番外編 キミとボクの約束
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ここは東京のとある私立中学校。
数多くの優秀な部活動を抱えるこの学校には、いま二大アイドル生徒がいた。
ひとりは、男子バスケットボール部所属、中学三年生の仙道彰。
そして、もうひとりは――――。
「伊織ちゃ~ん!」
「はーい!」
女子硬式テニス部の校内専用コート。
そこでストローク中に伊織は名前を呼ばれて振り返った。
そのとたんに、一斉に瞬くフラッシュの光。
「わっ!?」
あまりの眩しさに目を細める伊織の代わりに、コーチの三枝みどりがフラッシュの発信源である無作法な記者たちの前に立ちはだかった。
「ちょっとあんたたち! 誰の許可で写真なんかとってんだい? どこの会社のもんだ名刺だしな!」
鬼の形相でコーチが怒鳴ると、記者たちは蜘蛛の子を散らすように一斉に逃げていく。
コーチはそれを舌を出して見送ると、フンと息を吐き出して見せた。
「まったく、けしからんねえ。無断で写真を撮るなんざ。人には肖像権ってもんがあんのにさ」
「あはは。でもまさか、無許可で雑誌に載せたりはしないですよきっと」
「ふん。甘いね。あんたはまだ世の中の仕組みってもんをなんもわかっちゃいないんだよ。いいかい? ああいうやつらはね、自分達が金になる記事さえ書けりゃあなんだっていいんだよ。あんたを陥れるような記事だって、売れるんだったらなんだって書く。あんなふうになんの許可もなく写真を撮るやつらならなおのことね」
「ふうん。そんなもんなんですかね?」
伊織はドリンクボトルに口をつけて、ずずっと音を出して中身をすすった。
コーチはそれにぴくりと小さく眉を動かす。
「女の子がはしたなく音をたてながら飲むんじゃないよ。――いいかい、伊織。あんたはね、十年にひとり……いや、百年にひとりの逸材だとあたしは見とる。この三枝みどり、いままで数多くの選手をテニス界に輩出してきたけれど、あんたほどの素質と才能、そして可能性を秘めた選手はいなかった」
こんこんと語るコーチに、伊織は内心でまた始まったとため息をついた。
三枝みどり。その歳五十近く。しわの刻みはじめたきつい印象の顔立ちに、細身の体躯。少し白髪の混じりはじめたクセのあるショートカットの髪。自身も若い頃は数々のタイトルを獲得し、また引退してからは多くの有名選手を輩出してきた、テニス界ではその名を知らぬものがいないほどの名コーチだった。
伊織は六歳の時に入ったテニススクールで、その三枝みどりコーチに見初められて師事してから今まで、何百回とこの話を聞かされ続けてきた。
いい加減耳にタコである。
ちなみに、コーチは伊織がこの中学に入学し、部活動を主に活動の場に定めると主張した伊織に賛同して、スクールと兼任でいまでは嘱託顧問としてこの中学に雇われている。
嘱託顧問とはいえ、ほとんど伊織専属なのだが、それでもたまに部員の面倒も見ていた。
おかげで、部全体の成績がすこぶる上昇傾向にある。
このコーチの話は毎回お決まりの台詞で終わる。
曰く……
「つまり、あたしはあたしのこのコーチ人生の最後に、あんたを世界に通用する立派な選手に育てたいんだよ。いいかい?」
とのことなのである。
「はーい」
もうすっかり聞き飽きている伊織が流すように適当に返事をしたら、コーチの両眉が凶悪につり上がった。
あ、やばいと思ったときにはもう遅かった。
顔を真っ赤にしてカンカンに怒ったコーチに、伊織はグラウンド10周を申し渡されたのだった。
この私立中学が誇る二大アイドル生徒のふたりめ、女子硬式テニス部所属、中学二年生の鈴村伊織。
ジュニア大会での優勝回数は数知れず、昨年の全国中学大会でも一年生ながら優勝した華々しい経歴を持ち、テニス界から将来を有望視されている存在。
このお話は、現在神奈川の海南大附属高校に通う彼女が、今よりもう少し元気で明るくて、まだなにも失っていなかった、二年前のお話である。
「伊織ちゃん。練習終わった?」
グラウンド10周を達成して、その後の練習メニューもこなし、さあ帰ろうかと伊織がカバンを手にかけたときだった。
自分を呼ぶ声が聞こえて伊織は背後をくるりと振り向いた。
この声は……。
「彰さん! 」
