【親編】クラス顔合わせ
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高校の入学式。それがお開きになって、生徒たちがどんどん自分のクラスへと移動していく。
千鶴はそんな中ぼんやりと立ち尽くして、流れる生徒たちの背中を見るともなしに眺めていた。
そろそろと自分のおでこに触れる。
じんわりと熱い。
まだそこにさきほどの男子生徒の唇の感触が残っていた。
「…………」
千鶴の脳裏に、さっきの男子生徒の顔が浮かぶ。
秀一……という名前だっただろうか。
切れ長の瞳が印象的な、やけに貫禄のある男子生徒。
(結構、かっこいい人だったよね)
思い出して、千鶴の頬がほんのり赤らむ。
と、その時。
「おーい、千鶴! なにぼーっとしてんだよ!」
ふと名前を呼ばれて千鶴は振り返った。
「あ、翔くん!」
同じ中学出身の山本翔(しょう)だった。
翔は中学三年のときに同じクラスで、しっかり者の彼はよくおっちょこちょいの千鶴の面倒を見てくれていた。
千鶴の入学した高校は県内でも有名な進学校で、千鶴たちの住まう地域から少し離れたところにある。そのことも関係してか、同じ中学出身の生徒は千鶴と翔の二人だけだった。
どうやらここでも翔は千鶴のお目付け役を買ってでてくれるらしい。
ほんとうに面倒見のいい人だ。
翔は手に持っていた入学式の進行表を丸めると、ぽこりといい音をさせて千鶴の頭を叩いた。
「もうみんなクラスに移動はじめてるぞ? お前なに番人みたいにのんびりみんなの背中眺めてんだよ」
「ごめんね。ちょっとぼんやりしちゃって……」
「ぼんやり? 校長の長話に頭やられちゃったか?」
「むう。失礼だなあ、翔くんは」
ずばりと失礼きわまりない事を言う翔に、千鶴は不満げに頬を膨らませた。
翔は優しい性格をしているのだが、こういうところが玉に瑕だと千鶴は思う。
とにかく、ひとをからかうのが大好きなのだ。
そんな千鶴の胸中をしってかしらずか、翔が、ははと爽やかに笑う。
「まあまあ、ほんとうのことだろ? ほら、千鶴。クラス行くぞ」
言いながら翔が歩き出した。
千鶴も慌ててその後に続きながら、クラス分けの紙をがさがさと広げる。
そういえばまだ自分が何組か確認していなかった。
10組まであるクラスを1組から順々に、『安堂』の文字を探していく。
「あ、あったあった。わたし1年8組だー。翔くんはクラスどこ?」
「お前と同じだよ。なんだよ、千鶴。自分のクラスまだ確認してなかったのか?」
「いや、ちょっと入学式の間に事件がありまして……」
「……寝たのか」
「……ソノトオリデス」
また馬鹿にされるのかなと千鶴の笑顔が思わずひきつった。
それを見て翔が優しく瞳を細めると、ふんわりとした手つきで千鶴の頭を撫でてくる。
「まあ、あの話は千鶴には硬すぎたよな。えーっと1年8組は……こっちか」
進行表の裏に書かれている校舎見取り図を時折確認しながら、翔が校舎内を歩いていく。
千鶴はその背中を見失わないように必死に後を着いていった。
(さっきの彼は何組だろう……)
翔の後を追いかけながらも、頭が無意識にそんなことを考える。
なんとなく同じクラスになれたらいいなと思った。
高校生離れした超然とした雰囲気を持ったあの男子生徒と、千鶴はもっと話してみたかった。
自分とはまったく正反対の彼。彼の目に映る世界に、千鶴は単純に興味があった。
「お、あったあった。千鶴、ここだぞ」
そんなことを考えていると、翔の一際明るい声が千鶴の鼓膜を叩いた。
千鶴が顔をあげたと同時に、翔の背中が教室内にするりと消えていく。
「あ、待ってよ翔くん!」
知らない校舎で知らないクラス。ひとりにされるのはすごく不安だった。
千鶴は慌てて翔に続いて教室に入る。
と、何かにつまづいた。
「わ!?」
自慢じゃないが、千鶴はあまり運動神経がよろしくない。
咄嗟に受身をとることもできず、千鶴は教室の入り口で派手にすっころんだ。
「いったぁ……」
転んだ拍子に打ち付けたのか、膝がじんじんとして痛い。おそるおそる目をやると、そこから血が滲み出していた。
「ぶっ! ち、千鶴なにやってんだよ! はっずかしいやつだな、お前!」
目の前で、翔があははははとお腹を抱えながら笑い転げている。
千鶴はそんな翔を、目尻に涙を浮かべながら恨めしげに見つめた。
ひどい。あんまりだ。こっちだってこれから一年間をともにするクラスメートの前で派手に転んでしまって、顔から火が出るくらい恥ずかしいのに、もう少し優しくしてくれてもいいじゃないか。おまけに足だって負傷しているのに。
もうほとんどそろっていたクラスメートたちは、しゃがんだままの千鶴を心配そうに眺めていた。
騒ぎ立てたり笑ったりしないのはさすがに進学校の生徒といったところか。
そんなことを考えながら、ひとりだけひいひい笑い転げてうるさい翔に唇を尖らせていると、翔がやっと気が済んだのか、わるいわるいと千鶴に謝った。
目尻の涙を拭いながら、翔が手を差し伸べてくる。
と、そのとき。
「大丈夫か?」
低く落ち着いた声が割り込んできた。
秀一だった。
「あ! さっきの……」
千鶴の胸が小さく弾む。
(同じクラスだったんだ!)
