【親編】旗揚げのきっかけ
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「秀一~! 聞いてくれよ~!」
教室のドアが勢いよく開いて、クラスメートの水戸征樹がそんなことを言いながら中に飛び込んで来た。
月瀬秀一は、うんざりとした心持ちでその声を聞くと、冷たい一瞥だけ征樹に投げて、再び読んでいた本に目を落とす。
水戸征樹は、小学校からの腐れ縁で、小学一・二年生の時に同じクラスになって以来、妙に懐かれてしまっていた。
クラスが離れても、必ず休み時間には秀一に会いにくるという徹底ぶりだ。
正直、鬱陶しくてしょうがない。
幸いその二年間以来征樹とはクラスが離れていたのに、最悪なことに、中学一年生、二年生と、二年連続で秀一は征樹と同じクラスになってしまった。
おまけに、小学五年生の時から地元の暴走族に所属していた征樹は、入学前から教師たちに目をつけられていたらしく、どうやら秀一は、先生たちの間で『征樹の世話係』にされてしまっているようだった。
もはやこの時点で、来年も同じクラス確定だ。
うんざりとため息をつくと、突然目の前ににゅっと征樹の顔が現れた。
秀一のまわりの生徒たちが征樹の突然の出現に驚く中、秀一は顔色ひとつ変えず征樹を見る。
征樹の頭に、昨日まではなかったはずの包帯が痛々しく巻かれているのが気になった。
「なんだよ秀一~。ムシすんなよ! っつーか、お前もっと驚けよなー」
「ああ、びっくりしたびっくりした」
「…………」
秀一がお望み通りの言葉をかけてやると、征樹が明らかにむくれた。
不満げに唇を尖らせる征樹には一切取り合わずに、秀一は言葉を続ける。
「そんなことより征樹。頭どうしたんだ?」
「頭?」
「自分で気づいていないならいい。気づいたら教えてくれ」
「オッケー、了解……ってオイ! 気づかないわきゃねーだろ! 心臓がどきどきするたんびに傷に響いていてえっつーの!」
「いいノリツッコミだな。それで、その怪我どうしたんだ? 俺の興味のあるうちに答えろ」
「……昨日、族抜けしたんだよ」
「族抜け?」
ならばそれは制裁の後か。
意外な言葉に、秀一は一度瞬きした。
征樹はケンカ好きの走り屋だ。
暴走族こそオレの生きる道だぜと普段豪語してうるさい征樹の言葉とは思えなかった。
しゅんと肩を落とす征樹に、内心めんどくさいと嘆息しながらも、それでも放っておけなくて秀一は渋々と理由を訊ねる。
「……抜けたなんてどうしてだ?」
「そんなの決まってんだろ! 受験勉強するためだよ」
「――は?」
秀一はもう一度瞬きをする。
「受験勉強? 俺達はまだ二年のはずだが?」
そもそも、征樹が将来のことを考えているなんて驚きだ。
てっきり、今がよければすべて良し! の刹那主義者だとばかり思っていたのだが。
秀一は開いていた本を閉じて、征樹に向き直る。
少し真面目に、征樹の話を聞いてみる気になった。
秀一の言葉に、征樹が唇を尖らせたまま反論する。
「それはそうなんだけどさ! でもだけど、オレ小五からケンカに走りに明け暮れてて、基礎ねえから。良いとこ行こうとしたら、今からじゃねえと間に合わねえだろ」
「……まあ、基礎がないなら妥当かもしれないが。それにしても驚いたな。良いとこへ行こうという考えがあったのか」
秀一は目の前の征樹をまじまじと見つめた。
征樹はバカなように見えて、非常に頭の回転も早く賢い。
征樹ならある程度のランクの高校なら、すぐに狙えるようになるだろう。
「どこへ行きたいんだ?」
なんとなく興味を引かれて訊くと、征樹が嬉しそうに顔を輝かせた。
「気になるか!?」
「それなりにはな」
「そっかそっか! やっぱり秀一もオレのこと好きだったか! 友達だもんな!」
「…………」
今の征樹の発言には少々納得しかねるが、とりあえず秀一は流すことに決めた。
実際、征樹と一番仲が良いのは事実だ。
秀一は、幼い頃から政治家である父親の跡を継ぐために、さまざまな英才教育を受けてきた。
その中のひとつに、『他人を一切信用するな』というものがある。
顔ではにこにこ笑っていても、腹の底では何を考えているかわからない。誰も信用するな。周りはすべて敵と思え。
秀一も長年その教えに従ってきた。
が、征樹だけは例外だった。
征樹が信頼に足るからとかそういうことではない。
付き纏われてるうちに気づいたのだが、征樹には裏というものがまったくなかった。
他人と自分の境界線が人よりはっきりしており、他人を羨みこそすれ、陥れるという発想がまったくなかった。
……今ではだいぶ信頼しているが、伝えるとうるさくなりそうなのでそれは秀一の胸に留めておく。
「オレ、湖南高校に行きたいんだよな」
「湖南……高校だと……!?」
今度こそ本格的に秀一は驚いて声をあげた。
湖南高校は、神奈川県でもトップに位置する、県立の進学校だ。ちょっとやそっと勉強したところで行けるような学校ではない。