伊織はフェンス越しにひらひらと手を振っている仙道を見とめると、そちらへ駆け寄った。
仙道は部活が終わったのか、制服でバスケ部指定のエナメルカバンを下げている。
伊織と仙道は学校に期待されているだけあって、部活後にも練習時間の特別枠が設けられていた。
そのためだいたい学校に残るのはこの二人が最後になることが多く、、いつからか二人はお互いの練習が終わるのを待って一緒に帰るようになっていた。
「お疲れさまです。いまちょうど彰さんのところに行こうと思ってたんですよ」
にっこり笑った拍子に、伊織のセミロングの髪が風になびいて揺れた。
それに乗ってわずかにシャンプーの甘い匂いが漂ってくる。
仙道はひくひく鼻を利かせてそれを確かめると、困ったなというように眉尻を下げた。
「あれ? 伊織ちゃん、シャワー浴びた?」
「あ、はい。きょうはちょっとうっかりミスでグラウンド10周させられたんで……。マズかったですか?」
「いや、マズいってわけじゃないんだけど……。ちょっと小腹が空いたからさ、なにか食べて帰らないかと思ってたんだけど」
「わー、いいですね! 行きましょう! わたしもうお腹ぺっこぺこなんです」
「え、でも湯冷めしない? 寄り道はまた明日でもできるんだし、今日はまっすぐ帰った方が……」
「なに言ってるんですか彰さん! こんなことで体を壊すようなやわな鍛えかたしてないですよ、わたし」
言って伊織はむんと力こぶを見せた。
仙道はそれを見て小さく笑う。
「はは、そっか。じゃあどこに行こーか? 伊織ちゃんの食べたいのでいいよ」
「あ、じゃあわたしマックに行きたいです!」
「マック? いいけどなんで? 伊織ちゃん、夕方以降油っこいもの食べるの避けてなかった?」
「そうなんですけど、でもそうも言ってられないんです! いま、ハッピーセットでなんと手裏剣セットがついてくるんですよ!? これはもう絶対ゲットしなきゃなんです! 今週から八方手裏剣セットだったんですけど、まだ手に入ってなくて。今日これをゲットしたら、四方手裏剣と、六方手裏剣とあわせて三種類そろうんです。あとは再来週の棒手裏剣セットで、全制覇なんですよ~!」
きゃ~と嬉しそうにはしゃぐ伊織に、仙道も表情をほころばせた。
「そっか。じゃあそれは絶対ゲットしなきゃだね」
「です!」
はたから見たらどうみても付き合ってるようにしか見えない二人だが、実際はそういう関係ではない。
お互いに好き合っていることは本人たちも自覚済み、確認済みなのだが、付き合ってもいなければ恋人でもない。
それはなぜかというと――。
「こら! あんたたち! あたしとかわした約束、おぼえてるんだろうねえ?」
仲睦まじく話す二人に、コーチの鋭い声が飛んだ。
「はーい、覚えてまーす! わたし、鈴村伊織は、もうすこし大人になってメンタルが安定するまでは恋をしません!」
選手宣誓のようにびしりと伊織が宣言すると、コーチは満足げに頷いた。
「そうだ。その通り。いいか、伊織、よく聞きなさい。――あんたもだよ、そこのツンツン頭」
我関せずでそっぽを向いていた仙道は、ひゃっとわざとらしく肩をすくめてコーチを見た。
それを確認すると、コーチは仙道に言い聞かすように厳しい語調で口を開いた。
「テニスは、別名メンタルスポーツとも呼ばれるくらい、スポーツのなかでもっともメンタルが影響するスポーツだ。どんなに優れた素質と才能と可能性を持つ選手でも、思春期という一番多感な時期に恋愛をし、それがうまくいかなくなったとき、テニスもダメになる危険性がある。実際あたしは、そうやってダメになってしまう選手を何人も見た。どうせあとで別れるかもしれないなら、最初から付き合わない方がいい。自分の気持ちが本物だと思うのであれば、伊織が全国中学大会三連覇するまで待てるだろう? 違うか?」
コーチはメンタル安定の目安を、全国中学大会三連覇としていた。
もちろんその達成は容易いものではない。優勝以外は許されないという前提条件。その状況下で生じるさまざまなプレッシャーの数々。それに打ち勝つことで、強固なメンタルを築くことができると考えた末の結論だった。
コーチだって鬼ではない。そこでそれが達成できれば、高校生活では多少の恋愛もさせてやろうと考えている。