秀一は静かに千鶴の前に立つと、すぐに膝の傷に気づいて軽く眉根を寄せた。
「秀一だ。月瀬秀一。……ひざ。怪我したのか?」
「あ、うん。ちょっと転んだ拍子にきっちゃったみたい。でも大丈夫だよ。たいしたことな……ってきゃあ!?」
言葉の途中で、突然秀一がしゃがんだままだった千鶴の脇の下に手を差し入れてきた。
そのまま小さい子を抱き上げるように、ひょいと抱えあげられ、千鶴の心臓がばくんと大きく跳ねる。
(い、いいいいいきなりなに!? なんで!?)
教室の注目が、さっき以上に自分に集まっているのがわかる。
千鶴の心臓が忙しなく拍動し、体中の血が沸騰したように熱くなった。
「わ、ちょ、あの、離してっ」
父親以外の男の人に抱き上げられるなんて初めてだ。しかもこんな公衆の面前で。
恥ずかしさと混乱で千鶴は思わずじたばたと抵抗した。
と、それまで無表情だった秀一が、ぴくりと片眉をあげた。
「あまり暴れるな。今降ろしてやるから」
秀一は言うと、手近にあった空席の机の上に千鶴のからだを降ろした。
「わっ」
動揺する千鶴には一切取り合わず、秀一はマイペースに千鶴の怪我した足を掴むと、膝を曲げたり伸ばしたりしながら「痛いか?」と聞いてきた。
秀一の指先が触れた場所から千鶴の心臓に、沸騰した血が逆流していく。その部分が熱を持ってじんじんして、もはやそれが怪我のせいなのか秀一のせいなのかさっぱりわからなかった。
とりあえず痛みがないことだけは伝えなくてはと、千鶴は真っ赤になった顔を必死で横に振る。
「だ、大丈夫!」
「そうか。ただの擦り傷だな。心配ない。あれだけ派手に転んでこの程度の擦り傷なら、逆に軽症だろう。よかったな」
「あ、ありがとう……」
お礼を言うと、それまで無表情に淡々と言っていた秀一が、微かに表情を緩めて千鶴を見た。
もう一度、千鶴の心臓が大きく飛び跳ねた。
だけどその笑顔も一瞬で、秀一はすぐにもとの表情に戻ると、千鶴の足に目を落とした。
「絆創膏あるか?」
「え、絆創膏? ごめんなさい、持ってない……」
首を振る千鶴に、また新たな声が割り込む。
「あー、あたし持ってるよ。ほら」
振り向くと、入学式のときに話した金髪美人が絆創膏をひらひらと振っていた。
たしか、弥生という名前だったろうか。
秀一は弥生から絆創膏を受け取ると、ぺりぺりと袋を剥がしながら弥生に言う。
「お前が絆創膏持ってるなんて意外だな。雨でも降るのか?」
「アンタね。今のアンタの行動の方があたしが絆創膏持ってるよりよっぽど意外でしょ。明日が地球最後の日かと思っちゃうわよ」
「だよなー、言えてる言えてる!」
弥生の言葉に、いかにも元気印といった感じの男子生徒が同意した。
彼は……たしか、征樹と呼ばれていただろうか。
秀一は二人の発言に冷たい一瞥を向けると、すぐにまた千鶴の足に視線を戻した。
ティッシュで軽く千鶴の足の血を拭って、そこに絆創膏をぺたりと貼り付ける。
「ありがとう、月瀬くん」
「秀一でいい」
「あ、えと……秀一くん」
「秀一」
「…………」
重ねて言ってくる秀一に、千鶴の顔が赤くなった。
秀一はけっこう強引なところがあるらしい。おまけに、不思議と逆らえないような雰囲気があった。
秀一は言ってみろといわんばかりに、千鶴を静かに見つめてくる。
その瞳に、千鶴の体を焦りのような恥ずかしさのようなものが駆け抜けた。
(ど、どうしよう……!)