征樹が二年から受験勉強をするのだというのも、志望校が湖南高校なら頷けた。
ちなみに、秀一の志望校も湖南高校だ。いうまでもなく、秀一は現時点で余裕の合格圏だが。
「……なんで湖南高校なんだ?」
珍しく波たった心を落ち着けると、秀一は征樹に訊ねた。
征樹が腕組みをしてなにか考えるように言う。
「んー? どうしてって……。うちさ、貧乏だろ? だから私立の高校行く余裕ねえし、将来はそこそこいい会社に勤めたいからな。そうなったらやっぱり高校はいいとこ行っとかねえとって思って。この辺りだと湖南高校が一番だし、秀一も志望してるって聞いたから」
「いい会社に勤めたい……か。両親でも楽させてやるのか?」
「いんや」
征樹の父親は近所の自動車工場に勤めている。下請けの中でも個人で運営している小さな会社で、当然稼ぎもよくない。そのか細い収入では到底生活もままならず、母親もパートに出ていた。
少しは親孝行するつもりなのかと感心して訊ねると、征樹がなんでと言う言葉を顔にはりつけて首を振った。
「親孝行もなにも、オレんち家庭環境恵まれてねえもん。ガキの頃なんか、お袋にも親父にも、毎日うさ晴らしに殴られてたんだぜ? おかげで強くなったけどさ。あいつらに返す恩なんてねえよ。……まあ、ゼロでもねえけど。だいたい今の職も環境も、選んだのはあいつらだろ? オレが助けてやる義理なんてないね」
「ふうん。クールだな」
「お前に言われたくねえよ。お前の方こそ、家庭環境妙なくせに」
「まあな。だけど別に不満もないさ。俺には合っている」
さらりと返すと、征樹が面白そうに鼻を鳴らした。
秀一も片方の口の端を持ち上げて、意地悪く笑み返す。
「それにしても、本当に意外だな。お前はバイクが好きだから、父親と同じところに勤めるのかと思っていた」
征樹の暴走族入りは、父親のバイク好きも多分に影響している。
当然、劣悪な家庭環境もその原因の一つだが、ただグレるだけならわざわざ暴走族に入らなくとも、いくらでもグレることができる。
あえて暴走族を選んだのは、走ることが好きだからだ。
てっきり将来はそっちのほうへ進むのだとばかり思っていた。
秀一の言葉に、ああ、と征樹が顔をしかめる。
「それも考えたんだけどさ。やっぱりオレは将来の嫁に苦労させたくないわけ。走るのなら、別にどこ勤めてたってできるしな。だからさ」
「ちゃんとしっかり考えてたんだな」
「まあな。でもさあ、秀一。なんでだめなんだろうな?」
「……なにがだ?」
いくら秀一の頭がよくても、さすがに主語がなければわからない。
聞き返すと征樹が悲しそうに眉尻を下げた。
「うちのチームだよ。ちょっと勉強してえから、これからは集会に毎回は参加できねえって言ったら『裏切り者』呼ばわりでこれだぜ?」
征樹が頭の包帯をさして悲しげに笑う。
「……オレは、ただ純粋に走りたかっただけなのによ。どんなに世間を恨んだって、生きてる限り未来はくんじゃねえか。ならその未来を、少しでも受け入れやすくするのに努力すんのは、悪いことなんかな」
「別に悪いことじゃないだろう。考え方の相違さ。お前は少しだけ周りの奴らよりも、考え方が大人なんだ。そいつらも、そのうちいつかきっと気づくさ」
「今は?」
「今は無理だろう。世の中の不条理を受け入れるだけのレセプターがまだない。そういう奴らには時間が必要だ」
「時間……ねえ。別に、自分の為なのにな」
「そう言えるのも、お前が大人だという証拠だな」
「ふうん……。あーあ、でも走りてえなあ……。いいストレス発散になるんだよな」
グッと伸びをして征樹が言った。
「走ればいいじゃないか」
返した言葉に、征樹が目を細めて秀一を見る。
「あのなあ。オレ、族抜けしたんだぞ? しかも裏切り者の烙印おされて。ひとりで走ってたら、あっという間に囲まれてボコられるっつーの」
「くだらないな」
「ワルの集まりなんて案外そんなもんだぜ? 世間の枠組みが嫌ではみ出したくせに、自分たちの組織ではがっちりだもんな。あーあ! ほんと、やだやだ」
「……じゃあ、作るか」
ぽつりと呟くと、征樹が「は?」と顔を向けた。
「作るって何をだよ?」
「暴走族だ。新たにチームを作って、お前のいたところよりも上に行けばいいんだろう? 楽勝じゃないか」
「は……?」
征樹がぽかんと口を開けて秀一を凝視する。
「いや、ちょっとまてよ秀一! お前、自分が何言ってるかわかってるのか?」
「もちろん」
「暴走族なんて、作ろうと思って簡単に作れるもんじゃないんだぜ?」
「当然だな」
「当然だなって……そもそもお前バイク乗れんのかよ」
呆然としたまま征樹が呟いた。
征樹の心配は当然だった。どんなに大人っぽくても秀一たちはまだ中学二年生だ。当然バイクの免許など取ることもできない。
当の征樹も中学一年生の時に族の先輩からバイクの乗り方を教えてもらったらしく、そのおかげで毎夜父親のバイクをこっそり拝借しては、族仲間と乗り回していた。
政治家の息子である秀一の出自を考えれば、免許を持つことが許されないバイクを乗れるとは到底思えないのだろう。
