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白線

わたしには迎えに行かなければいけない人がいる。
顔も名前も何も覚えてないけれど、とても大切で、とても大好きな人。
わたしの『運命の人』。
その人はいつも、夢の中にだけ現れる。
夢の中の彼はまるでそこだけ照明が落ちてしまっているかのような真っ暗な中にいて、顔も姿もはっきり見ることができない。それなのに不思議とわたしは彼が困ったように眉を下げて笑っていることがわかるんだ。
仕方ないな、荻野目さんは。
そう優しく言って、ぶうぶう文句を言いながらも、結局はわたしの望みを叶えるために、一生懸命努力してくれる。
わたしはそんな彼に満面の笑みを浮かべてお礼を言うんだ。
「ありがとう。——くん……」
そうして名前を呼んで、いつもそこで目が覚める。
夢の中で確かに呼んだはずの名前も、その瞬間、まるで煙のように立ち消えて、なにも思い出すことができない。
あの人は誰? いまどこにいるの?
会いたい。
切ない想いが胸をぎゅうぎゅう締めつけて、頬はいつのまにか溢れた涙で濡れている。
なにもわからないのに、優しくて弱虫で、なのに強い彼を一人にしておきたくないと感じる。
早く行って、抱き締めてあげなくちゃ。だって彼は、わたしがいなきゃダメだから。
漠然とした焦りばかりが胸を占めて、けれど頭からは大切なことがぽっかりと抜け落ちてしまって、どこにも行くことができない。
大好き。こんなにも大好きなのに。
そうしてわたしの思考を無理矢理中断させるかのように、目覚ましのベルが鳴り響く。
わたしの目覚ましの音はどこか列車の発車ベルの音に似ていて、わたしはこの音が大嫌いだ。
列車の発車ベルは、境界を分ける音。こちら側とあちら側とを、無情に分断する音だ。
片時も聞いていたくなくて、叩きつけるようにその音を止める。すると、まぶたの裏にまだ薄い面影を残していた彼も同時に消えてしまい、そうしてわたしは再び夜眠るまで、彼のことなんてすっかり忘れて一日を過ごすのだ。




「苹果ちゃん!」
不意に名前を呼ばれ、荻野目苹果は振り返った。
視界の先には、朝の人混みを掻き分け、背中までの綺麗な栗色の髪を揺らしてこちらへ走ってくる可憐な少女。
彼女の名前は高倉陽毬。都内の高校に通う、苹果の大切な友達だ。
陽毬のトレードマークの広めのおでこが、今日も元気に日の光を受けて輝いている。
「陽毬ちゃん! おはよう」
「おはよう、苹果ちゃん。今日は早いね」
笑顔で挨拶を交わすと、二人は並んで歩き出す。
「うん。今日からわたし週番なんだ。ほんと、一週間も早起きしなきゃでやんなっちゃう」
「そうなの? 大変だね。でもそれなら今日から一週間、一緒に学校に行けるね」
陽毬がにっこりと嬉しそうに笑う。
「うん、そうだね」
その表情につられるようにして、苹果も自然と笑顔になった。
陽毬がそう言ってくれるなら週番も悪くないと、本気で思えるのだから不思議だ。
にこにこと上機嫌で鼻歌を口ずさむ陽毬の横顔を、苹果はそっと見つめる。
この可憐な少女と苹果は、不思議な縁で出会った。
それまでまったく面識などなかったのに、ある時、なぜだか同じ列車、同じ車両で、お互い傷だらけで手を繋ぎあって倒れていたらしい。
前後の記憶がないことまで共通していて、それをきっかけに話すようになったのだけれど、話してみたらものすごく気が合った。
まるで、以前から仲良しの友達であったかのように。
それだけじゃない。
陽毬と話していると、なぜだか時々大切なものが目の前を通り過ぎていったような気がして、とても切ない気持ちになるのだ。
どうしてこんな気持ちになるのだろう。
陽毬といるととても楽しいのに。とても幸せな気持ちになるのに。なのに、なにかが足りないと感じる。
なにかが足りない。大切な何かが。
それが何なのかはわからない。
けれど、大切なパズルのピースがぽっかり抜け落ちてしまっているような、そんな気持ちがする。
隣で陽毬が楽しそうに話をしている。それに笑顔で答えながら苹果は考える。
わたしたちは、ほんとうに二人だっただろうか。
(ちがう……。他にも誰かいた……。そう、大切な誰かが……)
その時。ふと苹果の横を誰かが通り過ぎた。
「!」
懐かしい匂いが鼻をかすめて、同時に胸が騒ぎ出す。
急いで振り返ると、苹果はほとんど無意識に駆け出した。
「苹果ちゃん!?」
陽毬の驚いたような声が背中から追いかけてくる。だけど、それにこたえている余裕なんかない。
たったいま苹果の横を通り過ぎた人物、その後ろ姿がどんどん遠ざかっていく。
「待って! 待って、晶馬くん!」
苹果が晶馬と呼びかけた人物は、癖のあるやわらかそうな青い髪を風に躍らせながら、みるみると遠ざかっていく。
今を逃がしたらだめだ。もう二度と会えない。
何かが本能にそう囁きかけてくる。
苹果は足に力を入れると、体を前に倒して、さっきよりも強く地面を蹴り上げた。
スピードが上がる。
少しだけ、苹果と晶馬との距離が近づいた。
(イケる!)