とまどっていると、
「おい! お前千鶴のなんなんだよ!」
それまで呆気に取られていた翔が、ハッと我に返って秀一に掴みかかった。
振り返った秀一の顔を見て、今度は凍りつく。
「――!? お、まえ……! 月瀬……秀一!? あの、『死神』の……!?」
(死神……?)
千鶴はきょとんと首をかしげた。
ざわっと教室が、さっきまでと違う温度でざわめく。
翔が怯えたようによろりと数歩後ろへ後ずさった。
秀一は翔に向き直ると、少しだけ意外そうに翔を眺める。
「へえ。知ってるのか? お前みたいな善人そうな男が」
秀一のその言葉に、弥生と征樹がひゅうっと囃したてるような口笛を吹いた。
ふたりにとっても意外だったんだろう。少しだけ驚きの混じった、だけどおもしろそうな笑顔を浮かべて翔を見ている。
「ここいらの男なら、『死神』の月瀬秀一のこと知らないやついないだろ。あんたはそれくらい有名だ」
「それは光栄だな。だがいまそれは関係ない。俺は学校では暴れるつもりはない。それくらいの分別は持ち合わせているつもりだ。わかったらもういいか?」
なんでもないことのようにさらりと言うと、この話はこれで終わりとでもいうように、秀一は再び千鶴に向き直ろうとした。
が、翔が秀一の肩を掴んで、それを遮る。
秀一はその切れ長の眼差しを細めて、不機嫌そうに翔を見た。
「なんだ?」
その声音の冷たさに、教室のざわめきが水を打ったようにしんと静まり返る。
千鶴も、間近で変わった秀一の態度に驚いていた。
さっきまで秀一を包んでいた柔らかい雰囲気が、今では鋭く尖ったものに変わっている。
みんな息をひそめて、成り行きを見守っていた。
「千鶴から離れろ。お前みたいな不良が近づいていいような子じゃない」
「ふうん? 千鶴とお前はどういう関係なんだ?」
「友達だ。……今はな」
ふいに、翔が熱を帯びた瞳で千鶴を見つめてきた。
千鶴は驚いて翔の瞳を見つめ返す。
(翔くん……?)
心臓が小さくざわめいた。
翔にあんな瞳で見つめられたのは初めてだ。
「なるほど。今は……か。なら、お前こそ引っ込んでいてくれないか?」
「は!? なんでだよ!」
「俺はどうやら千鶴に惚れたらしい。だからお前が千鶴に近づくのがおもしろくない。それに、好きな女が怪我をしても助けもせず笑っていられるようなやつには、なおのこと千鶴に触れて欲しくない。それが理由だ」
「は!?」
「――え!?」
千鶴のからだが硬直した。
あまりにあっさり言われすぎて、今一瞬なにが起こったのかわからなかった。
(い、いま……秀一くん……なんて?)
混乱する頭を整理しようとする。
と、それまで千鶴に背を向けていた秀一が、くるりと振り向いた。
「!」
間近で秀一の瞳に見つめられて、千鶴の全身が心臓になったように激しく鼓動した。
体中が熱くなるのを、止めることができない。
「あ、あの……!」
「聞こえたか、千鶴?」
そっと壊れ物に触るかのように、秀一の指が千鶴の頬に触れた。
更に高鳴る心臓。
それまでの無表情を崩して、秀一が柔らかく微笑んでくる。
「もう一度言うが、俺はどうやらお前に一目惚れしたらしい」
「え!? ええ!? そんな……まさか……!」
はっきり言って信じられなかった。
だって自分が秀一と初めて会ったのは、つい今しがたの入学式のときだ。
その時にしたことといえば、入学式のほとんどの時間を秀一に肩を借りて寝たことと、起きてよだれの心配をしたこと。他には……なにもない。
「…………」
思い返してみても、好きになってもらえる要素など微塵も見当たらなかった。
「…………。秀一くんって、元気によだれをたらす女の子が好みなの?」
それなら自分を好きになるのも頷ける。
思って質問すると、秀一がその整った顔を思いっきりしかめた。
「俺にはそんな奇特な趣味はないが」
「そ、そっか。そうだよね……。あれ? でもわたしは元気よくよだれたらす女子だから、そうしたらわたしのこと好きじゃないんじゃない?」