だがしかし、月瀬家はそこでも少し他と変わっていた。
中学に入学した時に、父親の命令で、秀一はバイクと車の運転技術を習得していた。
もちろん屋敷の敷地内でしか運転したことはないし、秀一のバイクも車もないけれど、そんなことはたいした問題じゃなかった。
敷地内は十分外で運転出来るだけの広さと設備が整っていたし、バイクは父親のコレクションが何台もある。
そこから一台拝借することなど、造作もないことだ。
それを伝えると、いよいよ征樹が理解の範疇を超えたというようによろめいた。
「なあ、お前んちの親父って、悪徳政治家かなんかなのか?」
茫然自失と呟かれた言葉に、秀一は肩を竦めてみせる。
「さあな。表だって悪評はたっていないはずだが、まあ、まっとうなほうではないだろうな」
「なんか俺……お前んちこあい……」
ぶるぶるとわざとらしく肩を震わせて言う征樹に、秀一が瞳を細める。
「今更だろう? うちが変わっていることなど、お前はとうに知ってた筈だ」
「そうだけど! でも予想の斜め上をいくっていうか! だいたいお前、暴走族なんか作ったりしたら、家は大丈夫なのかよ!」
「ダメに決まってるだろう? 当然勘当だろうな」
「……一応確認取るんだけど、お前、自分の言ってる意味わかってるんだよな?」
「一瞬前に言った言葉を忘れるほど、俺はもうろくしていないな」
「…………」
さらりと返すと、征樹がじっとりと睨んできた。
秀一はそれに苦笑をこぼす。
「そう怒るなよ。別にお前をからかっているわけじゃないんだ。そうだな……」
呟いて、秀一は顎に手をあてて考えた。
どうして親に勘当されると知りながら、征樹と暴走族を旗揚げしようなどと思ったのか。
親の愛情こそない家庭だけれど、それ以外にはなんの不自由もない。それどころか恵まれすぎているほどだ。このまま親の望む通りその地盤を継げば、地位も名誉も手に入る。なんの苦労もない明るい未来が用意されている。
だけど。
「俺は、退屈しているのかもしれないな」
「退屈?」
征樹が訝しげに声を上げた。
秀一は征樹のほうは見ずに、自身の内側を覗き見るように目を細めて言う。
「ああ。このまま決められた道を歩いていても、所詮先は見えている。そんな人生を歩むより、俺はもっと自分の力を試してみたいのかもな」
「…………」
征樹が、なにか面白いものでも見るような目つきで、まじまじと秀一を見た。
そうして、しみじみと言う。
「オレさ、ずっと思ってたんだけど……」
「なんだ?」
言いよどむ征樹に、促すように視線を向ける。
「お前ってさ、もうすっごくめちゃくちゃ分かりにくいけど、実は心の奥の方で、そりゃもう恐ろしいくらい厄介なひねくれ方してるよな」
「――ああ。そうかもしれないな」
その言葉に、秀一は妙に納得した。
征樹の言う通り、自分はもうとうの昔からこのつまらない人生に嫌気がさして、斜めに世の中を見ていたような気がする。
そうして、ここから抜け出す道をずっと探していたのかもしれない。
「……くっ」
理解するとふいに胸の奥が小さく弾んで、秀一はくつくつと肩を震わせて笑い声をあげた。
珍しい秀一のその姿に、征樹が怯えたように一歩後ずさる。
「お、おい……秀一!? どうしたんだよ、ついに気が触れたか!?」
「くく、まさか。いや、たまにはお前の観察眼も役に立つと思ってな」
「は?」
「なんでもない。とりあえず、暴走族を旗揚げした時の為に今から家でも探しておくか」
「家? なんでだよ」
「あの家は見栄と虚像で出来てるんだ。暴走族を旗揚げしたなんて知れたら、家も追い出されるに決まってるからな」
「……本当に後悔しないんだよな?」
「当たり前だ。むしろ今から楽しみなくらいだ」
心配げに言ってくる征樹にくつくつと喉の奥で笑いを噛み殺しながらいうと、征樹もやっと安心したのか久しぶりに笑顔を見せた。
「よっし! じゃあそうと決まったら早速いろいろ決めようぜ! まず総長はお前でいいよな?」
「俺? 征樹じゃなくていいのか?」
てっきり諸手をあげて志願するとばかり思っていた秀一は、驚いて征樹を見た。
今度は征樹が、呆れたように肩を竦めてくる。
「あったりまえだろ! お前の上なんておっそろしくて夜眠れねっての。お前が頭で、オレは二番手な! そうだな、特攻隊長がいいな! んで、チーム名は『死神』な!」
「待て。『死神』……だと?」
秀一は眉根を寄せて楽しそうに色々決めていく征樹の肩を掴んだ。
征樹がきょとんと顔をあげる。
「え? そう、『死神』。かっこいいだろ?」
「…………。まさか、本気でそんな安直な名前の暴走族にして、しかもそんな安直な名前の族の頭に、俺を据えようってんじゃないだろうな?」
「なんだよー。安直安直ってトゲあるなー。じゃあお前は他になにかいい案があるのかよ」
「いや……ないが……」
だからといって『死神』は納得出来なかった。
そんな誰もが思いつく様な安直な名前、征樹は本気なんだろうか?