もちろん、三連覇が為されなければその条件ももう一度見直さなければならないが。
コーチの提示したその条件に、伊織も賛同している。
なぜなら、コーチの夢と伊織の夢が同じところにあったからだ。
「もーうコーチ、わかってますってば! 彰さんにまで言うのやめてくださいよ」
「お前よりもコイツのほうが危ないから言ってんだよ! よし、伊織。あたしらの夢を言ってみな!」
「はい! あたしとコーチの夢は、日本人初のグランドスラム達成、です!」
「よし!」
「ぎゃあっ!」
その答えにコーチは満足そうに笑うと、伊織の髪を乱暴に撫で回した。
それに伊織が思いっきり嫌そうな顔をして抵抗をする。
「コーチ止めてくださいよ! ああ、髪がぼさぼさに~……」
「ハン! あんたにゃあそれくらいがお似合いだよ! ……そこのハリネズミ!」
「うわ、はい」
それまでにこにこ笑っていたコーチにいきなりギンと睨まれ、仙道はびくっと返事を返す。
「寄り道して帰るんだったら、しっかり伊織を家まで送り届けんだよ。いいね?」
「はい。もちろんです」
真剣な瞳で答える仙道をコーチは量るように見つめていたが、しばらくしてその口の端をニッと持ち上げた。
「よし。じゃあ伊織、明日は早朝五時半に早朝ランニングだからね。遅刻するんじゃないよ」
「うげっ」
「うげっ、だと……?」
コーチの目がキラリと光る。
伊織はそれを見て慌てて背筋を正した。
「はい、わかりました!」
「よし。じゃあ気を付けて帰るんだよ!」
「はーい」
伊織はコーチにぺこりと頭を下げると、フェンスの外に出て仙道と並んで歩き始めた。
「彰さん、コーチがすみませんでした」
マックでハッピーセットをお持ち帰りして、いつも二人が寄り道をする公園につくと伊織は、がさがさと嬉しそうにハンバーガーの包みをとっていた仙道に頭を下げた。
仙道はそれにきょとん、と目をあげる。
「うん? なにが?」
「いや、なんかコーチったら彰さんにまでいろいろ変なこと言っちゃって……」
「ああ、そのことか。別にいいよ。変なことだなんて思ってないし」
「そんなことないですよ。……そんなこと……ない」
思い詰めたように伊織がふるふると首を振る。
その様子に、仙道は黙って伊織を見つめた。
伊織はその真剣な瞳を受けて、思う。
(彰さんには……関係ないのに……)
テニスがメンタルスポーツだとか恋愛禁止だとか、そんなの仙道には関係ないのに。
思って伊織は俯いた。
伊織は仙道が好きだし、仙道も自分を好きだと言ってくれている。もちろん恋人同士になりたいと思わない訳じゃない。
でも伊織にとってはテニスもかけがえのない大事なものだった。
テニスが好きな両親の影響で、生まれた頃から呼吸をするのと同じくらい自然に、伊織はテニスと共に育ってきた。もはやテニスのない生活なんて、想像することもできない。
そんな自分の存在意義とも言えるようなテニスを中途半端にすることはできなかった。
コーチにも言われているとはいえ、恋愛禁止を選んだのは伊織自身だ。そんな自分に合わせて、仙道までがせっかくの中学時代をストイックに過ごす必要など全くない。
仙道には、誰か違う人と恋をする選択肢だってあるのだ。
「彰さん」
「ん?」
「彰さん……無理しなくっていいんですよ?」
「……え?」
いぶかしげに眉根を寄せる仙道に、伊織は矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。
「恋愛禁止とか、それはわたしだけの問題ですし! 彰さんまでわたしに合わせる必要ないですから」
「……それって、コーチの教えにビビってないで今すぐわたしをどこか遠くへ連れ去って! ってこと?」
「そうそうそう、きっと二人ならいつまでも仲良く……ってなんでですか!」
伊織はズビシッと真剣な顔で大ボケをかます仙道を手の甲ではたいた。
おお、ノリツッコミ……と感心したような声をあげる仙道に、伊織は気を取り直すように咳払いをする。
「だから! ……そうじゃなくて……」
他の人と恋をしていいんですよ?
頭の中で繰り返し練習して用意してきた言葉は、いざ本番になると喉につかえてちっとも言葉にならなかった。
伊織は悔しくて唇を噛む。
(どうしよう……。彰さんを縛りつけたくない。だから言わなきゃ……。言わなきゃいけないのに…………!)