苹果がそう思ったとき、ふいに晶馬が地下鉄の入り口に消えた。
(……こんなところに、地下鉄の入り口なんてあったっけ?)
違和感を覚えながらも、苹果は晶馬を逃すまいとその階段を降りる。改札を抜けて、ホームに降り立った時、晶馬がそこに停車していた列車に乗った。
「晶馬くん!」
列車の前に立ち、再び呼びかける。
今度は苹果の声が届いたのか、晶馬がぎょっとしたように振り返った。
「え、荻野目さん!?」
「や、やっと見つけた……」
膝に手をつき、ぜぇぜぇと肩で息をしながら、苹果は晶馬を見つめる。
晶馬はしばらく呆然としていたけれど、苹果とばっちり目が合うと、観念したように笑った。
「君は、ほんとうにすごい女の子だね」
晶馬のきれいな翡翠色の瞳。それを見たとき、これまで忘れていた大切なものが苹果の脳内を駆け巡った。
瞳から涙が溢れ出す。
どうして忘れていられたんだろう。どうして今まで気がつかないでいられたんだろう。
大切なもの。大切な人。
(わたしの『運命の人』。高倉晶馬くん)
「ずっと探してたんだよ、晶馬くん」
「うん」
「会いたかった」
「……うん」
晶馬の長い睫に彩られた大きな瞳が切なげに揺れて、そっと伏せられる。その姿に胸を締めつけられて、苹果は一歩列車へと足を踏み出した。
安全のために引かれた白線。それを越えかけたとき。
「だめだ!」
晶馬の、力強い声が苹果を引き止めた。
「晶馬くん……?」
「だめだよ、荻野目さん。そこから先は、来ちゃだめだ」
「どうして?」
「それは、境界線なんだ。僕のいる世界と、君が生きていく世界。その線を、絶対に越えちゃならない」
「……越えたら、どうなるの?」
「わからない」
晶馬の顔が、つらそうにゆがむ。そして、なにか痛いものを飲み込んだような表情をした後、今度はにっこりと笑った。
「ありがとう、荻野目さん。ここまで僕を追いかけて来てくれて。僕を……思い出してくれて。僕はもうそれだけで十分だよ」
切なそうな表情が見え隠れする晶馬の笑顔を見て、プチンと苹果の中で何かが切れた。
それだけで十分? なにが? 
そんなこと……。
ふいに苹果はうつむいた。
「荻野目さん?」
晶馬の心配そうな声が降ってくる。
「……れで……」
「え?」
「それで……いいわけないでしょー!!」
叫ぶと同時に、顔を上げた。
晶馬がぎょっとしたように身を引いている。
「お、荻野目さん!?」
「なあにが僕はもうそれだけで十分だよ、よ! それじゃあわたしの気持ちはどうなるの!?」
気持ちが溢れ出す。止まらない。
「晶馬くんはいっつもそう! これは僕たちの問題だからって、高倉家の問題だからって、いっつもわたしのことを話の外に締め出すの。でもこれは晶馬くんたちだけの問題なんかじゃない! 晶馬くんたちを大切に思う人たちの問題でもあるってこと、忘れないでよ……っ!」
「荻野目さん……」
声がかすれる。喉がなにか熱いものでふさがれて、うまく喋ることができない。
だけど悔しい。こんなにも自分が蚊帳の外なことが。彼にとって、わたしはいつまでも当事者にはなりえないんだってことが。
彼の痛みを共有することはできないけれど、彼を失うことで生じる痛みが確かにあるんだってことを、わかってもらえないことが苦しい。悔しい。
「どうして……っ?」
涙が、気持ちが溢れ出す。
「私たちはどうなるの!? 残されたわたしはどうなるのよ! そうやって、訳知り顔で勝手な自己犠牲で自分の欲求を満たして、それで取り残されたわたしはどうなるの!? あなたのことを忘れて、それでほかの誰かと幸せになって、そんな人生がほんとうにしあわせだって……っ!」
胸が、張り裂けそうだ。
「荻野目さん……」
「わたしは……っ」
叫ぶと、苹果は晶馬の襟首を掴んだ。踏みしめるようにして白線を越える。
晶馬が、はっと息をのんだ。
「こんな白線、越えてやる! 晶馬くんはわたしの運命の人なの! 晶馬くんと一緒に生きるためだったら、わたし、なんにも怖くないよ! 晶馬くん……っ」
あいしてる。
かすれた声で呟くと、苹果は背伸びをして、晶馬のくちびるに触れるだけのキスをした。
「……荻野目さん」
晶馬の震える腕が、苹果の体を包み込む。
「晶馬くん……」
苹果は晶馬の胸に顔を押し付けると、そっと目を閉じた。
やっと言えた。
あの時言えなかった言葉。大切な、なによりも伝えたかった想い。
「愛してる」
どちらからともなく呟いた声をかき消すように、列車の発車ベルが鳴り響いた。
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