眉を寄せる秀一にはお構いなしに、「他に案がないなら『死神』で決定な!」と征樹がどんどんと話を進めていく。
呆れ顔でそれを眺めていると、ひとしきりチームの掟だなんだを決めたところで、征樹がふいに顔をあげた。
頬を薄く染めながらなにやら唇の裏でもごもごと呟いている征樹に、秀一は盛大に顔をしかめる。
「なんだ、征樹。気持ち悪いな。妙に照れているようだが、告白ならお断りだぞ」
さらりと言うと、征樹が顔を真っ赤にして否定の声をあげた。
「バッカ、おぞましいこと言うなよ! そうじゃなくて……誘いたいやつがいるんだよ」
「オンナか?」
訊ねると征樹がはにかむように頷いた。
若干の悪寒を感じながらも、突っ込むと長くなりそうなので放っておく。
「そう。……東島弥生って言って、おんなじチームの子なんだ。前から仲良かったんだけど、オレの族抜けの時に庇ってくれて……」
征樹が頬をかきながら言う。
「まあ、多少の制裁は受けたけどさ。それでも、族抜けするのにこれだけで済んだのは、弥生のおかげなんだ。それに弥生、勉強もしたいっていうオレの気持ちもわかるって言ってたし……。だからうちの方針は合うと思んだよな」
さっき征樹が決めた方針のひとつに、『やりたいことがあるやつを妨害しない』というのがあった。
入るのも自由。出るのも自由。
ただし裏切りには制裁を。
「なるほどな。ところで、東島弥生って、東の島に旧暦の三月の弥生か?」
訊ねると、征樹が驚いたように目を丸くして秀一を見た。
「そうだけど……え、お前、なんで弥生のこと知ってんの?」
「知ってるもなにも……。お前こそ知らなかったのか? 東島弥生はこの学校の生徒だぞ。それどころか、同じクラスだ。まあ、めったに学校に来ないがな」
「――ウッソォ!?」
「ほんとうだ」
「ぜ……全然気づかなかった……」
「お前はかなり真面目に学校に来てるのにな」
秀一は呆れたように征樹を見ると嘆息する。
「東島の家もあまり環境が良くないんだろうな。昔、担任が親も親で呼び出しにも応じないと愚痴っていたのを聞いたことがある」
「んー。そうなのかもな。あいつから家の話聞いたことないから。……秀一は弥生をいれるの反対か?」
「別に。お前が入れたいなら構わないさ」
答えると征樹が嬉しそうに顔をほころばせる。
「やった! じゃあ早速今日にでも弥生に話をしてみるな」
「ああ」
さらりと返事を返すと、秀一はさっきまで読んでいた本を手に取って、それに目を落とした。
もう現時点ではこれ以上征樹と話す事はないだろう。
秀一の目が数行文字をなぞったところで、再び征樹が口を開く。
「なあ、秀一」
「なんだ?」
「……ありがとな」
秀一はちらりと本から顔をあげると、征樹を見た。
征樹が真剣な目で秀一を見てきていた。
秀一は征樹に向けてほんのわずか口許を緩めると、すぐに顔を戻して再び本のページをめくった。
目は文字を追いながら、言葉だけを征樹にかける。
「言ったろう? 俺が退屈していただけだって。お前だけのためじゃないさ」
「だとしても。サンキューな、秀一」
「ああ」
「これからも末永くよろしくな」
「……ああ」
しぶしぶ返事を返す秀一に、征樹がおかしそうに笑いながら秀一の背中を叩いた。
「なーんだよ! そんないやそうな顔すんなよ! ほんとうはオレのことが大好きなくせに!」
「……もう、返す言葉もないな」
秀一は肩をすくめると、今度こそほんとうに本に意識を向けた。
その脳裏の片隅に、嬉しそうな征樹の顔が浮かんで、少しだけ心が温かくなった。
(さて。これから忙しくなりそうだな)
秀一はふうと嘆息すると、頬を緩めてそんな事を考えた。
教室のドアが勢いよく開いて、クラスメートの水戸征樹がそんなことを言いながら中に飛び込んで来た。
月瀬秀一は、うんざりとした心持ちでその声を聞くと、冷たい一瞥だけ征樹に投げて、再び読んでいた本に目を落とす。
水戸征樹は、小学校からの腐れ縁で、小学一・二年生の時に同じクラスになって以来、妙に懐かれてしまっていた。
クラスが離れても、必ず休み時間には秀一に会いにくるという徹底ぶりだ。
正直、鬱陶しくてしょうがない。
幸いその二年間以来征樹とはクラスが離れていたのに、最悪なことに、中学一年生、二年生と、二年連続で秀一は征樹と同じクラスになってしまった。
おまけに、小学五年生の時から地元の暴走族に所属していた征樹は、入学前から教師たちに目をつけられていたらしく、どうやら秀一は、先生たちの間で『征樹の世話係』にされてしまっているようだった。
もはやこの時点で、来年も同じクラス確定だ。