脳も唇も、肝心なときにはまったく使い物にならない。
自分はなんて意気地がないんだろう。
声はちっとも出てこないくせに、出したくもない涙だけが瞳から勝手にこぼれ出る。
コーチの、恋愛がご法度という言葉が、こんなときには身に染みてよくわかった。
コート上ではどんなプレッシャーもはねのける自信があるのに、いざ恋愛になるとこんな簡単なことすら満足に出来ないなんて。
今でさえこんなメンタルなのに、それが崩壊したときにはとてもテニスに集中なんて出来ない。
そのとき、ふと力強い腕に引き寄せられた。
ふわりと香る、仙道の匂い。
「あ、彰さん……!」
身体中で感じる仙道のぬくもり。
伊織は驚いて仙道の腕の中で身じろぎした。
仙道はそれにはびくともせずに抱き締める腕の力を強くする。
「伊織ちゃん。それってさ、オレに伊織ちゃんのこと諦めろって言ってる?」
「……だ、だって。彰さんが恋愛禁止って言われてるわけじゃないし……それに、彰さん、モテるから……」
「…………」
「だから……だから……」
「オレが違う人を好きになって、その人と付き合ったらいいって?」
仙道の口から発せられたその言葉は伊織が言おうとしていたものだったのに、なぜかその響きが冷たい刃となって伊織の胸に突き刺さった。
そのあまりの鋭さに一瞬呼吸が止まったようになる。
きりきりと胸を刺すトゲのような痛みに耐えながら、伊織は何度も首を縦に振った。
仙道の胸板を強く押してその腕から逃れると、伊織は下を向いたまま絞り出すように声を出す。
瞳から落ちた、いくつもの滴が地面に黒い染みを作る。
「わ、わたし……彰さんのこと好きです。でも、テニスも大事だから……天秤にかけるなんてできないから……だから……わたし、彰さんを縛りたくない。彰さんなら、もっと幸せになれますから……!」
苦しい。
涙のせいなのか、息が止まるほどの胸の痛みのせいなのか、もうよくわからなかった。
まるで涙腺が壊れてしまったかのように、涙は次から次へと溢れ出す。
こんなふうに泣いたら、ただ仙道を困らせるだけなのに……。
わかっていても、とめどなく流れる涙を抑えることができなかった。
「……伊織ちゃんを、追い詰めるつもりじゃなかったんだけどな」
ふと仙道の困ったような声音が鼓膜を叩いた。
伊織が顔をあげるより早く、おでこになにか暖かいものが触れる。
暖かくて柔らかい、これは……。
(え、く、唇!? え、え、いま、おでこ、キ、キス……!?)
一気に全身の血が逆流したようになった。
さっきまで冷たく痛んだ心臓が、今度は熱く激しく鼓動をくりかえす。
伊織は仙道の唇が触れたおでこに手を当て、目を白黒させた。
「あ、あああきらさん!? い、いま……いま……!」
「うん。おでこだったらギリギリセーフ……だよね?」
「いや、わ、わからないです、けど、なんで……」
「……伊織ちゃん」
伊織はふたたび仙道に抱き締められた。
びくりと全身が硬直する。
「伊織ちゃん。そんなふうに考えないで。オレは本当に伊織ちゃんが好きだから。この気持ちは絶対本物だって誓えるから。三枝コーチも言ってたけど、だからこそオレは伊織ちゃんのこと待てるんだよ」
「……彰さん」
仙道の諭すように優しい声が、伊織の心をやわらかく溶かしていく。
「伊織ちゃんが好き。本当に本当に好き。他の人となんて、オレは絶対幸せになれない。伊織ちゃん以外考えられないんだ」
その言葉とともに、仙道の腕の力が強まる。
伊織の頬を、先程とは違う暖かい涙が伝った。
すがりつくように、伊織は仙道の背中に腕を回す。
「彰さん……!」
「それに、実はオレも伊織ちゃんと一緒にメンタル磨こうと思ってるんだ」
「え?」
その言葉に伊織が驚いて仙道の顔を見つめた。
間近にある仙道の顔が、伊織の瞳をまっすぐ見返してやわらかく微笑む。
「だからさ。自分だけなんて思わないで。オレもおんなじだから。一緒に強くなろう、伊織ちゃん。……オレ、伊織ちゃんと一緒なら頑張れるから」
「はい」
伊織は仙道に優しく体を離された。ふたたびおでこに仙道の唇が触れる。
「好きだよ、伊織ちゃん」
「わたしも、大好きです」
伊織は溢れる感情を抑えるように言うと、強い意思の光を宿した瞳で仙道を見つめた。
「彰さん、わたし、頑張ります。絶対負けません。絶対三連覇してみせます」
