖がり、逆に大切ではないと思い込んでいたり。
好きな人には好きと言えず、好きになってくれた人にはとても自分を出せず。
そんなことを繰り返して来た。したかったわけではないのに。
ぽつぽつと、ゆっくり進む私の話を、陣内さんは急かすでもなくただ聞いてくれていた。
「やっぱり寂しかったんだね。見てて、そんな気はしていたんだけど」
ホットミルクを一口飲むごとに、少しずつ話せた。さすがに、今までの恋愛遍歴のことは少しぼかしたけれど。
言われた通り、どうしようもなく寂しかった。寄り添ってくれる誰かが欲しくて、体だけの関係を持ったこともあった。
でも違った。体よりずっと奥まで触れ合える関係でないと意味がないのだと、分かったのは何歳の時だったか。
頭で分かってはいても、うまく制御はできなくて。結局同じことの繰り返し。
最後には振られて泣き濡れて、終わる。
「ちゃんとしなきゃ、変わらなきゃ、そう思うほど、うまくできなくて」
じわりと、涙がにじむ。マグカップの中身は空になってしまった。
「アスターちゃんは、すごいと思うよ」
そんなことを考えている人が世の中にどれだけいるだろうと、陣内さんはひとりごちた。
「変わるのは、ゆっくり、アスターちゃんのペースでいいと思う。もし待ちきれなくなったら、こうやって聞き出すし」
その言葉が、不思議とすとんと腑に落ちて、先ほど溜まっていた涙が今度こそつうっと頬を伝う。
「でも、泣き虫は治りそうにないね」
言いながら、陣内さんの顔が近づいて来て。
キスされる。反射的に目を瞑ると。
ぺろりと、頬をーー涙を、舐められた。
「じ、な、何してっ……」
目を白黒させるとはこういう事かと思うほど、駆け巡る動揺。
「あまい……」
呟くように言って、また近づいてくる。表情はとても穏やかで、けれど目は悪戯っ子のような輝きを含んでいて。
「ちょ、と、待ってもらえませんか?ね?」
「やだ」
「や──」
やだってそんな、駄々をこねるみたいに言われても。言いかけたところで今度こそ唇を塞がれる。
一瞬で離れた、と思ったら、もう一度、今度は深い深い口付けになり。
「ン、は……」
まだ酔いの抜けない私は、一瞬で男にしなだれかかるただの女にされてしまった。
その後はもう、快楽の海に突き落とされてしまって、よく覚えていない。