うんざりとため息をつくと、突然目の前ににゅっと征樹の顔が現れた。
秀一のまわりの生徒たちが征樹の突然の出現に驚く中、秀一は顔色ひとつ変えず征樹を見る。
征樹の頭に、昨日まではなかったはずの包帯が痛々しく巻かれているのが気になった。
「なんだよ秀一~。ムシすんなよ! っつーか、お前もっと驚けよなー」
「ああ、びっくりしたびっくりした」
「…………」
秀一がお望み通りの言葉をかけてやると、征樹が明らかにむくれた。
不満げに唇を尖らせる征樹には一切取り合わずに、秀一は言葉を続ける。
「そんなことより征樹。頭どうしたんだ?」
「頭?」
「自分で気づいていないならいい。気づいたら教えてくれ」
「オッケー、了解……ってオイ! 気づかないわきゃねーだろ! 心臓がどきどきするたんびに傷に響いていてえっつーの!」
「いいノリツッコミだな。それで、その怪我どうしたんだ? 俺の興味のあるうちに答えろ」
「……昨日、族抜けしたんだよ」
「族抜け?」
ならばそれは制裁の後か。
意外な言葉に、秀一は一度瞬きした。
征樹はケンカ好きの走り屋だ。
暴走族こそオレの生きる道だぜと普段豪語してうるさい征樹の言葉とは思えなかった。
しゅんと肩を落とす征樹に、内心めんどくさいと嘆息しながらも、それでも放っておけなくて秀一は渋々と理由を訊ねる。
「……抜けたなんてどうしてだ?」
「そんなの決まってんだろ! 受験勉強するためだよ」
「――は?」
秀一はもう一度瞬きをする。
「受験勉強? 俺達はまだ二年のはずだが?」
そもそも、征樹が将来のことを考えているなんて驚きだ。
てっきり、今がよければすべて良し! の刹那主義者だとばかり思っていたのだが。
秀一は開いていた本を閉じて、征樹に向き直る。
少し真面目に、征樹の話を聞いてみる気になった。
秀一の言葉に、征樹が唇を尖らせたまま反論する。
「それはそうなんだけどさ! でもだけど、オレ小五からケンカに走りに明け暮れてて、基礎ねえから。良いとこ行こうとしたら、今からじゃねえと間に合わねえだろ」
「……まあ、基礎がないなら妥当かもしれないが。それにしても驚いたな。良いとこへ行こうという考えがあったのか」
秀一は目の前の征樹をまじまじと見つめた。
征樹はバカなように見えて、非常に頭の回転も早く賢い。
征樹ならある程度のランクの高校なら、すぐに狙えるようになるだろう。
「どこへ行きたいんだ?」
なんとなく興味を引かれて訊くと、征樹が嬉しそうに顔を輝かせた。
「気になるか!?」
「それなりにはな」
「そっかそっか! やっぱり秀一もオレのこと好きだったか! 友達だもんな!」
「…………」
今の征樹の発言には少々納得しかねるが、とりあえず秀一は流すことに決めた。
実際、征樹と一番仲が良いのは事実だ。
秀一は、幼い頃から政治家である父親の跡を継ぐために、さまざまな英才教育を受けてきた。
その中のひとつに、『他人を一切信用するな』というものがある。
顔ではにこにこ笑っていても、腹の底では何を考えているかわからない。誰も信用するな。周りはすべて敵と思え。
秀一も長年その教えに従ってきた。
が、征樹だけは例外だった。
征樹が信頼に足るからとかそういうことではない。
付き纏われてるうちに気づいたのだが、征樹には裏というものがまったくなかった。
他人と自分の境界線が人よりはっきりしており、他人を羨みこそすれ、陥れるという発想がまったくなかった。
……今ではだいぶ信頼しているが、伝えるとうるさくなりそうなのでそれは秀一の胸に留めておく。
「オレ、湖南高校に行きたいんだよな」
「湖南……高校だと……!?」
今度こそ本格的に秀一は驚いて声をあげた。
湖南高校は、神奈川県でもトップに位置する、県立の進学校だ。ちょっとやそっと勉強したところで行けるような学校ではない。
征樹が二年から受験勉強をするのだというのも、志望校が湖南高校なら頷けた。
ちなみに、秀一の志望校も湖南高校だ。いうまでもなく、秀一は現時点で余裕の合格圏だが。
「……なんで湖南高校なんだ?」
珍しく波たった心を落ち着けると、秀一は征樹に訊ねた。
征樹が腕組みをしてなにか考えるように言う。
「んー? どうしてって……。うちさ、貧乏だろ? だから私立の高校行く余裕ねえし、将来はそこそこいい会社に勤めたいからな。そうなったらやっぱり高校はいいとこ行っとかねえとって思って。この辺りだと湖南高校が一番だし、秀一も志望してるって聞いたから」
「いい会社に勤めたい……か。両親でも楽させてやるのか?」
「いんや」