「うん。……オレも一番近くで応援してる」
これは鈴村伊織と仙道彰が二年前に交わした、大切な大切な約束のお話…………。
数多くの優秀な部活動を抱えるこの学校には、いま二大アイドル生徒がいた。
ひとりは、男子バスケットボール部所属、中学三年生の仙道彰。
そして、もうひとりは――――。
「伊織ちゃ~ん!」
「はーい!」
女子硬式テニス部の校内専用コート。
そこでストローク中に伊織は名前を呼ばれて振り返った。
そのとたんに、一斉に瞬くフラッシュの光。
「わっ!?」
あまりの眩しさに目を細める伊織の代わりに、コーチの三枝みどりがフラッシュの発信源である無作法な記者たちの前に立ちはだかった。
「ちょっとあんたたち! 誰の許可で写真なんかとってんだい? どこの会社のもんだ名刺だしな!」
鬼の形相でコーチが怒鳴ると、記者たちは蜘蛛の子を散らすように一斉に逃げていく。
コーチはそれを舌を出して見送ると、フンと息を吐き出して見せた。
「まったく、けしからんねえ。無断で写真を撮るなんざ。人には肖像権ってもんがあんのにさ」
「あはは。でもまさか、無許可で雑誌に載せたりはしないですよきっと」
「ふん。甘いね。あんたはまだ世の中の仕組みってもんをなんもわかっちゃいないんだよ。いいかい? ああいうやつらはね、自分達が金になる記事さえ書けりゃあなんだっていいんだよ。あんたを陥れるような記事だって、売れるんだったらなんだって書く。あんなふうになんの許可もなく写真を撮るやつらならなおのことね」
「ふうん。そんなもんなんですかね?」
伊織はドリンクボトルに口をつけて、ずずっと音を出して中身をすすった。
コーチはそれにぴくりと小さく眉を動かす。
「女の子がはしたなく音をたてながら飲むんじゃないよ。――いいかい、伊織。あんたはね、十年にひとり……いや、百年にひとりの逸材だとあたしは見とる。この三枝みどり、いままで数多くの選手をテニス界に輩出してきたけれど、あんたほどの素質と才能、そして可能性を秘めた選手はいなかった」
こんこんと語るコーチに、伊織は内心でまた始まったとため息をついた。
三枝みどり。その歳五十近く。しわの刻みはじめたきつい印象の顔立ちに、細身の体躯。少し白髪の混じりはじめたクセのあるショートカットの髪。自身も若い頃は数々のタイトルを獲得し、また引退してからは多くの有名選手を輩出してきた、テニス界ではその名を知らぬものがいないほどの名コーチだった。
伊織は六歳の時に入ったテニススクールで、その三枝みどりコーチに見初められて師事してから今まで、何百回とこの話を聞かされ続けてきた。
いい加減耳にタコである。
ちなみに、コーチは伊織がこの中学に入学し、部活動を主に活動の場に定めると主張した伊織に賛同して、スクールと兼任でいまでは嘱託顧問としてこの中学に雇われている。
嘱託顧問とはいえ、ほとんど伊織専属なのだが、それでもたまに部員の面倒も見ていた。
おかげで、部全体の成績がすこぶる上昇傾向にある。
このコーチの話は毎回お決まりの台詞で終わる。
曰く……
「つまり、あたしはあたしのこのコーチ人生の最後に、あんたを世界に通用する立派な選手に育てたいんだよ。いいかい?」
とのことなのである。
「はーい」
もうすっかり聞き飽きている伊織が流すように適当に返事をしたら、コーチの両眉が凶悪につり上がった。
あ、やばいと思ったときにはもう遅かった。
顔を真っ赤にしてカンカンに怒ったコーチに、伊織はグラウンド10周を申し渡されたのだった。
この私立中学が誇る二大アイドル生徒のふたりめ、女子硬式テニス部所属、中学二年生の鈴村伊織。
ジュニア大会での優勝回数は数知れず、昨年の全国中学大会でも一年生ながら優勝した華々しい経歴を持ち、テニス界から将来を有望視されている存在。
このお話は、現在神奈川の海南大附属高校に通う彼女が、今よりもう少し元気で明るくて、まだなにも失っていなかった、二年前のお話である。
「伊織ちゃん。練習終わった?」
グラウンド10周を達成して、その後の練習メニューもこなし、さあ帰ろうかと伊織がカバンを手にかけたときだった。
自分を呼ぶ声が聞こえて伊織は背後をくるりと振り向いた。
この声は……。
「彰さん! 」
伊織はフェンス越しにひらひらと手を振っている仙道を見とめると、そちらへ駆け寄った。
仙道は部活が終わったのか、制服でバスケ部指定のエナメルカバンを下げている。
伊織と仙道は学校に期待されているだけあって、部活後にも練習時間の特別枠が設けられていた。
そのためだいたい学校に残るのはこの二人が最後になることが多く、、いつからか二人はお互いの練習が終わるのを待って一緒に帰るようになっていた。
「お疲れさまです。いまちょうど彰さんのところに行こうと思ってたんですよ」
にっこり笑った拍子に、伊織のセミロングの髪が風になびいて揺れた。
それに乗ってわずかにシャンプーの甘い匂いが漂ってくる。
仙道はひくひく鼻を利かせてそれを確かめると、困ったなというように眉尻を下げた。
「あれ? 伊織ちゃん、シャワー浴びた?」
「あ、はい。きょうはちょっとうっかりミスでグラウンド10周させられたんで……。マズかったですか?」
「いや、マズいってわけじゃないんだけど……。ちょっと小腹が空いたからさ、なにか食べて帰らないかと思ってたんだけど」
「わー、いいですね! 行きましょう! わたしもうお腹ぺっこぺこなんです」
「え、でも湯冷めしない? 寄り道はまた明日でもできるんだし、今日はまっすぐ帰った方が……」
「なに言ってるんですか彰さん! こんなことで体を壊すようなやわな鍛えかたしてないですよ、わたし」
言って伊織はむんと力こぶを見せた。
仙道はそれを見て小さく笑う。
「はは、そっか。じゃあどこに行こーか? 伊織ちゃんの食べたいのでいいよ」
「あ、じゃあわたしマックに行きたいです!」
「マック? いいけどなんで? 伊織ちゃん、夕方以降油っこいもの食べるの避けてなかった?」
「そうなんですけど、でもそうも言ってられないんです! いま、ハッピーセットでなんと手裏剣セットがついてくるんですよ!? これはもう絶対ゲットしなきゃなんです! 今週から八方手裏剣セットだったんですけど、まだ手に入ってなくて。今日これをゲットしたら、四方手裏剣と、六方手裏剣とあわせて三種類そろうんです。あとは再来週の棒手裏剣セットで、全制覇なんですよ~!」
きゃ~と嬉しそうにはしゃぐ伊織に、仙道も表情をほころばせた。
「そっか。じゃあそれは絶対ゲットしなきゃだね」
「です!」
はたから見たらどうみても付き合ってるようにしか見えない二人だが、実際はそういう関係ではない。
お互いに好き合っていることは本人たちも自覚済み、確認済みなのだが、付き合ってもいなければ恋人でもない。
それはなぜかというと――。
「こら! あんたたち! あたしとかわした約束、おぼえてるんだろうねえ?」
仲睦まじく話す二人に、コーチの鋭い声が飛んだ。
「はーい、覚えてまーす! わたし、鈴村伊織は、もうすこし大人になってメンタルが安定するまでは恋をしません!」
選手宣誓のようにびしりと伊織が宣言すると、コーチは満足げに頷いた。
「そうだ。その通り。いいか、伊織、よく聞きなさい。――あんたもだよ、そこのツンツン頭」
我関せずでそっぽを向いていた仙道は、ひゃっとわざとらしく肩をすくめてコーチを見た。
それを確認すると、コーチは仙道に言い聞かすように厳しい語調で口を開いた。
「テニスは、別名メンタルスポーツとも呼ばれるくらい、スポーツのなかでもっともメンタルが影響するスポーツだ。どんなに優れた素質と才能と可能性を持つ選手でも、思春期という一番多感な時期に恋愛をし、それがうまくいかなくなったとき、テニスもダメになる危険性がある。実際あたしは、そうやってダメになってしまう選手を何人も見た。どうせあとで別れるかもしれないなら、最初から付き合わない方がいい。自分の気持ちが本物だと思うのであれば、伊織が全国中学大会三連覇するまで待てるだろう? 違うか?」
コーチはメンタル安定の目安を、全国中学大会三連覇としていた。
もちろんその達成は容易いものではない。優勝以外は許されないという前提条件。その状況下で生じるさまざまなプレッシャーの数々。それに打ち勝つことで、強固なメンタルを築くことができると考えた末の結論だった。
コーチだって鬼ではない。そこでそれが達成できれば、高校生活では多少の恋愛もさせてやろうと考えている。
もちろん、三連覇が為されなければその条件ももう一度見直さなければならないが。