征樹の父親は近所の自動車工場に勤めている。下請けの中でも個人で運営している小さな会社で、当然稼ぎもよくない。そのか細い収入では到底生活もままならず、母親もパートに出ていた。
少しは親孝行するつもりなのかと感心して訊ねると、征樹がなんでと言う言葉を顔にはりつけて首を振った。
「親孝行もなにも、オレんち家庭環境恵まれてねえもん。ガキの頃なんか、お袋にも親父にも、毎日うさ晴らしに殴られてたんだぜ? おかげで強くなったけどさ。あいつらに返す恩なんてねえよ。……まあ、ゼロでもねえけど。だいたい今の職も環境も、選んだのはあいつらだろ? オレが助けてやる義理なんてないね」
「ふうん。クールだな」
「お前に言われたくねえよ。お前の方こそ、家庭環境妙なくせに」
「まあな。だけど別に不満もないさ。俺には合っている」
さらりと返すと、征樹が面白そうに鼻を鳴らした。
秀一も片方の口の端を持ち上げて、意地悪く笑み返す。
「それにしても、本当に意外だな。お前はバイクが好きだから、父親と同じところに勤めるのかと思っていた」
征樹の暴走族入りは、父親のバイク好きも多分に影響している。
当然、劣悪な家庭環境もその原因の一つだが、ただグレるだけならわざわざ暴走族に入らなくとも、いくらでもグレることができる。
あえて暴走族を選んだのは、走ることが好きだからだ。
てっきり将来はそっちのほうへ進むのだとばかり思っていた。
秀一の言葉に、ああ、と征樹が顔をしかめる。
「それも考えたんだけどさ。やっぱりオレは将来の嫁に苦労させたくないわけ。走るのなら、別にどこ勤めてたってできるしな。だからさ」
「ちゃんとしっかり考えてたんだな」
「まあな。でもさあ、秀一。なんでだめなんだろうな?」
「……なにがだ?」
いくら秀一の頭がよくても、さすがに主語がなければわからない。
聞き返すと征樹が悲しそうに眉尻を下げた。
「うちのチームだよ。ちょっと勉強してえから、これからは集会に毎回は参加できねえって言ったら『裏切り者』呼ばわりでこれだぜ?」
征樹が頭の包帯をさして悲しげに笑う。
「……オレは、ただ純粋に走りたかっただけなのによ。どんなに世間を恨んだって、生きてる限り未来はくんじゃねえか。ならその未来を、少しでも受け入れやすくするのに努力すんのは、悪いことなんかな」
「別に悪いことじゃないだろう。考え方の相違さ。お前は少しだけ周りの奴らよりも、考え方が大人なんだ。そいつらも、そのうちいつかきっと気づくさ」
「今は?」
「今は無理だろう。世の中の不条理を受け入れるだけのレセプターがまだない。そういう奴らには時間が必要だ」
「時間……ねえ。別に、自分の為なのにな」
「そう言えるのも、お前が大人だという証拠だな」
「ふうん……。あーあ、でも走りてえなあ……。いいストレス発散になるんだよな」
グッと伸びをして征樹が言った。
「走ればいいじゃないか」
返した言葉に、征樹が目を細めて秀一を見る。
「あのなあ。オレ、族抜けしたんだぞ? しかも裏切り者の烙印おされて。ひとりで走ってたら、あっという間に囲まれてボコられるっつーの」
「くだらないな」
「ワルの集まりなんて案外そんなもんだぜ? 世間の枠組みが嫌ではみ出したくせに、自分たちの組織ではがっちりだもんな。あーあ! ほんと、やだやだ」
「……じゃあ、作るか」
ぽつりと呟くと、征樹が「は?」と顔を向けた。
「作るって何をだよ?」
「暴走族だ。新たにチームを作って、お前のいたところよりも上に行けばいいんだろう? 楽勝じゃないか」
「は……?」
征樹がぽかんと口を開けて秀一を凝視する。
「いや、ちょっとまてよ秀一! お前、自分が何言ってるかわかってるのか?」
「もちろん」
「暴走族なんて、作ろうと思って簡単に作れるもんじゃないんだぜ?」
「当然だな」
「当然だなって……そもそもお前バイク乗れんのかよ」
呆然としたまま征樹が呟いた。
征樹の心配は当然だった。どんなに大人っぽくても秀一たちはまだ中学二年生だ。当然バイクの免許など取ることもできない。
当の征樹も中学一年生の時に族の先輩からバイクの乗り方を教えてもらったらしく、そのおかげで毎夜父親のバイクをこっそり拝借しては、族仲間と乗り回していた。
政治家の息子である秀一の出自を考えれば、免許を持つことが許されないバイクを乗れるとは到底思えないのだろう。
だがしかし、月瀬家はそこでも少し他と変わっていた。
中学に入学した時に、父親の命令で、秀一はバイクと車の運転技術を習得していた。
もちろん屋敷の敷地内でしか運転したことはないし、秀一のバイクも車もないけれど、そんなことはたいした問題じゃなかった。