コーチの提示したその条件に、伊織も賛同している。
なぜなら、コーチの夢と伊織の夢が同じところにあったからだ。
「もーうコーチ、わかってますってば! 彰さんにまで言うのやめてくださいよ」
「お前よりもコイツのほうが危ないから言ってんだよ! よし、伊織。あたしらの夢を言ってみな!」
「はい! あたしとコーチの夢は、日本人初のグランドスラム達成、です!」
「よし!」
「ぎゃあっ!」
その答えにコーチは満足そうに笑うと、伊織の髪を乱暴に撫で回した。
それに伊織が思いっきり嫌そうな顔をして抵抗をする。
「コーチ止めてくださいよ! ああ、髪がぼさぼさに~……」
「ハン! あんたにゃあそれくらいがお似合いだよ! ……そこのハリネズミ!」
「うわ、はい」
それまでにこにこ笑っていたコーチにいきなりギンと睨まれ、仙道はびくっと返事を返す。
「寄り道して帰るんだったら、しっかり伊織を家まで送り届けんだよ。いいね?」
「はい。もちろんです」
真剣な瞳で答える仙道をコーチは量るように見つめていたが、しばらくしてその口の端をニッと持ち上げた。
「よし。じゃあ伊織、明日は早朝五時半に早朝ランニングだからね。遅刻するんじゃないよ」
「うげっ」
「うげっ、だと……?」
コーチの目がキラリと光る。
伊織はそれを見て慌てて背筋を正した。
「はい、わかりました!」
「よし。じゃあ気を付けて帰るんだよ!」
「はーい」
伊織はコーチにぺこりと頭を下げると、フェンスの外に出て仙道と並んで歩き始めた。
「彰さん、コーチがすみませんでした」
マックでハッピーセットをお持ち帰りして、いつも二人が寄り道をする公園につくと伊織は、がさがさと嬉しそうにハンバーガーの包みをとっていた仙道に頭を下げた。
仙道はそれにきょとん、と目をあげる。
「うん? なにが?」
「いや、なんかコーチったら彰さんにまでいろいろ変なこと言っちゃって……」
「ああ、そのことか。別にいいよ。変なことだなんて思ってないし」
「そんなことないですよ。……そんなこと……ない」
思い詰めたように伊織がふるふると首を振る。
その様子に、仙道は黙って伊織を見つめた。
伊織はその真剣な瞳を受けて、思う。
(彰さんには……関係ないのに……)
テニスがメンタルスポーツだとか恋愛禁止だとか、そんなの仙道には関係ないのに。
思って伊織は俯いた。
伊織は仙道が好きだし、仙道も自分を好きだと言ってくれている。もちろん恋人同士になりたいと思わない訳じゃない。
でも伊織にとってはテニスもかけがえのない大事なものだった。
テニスが好きな両親の影響で、生まれた頃から呼吸をするのと同じくらい自然に、伊織はテニスと共に育ってきた。もはやテニスのない生活なんて、想像することもできない。
そんな自分の存在意義とも言えるようなテニスを中途半端にすることはできなかった。
コーチにも言われているとはいえ、恋愛禁止を選んだのは伊織自身だ。そんな自分に合わせて、仙道までがせっかくの中学時代をストイックに過ごす必要など全くない。
仙道には、誰か違う人と恋をする選択肢だってあるのだ。
「彰さん」
「ん?」
「彰さん……無理しなくっていいんですよ?」
「……え?」
いぶかしげに眉根を寄せる仙道に、伊織は矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。
「恋愛禁止とか、それはわたしだけの問題ですし! 彰さんまでわたしに合わせる必要ないですから」
「……それって、コーチの教えにビビってないで今すぐわたしをどこか遠くへ連れ去って! ってこと?」
「そうそうそう、きっと二人ならいつまでも仲良く……ってなんでですか!」
伊織はズビシッと真剣な顔で大ボケをかます仙道を手の甲ではたいた。
おお、ノリツッコミ……と感心したような声をあげる仙道に、伊織は気を取り直すように咳払いをする。
「だから! ……そうじゃなくて……」
他の人と恋をしていいんですよ?
頭の中で繰り返し練習して用意してきた言葉は、いざ本番になると喉につかえてちっとも言葉にならなかった。
伊織は悔しくて唇を噛む。
(どうしよう……。彰さんを縛りつけたくない。だから言わなきゃ……。言わなきゃいけないのに…………!)