敷地内は十分外で運転出来るだけの広さと設備が整っていたし、バイクは父親のコレクションが何台もある。
そこから一台拝借することなど、造作もないことだ。
それを伝えると、いよいよ征樹が理解の範疇を超えたというようによろめいた。
「なあ、お前んちの親父って、悪徳政治家かなんかなのか?」
茫然自失と呟かれた言葉に、秀一は肩を竦めてみせる。
「さあな。表だって悪評はたっていないはずだが、まあ、まっとうなほうではないだろうな」
「なんか俺……お前んちこあい……」
ぶるぶるとわざとらしく肩を震わせて言う征樹に、秀一が瞳を細める。
「今更だろう? うちが変わっていることなど、お前はとうに知ってた筈だ」
「そうだけど! でも予想の斜め上をいくっていうか! だいたいお前、暴走族なんか作ったりしたら、家は大丈夫なのかよ!」
「ダメに決まってるだろう? 当然勘当だろうな」
「……一応確認取るんだけど、お前、自分の言ってる意味わかってるんだよな?」
「一瞬前に言った言葉を忘れるほど、俺はもうろくしていないな」
「…………」
さらりと返すと、征樹がじっとりと睨んできた。
秀一はそれに苦笑をこぼす。
「そう怒るなよ。別にお前をからかっているわけじゃないんだ。そうだな……」
呟いて、秀一は顎に手をあてて考えた。
どうして親に勘当されると知りながら、征樹と暴走族を旗揚げしようなどと思ったのか。
親の愛情こそない家庭だけれど、それ以外にはなんの不自由もない。それどころか恵まれすぎているほどだ。このまま親の望む通りその地盤を継げば、地位も名誉も手に入る。なんの苦労もない明るい未来が用意されている。
だけど。
「俺は、退屈しているのかもしれないな」
「退屈?」
征樹が訝しげに声を上げた。
秀一は征樹のほうは見ずに、自身の内側を覗き見るように目を細めて言う。
「ああ。このまま決められた道を歩いていても、所詮先は見えている。そんな人生を歩むより、俺はもっと自分の力を試してみたいのかもな」
「…………」
征樹が、なにか面白いものでも見るような目つきで、まじまじと秀一を見た。
そうして、しみじみと言う。
「オレさ、ずっと思ってたんだけど……」
「なんだ?」
言いよどむ征樹に、促すように視線を向ける。
「お前ってさ、もうすっごくめちゃくちゃ分かりにくいけど、実は心の奥の方で、そりゃもう恐ろしいくらい厄介なひねくれ方してるよな」
「――ああ。そうかもしれないな」
その言葉に、秀一は妙に納得した。
征樹の言う通り、自分はもうとうの昔からこのつまらない人生に嫌気がさして、斜めに世の中を見ていたような気がする。
そうして、ここから抜け出す道をずっと探していたのかもしれない。
「……くっ」
理解するとふいに胸の奥が小さく弾んで、秀一はくつくつと肩を震わせて笑い声をあげた。
珍しい秀一のその姿に、征樹が怯えたように一歩後ずさる。
「お、おい……秀一!? どうしたんだよ、ついに気が触れたか!?」
「くく、まさか。いや、たまにはお前の観察眼も役に立つと思ってな」
「は?」
「なんでもない。とりあえず、暴走族を旗揚げした時の為に今から家でも探しておくか」
「家? なんでだよ」
「あの家は見栄と虚像で出来てるんだ。暴走族を旗揚げしたなんて知れたら、家も追い出されるに決まってるからな」
「……本当に後悔しないんだよな?」
「当たり前だ。むしろ今から楽しみなくらいだ」
心配げに言ってくる征樹にくつくつと喉の奥で笑いを噛み殺しながらいうと、征樹もやっと安心したのか久しぶりに笑顔を見せた。
「よっし! じゃあそうと決まったら早速いろいろ決めようぜ! まず総長はお前でいいよな?」
「俺? 征樹じゃなくていいのか?」
てっきり諸手をあげて志願するとばかり思っていた秀一は、驚いて征樹を見た。
今度は征樹が、呆れたように肩を竦めてくる。
「あったりまえだろ! お前の上なんておっそろしくて夜眠れねっての。お前が頭で、オレは二番手な! そうだな、特攻隊長がいいな! んで、チーム名は『死神』な!」
「待て。『死神』……だと?」
秀一は眉根を寄せて楽しそうに色々決めていく征樹の肩を掴んだ。
征樹がきょとんと顔をあげる。
「え? そう、『死神』。かっこいいだろ?」
「…………。まさか、本気でそんな安直な名前の暴走族にして、しかもそんな安直な名前の族の頭に、俺を据えようってんじゃないだろうな?」
「なんだよー。安直安直ってトゲあるなー。じゃあお前は他になにかいい案があるのかよ」
「いや……ないが……」
だからといって『死神』は納得出来なかった。
そんな誰もが思いつく様な安直な名前、征樹は本気なんだろうか?
眉を寄せる秀一にはお構いなしに、「他に案がないなら『死神』で決定な!」と征樹がどんどんと話を進めていく。
呆れ顔でそれを眺めていると、ひとしきりチームの掟だなんだを決めたところで、征樹がふいに顔をあげた。
頬を薄く染めながらなにやら唇の裏でもごもごと呟いている征樹に、秀一は盛大に顔をしかめる。
「なんだ、征樹。気持ち悪いな。妙に照れているようだが、告白ならお断りだぞ」
さらりと言うと、征樹が顔を真っ赤にして否定の声をあげた。
「バッカ、おぞましいこと言うなよ! そうじゃなくて……誘いたいやつがいるんだよ」
「オンナか?」
訊ねると征樹がはにかむように頷いた。
若干の悪寒を感じながらも、突っ込むと長くなりそうなので放っておく。
「そう。……東島弥生って言って、おんなじチームの子なんだ。前から仲良かったんだけど、オレの族抜けの時に庇ってくれて……」
征樹が頬をかきながら言う。
「まあ、多少の制裁は受けたけどさ。それでも、族抜けするのにこれだけで済んだのは、弥生のおかげなんだ。それに弥生、勉強もしたいっていうオレの気持ちもわかるって言ってたし……。だからうちの方針は合うと思んだよな」
さっき征樹が決めた方針のひとつに、『やりたいことがあるやつを妨害しない』というのがあった。
入るのも自由。出るのも自由。
ただし裏切りには制裁を。
「なるほどな。ところで、東島弥生って、東の島に旧暦の三月の弥生か?」
訊ねると、征樹が驚いたように目を丸くして秀一を見た。
「そうだけど……え、お前、なんで弥生のこと知ってんの?」
「知ってるもなにも……。お前こそ知らなかったのか? 東島弥生はこの学校の生徒だぞ。それどころか、同じクラスだ。まあ、めったに学校に来ないがな」
「――ウッソォ!?」
「ほんとうだ」
「ぜ……全然気づかなかった……」
「お前はかなり真面目に学校に来てるのにな」
秀一は呆れたように征樹を見ると嘆息する。
「東島の家もあまり環境が良くないんだろうな。昔、担任が親も親で呼び出しにも応じないと愚痴っていたのを聞いたことがある」
「んー。そうなのかもな。あいつから家の話聞いたことないから。……秀一は弥生をいれるの反対か?」
「別に。お前が入れたいなら構わないさ」
答えると征樹が嬉しそうに顔をほころばせる。
「やった! じゃあ早速今日にでも弥生に話をしてみるな」
「ああ」
さらりと返事を返すと、秀一はさっきまで読んでいた本を手に取って、それに目を落とした。
もう現時点ではこれ以上征樹と話す事はないだろう。
秀一の目が数行文字をなぞったところで、再び征樹が口を開く。
「なあ、秀一」
「なんだ?」
「……ありがとな」
秀一はちらりと本から顔をあげると、征樹を見た。
征樹が真剣な目で秀一を見てきていた。
秀一は征樹に向けてほんのわずか口許を緩めると、すぐに顔を戻して再び本のページをめくった。
目は文字を追いながら、言葉だけを征樹にかける。
「言ったろう? 俺が退屈していただけだって。お前だけのためじゃないさ」
「だとしても。サンキューな、秀一」
「ああ」
「これからも末永くよろしくな」
「……ああ」
しぶしぶ返事を返す秀一に、征樹がおかしそうに笑いながら秀一の背中を叩いた。
「なーんだよ! そんないやそうな顔すんなよ! ほんとうはオレのことが大好きなくせに!」
「……もう、返す言葉もないな」
秀一は肩をすくめると、今度こそほんとうに本に意識を向けた。
その脳裏の片隅に、嬉しそうな征樹の顔が浮かんで、少しだけ心が温かくなった。
(さて。これから忙しくなりそうだな)
秀一はふうと嘆息すると、頬を緩めてそんな事を考えた。
1/1ページ