脳も唇も、肝心なときにはまったく使い物にならない。
自分はなんて意気地がないんだろう。
声はちっとも出てこないくせに、出したくもない涙だけが瞳から勝手にこぼれ出る。
コーチの、恋愛がご法度という言葉が、こんなときには身に染みてよくわかった。
コート上ではどんなプレッシャーもはねのける自信があるのに、いざ恋愛になるとこんな簡単なことすら満足に出来ないなんて。
今でさえこんなメンタルなのに、それが崩壊したときにはとてもテニスに集中なんて出来ない。
そのとき、ふと力強い腕に引き寄せられた。
ふわりと香る、仙道の匂い。
「あ、彰さん……!」
身体中で感じる仙道のぬくもり。
伊織は驚いて仙道の腕の中で身じろぎした。
仙道はそれにはびくともせずに抱き締める腕の力を強くする。
「伊織ちゃん。それってさ、オレに伊織ちゃんのこと諦めろって言ってる?」
「……だ、だって。彰さんが恋愛禁止って言われてるわけじゃないし……それに、彰さん、モテるから……」
「…………」
「だから……だから……」
「オレが違う人を好きになって、その人と付き合ったらいいって?」
仙道の口から発せられたその言葉は伊織が言おうとしていたものだったのに、なぜかその響きが冷たい刃となって伊織の胸に突き刺さった。
そのあまりの鋭さに一瞬呼吸が止まったようになる。
きりきりと胸を刺すトゲのような痛みに耐えながら、伊織は何度も首を縦に振った。
仙道の胸板を強く押してその腕から逃れると、伊織は下を向いたまま絞り出すように声を出す。
瞳から落ちた、いくつもの滴が地面に黒い染みを作る。
「わ、わたし……彰さんのこと好きです。でも、テニスも大事だから……天秤にかけるなんてできないから……だから……わたし、彰さんを縛りたくない。彰さんなら、もっと幸せになれますから……!」
苦しい。
涙のせいなのか、息が止まるほどの胸の痛みのせいなのか、もうよくわからなかった。
まるで涙腺が壊れてしまったかのように、涙は次から次へと溢れ出す。
こんなふうに泣いたら、ただ仙道を困らせるだけなのに……。
わかっていても、とめどなく流れる涙を抑えることができなかった。
「……伊織ちゃんを、追い詰めるつもりじゃなかったんだけどな」
ふと仙道の困ったような声音が鼓膜を叩いた。
伊織が顔をあげるより早く、おでこになにか暖かいものが触れる。
暖かくて柔らかい、これは……。
(え、く、唇!? え、え、いま、おでこ、キ、キス……!?)
一気に全身の血が逆流したようになった。
さっきまで冷たく痛んだ心臓が、今度は熱く激しく鼓動をくりかえす。
伊織は仙道の唇が触れたおでこに手を当て、目を白黒させた。
「あ、あああきらさん!? い、いま……いま……!」
「うん。おでこだったらギリギリセーフ……だよね?」
「いや、わ、わからないです、けど、なんで……」
「……伊織ちゃん」
伊織はふたたび仙道に抱き締められた。
びくりと全身が硬直する。
「伊織ちゃん。そんなふうに考えないで。オレは本当に伊織ちゃんが好きだから。この気持ちは絶対本物だって誓えるから。三枝コーチも言ってたけど、だからこそオレは伊織ちゃんのこと待てるんだよ」
「……彰さん」
仙道の諭すように優しい声が、伊織の心をやわらかく溶かしていく。
「伊織ちゃんが好き。本当に本当に好き。他の人となんて、オレは絶対幸せになれない。伊織ちゃん以外考えられないんだ」
その言葉とともに、仙道の腕の力が強まる。
伊織の頬を、先程とは違う暖かい涙が伝った。
すがりつくように、伊織は仙道の背中に腕を回す。
「彰さん……!」
「それに、実はオレも伊織ちゃんと一緒にメンタル磨こうと思ってるんだ」
「え?」
その言葉に伊織が驚いて仙道の顔を見つめた。
間近にある仙道の顔が、伊織の瞳をまっすぐ見返してやわらかく微笑む。
「だからさ。自分だけなんて思わないで。オレもおんなじだから。一緒に強くなろう、伊織ちゃん。……オレ、伊織ちゃんと一緒なら頑張れるから」
「はい」
伊織は仙道に優しく体を離された。ふたたびおでこに仙道の唇が触れる。
「好きだよ、伊織ちゃん」
「わたしも、大好きです」
伊織は溢れる感情を抑えるように言うと、強い意思の光を宿した瞳で仙道を見つめた。
「彰さん、わたし、頑張ります。絶対負けません。絶対三連覇してみせます」
「うん。……オレも一番近くで応援してる」
これは鈴村伊織と仙道彰が二年前に交わした、大切な大切な約束のお話…………。