「千鶴は別だ。もしよだれがたれてたら拭いてやる。ひとつ聞いておきたいんだが、お前は寝てるときだけじゃなくて、起きているときもよだれをたらすのか?」
「まさか! そこまで口元緩くないよ! もう、秀一くんは失礼だなあ!」
興味深げに訊いて来る秀一に、千鶴は小さく頬を膨らませる。
そして再び眉間に皺を寄せてうーんと唸った。
「でもそうなってくるといよいよわからないなー。わたし、秀一くんに好かれる理由が全然見当たらないもん」
「別になにも今わかろうとしなくていい。これから時間を掛けて、ゆっくりとわからせてやるさ」
「!」
最後の言葉を耳元で囁いて秀一は自信たっぷりに微笑むと、千鶴の頭をそっと撫でた。
翔を振り返って、背筋も凍るような薄い笑みを向ける。
「と、いうわけだ。千鶴の面倒は今日から俺が見る。今までご苦労だったな」
「――なっ! お前なんかに任せられるか! 千鶴、お前もなんとか言えよ!」
翔の言葉に、ハッと千鶴は我に返った。
「あ、えと……」
何か言おうとした千鶴の肩を、ぽんと弥生が元気づけるように叩いてくる。
「残念だったね、千鶴。ありゃ秀一本気だわ。逃げらんないよ」
「え、え?」
「だなー。でも秀一が誰かを好きになるなんて驚いたな。あいつ、ひとに興味全然ないのに。それが一目惚れだもんなー」
まあ、こんだけかわいいこならわからなくもないけど。征樹はひとり言のようにそう言うと、「あ、でも」と千鶴に微笑んだ。
「一目惚れとはいっても、顔だけで惚れたわけじゃないと思うよ。なんかキミにピンと来るものがあったんじゃないかな、きっと。あ、それから安心して。秀一、確かに暴走族の総長とかやってっけどさ、一般人には絶対手を出さないから。弱いものいじめだってしないし。まあ、うちはほんとうは走りがメインだからな。そんなにこわがんなくていいぜ。あ、オレ水戸征樹。『死神』ナンバーツー。かっこいいだろ!? よろしくな」
「あー、そういや自己紹介がまだだったね。あたしは東島弥生。弥生でいいよ。『死神』でナンバースリーやってる。よろしくね」
「安堂千鶴です。こちらこそよろしくね」
二人の挨拶に千鶴は笑顔で答えた。
暴走族って聞いてびっくりしたけれど、秀一も弥生も征樹も、とても悪い人には見えなかった。
多分、秀一の作ったという暴走族自体、そんなに悪いグループではないんだろう。
これまで秀一と話した少ない会話の中で、千鶴はそんなことを思った。
にこにこ笑っている千鶴を弥生と征樹はどこかほっとしたように見つめると、仕切りなおすように、弥生がごほんと咳払いした。
「まあ」
「とにかく」
「「ガンバレ!」」
大いに同情を含む声音で、千鶴は弥生と征樹に応援された。
「う、うん。ありがとう……」
千鶴は曖昧に頷きながら、翔の文句を涼しい顔で流している秀一の背中を見つめた。
自分の気持ちが恋かどうかわからない。
だけど、秀一が気になることは確かだった。
(これから……楽しくなりそう……かな?)
ほんのちょっぴりの不安と、大きな期待を胸に抱いて、千鶴はにっこり微笑んだ。
千鶴はそんな中ぼんやりと立ち尽くして、流れる生徒たちの背中を見るともなしに眺めていた。
そろそろと自分のおでこに触れる。
じんわりと熱い。
まだそこにさきほどの男子生徒の唇の感触が残っていた。
「…………」
千鶴の脳裏に、さっきの男子生徒の顔が浮かぶ。
秀一……という名前だっただろうか。
切れ長の瞳が印象的な、やけに貫禄のある男子生徒。
(結構、かっこいい人だったよね)
思い出して、千鶴の頬がほんのり赤らむ。
と、その時。
「おーい、千鶴! なにぼーっとしてんだよ!」
ふと名前を呼ばれて千鶴は振り返った。
「あ、翔くん!」
同じ中学出身の山本翔(しょう)だった。
翔は中学三年のときに同じクラスで、しっかり者の彼はよくおっちょこちょいの千鶴の面倒を見てくれていた。
千鶴の入学した高校は県内でも有名な進学校で、千鶴たちの住まう地域から少し離れたところにある。そのことも関係してか、同じ中学出身の生徒は千鶴と翔の二人だけだった。
どうやらここでも翔は千鶴のお目付け役を買ってでてくれるらしい。
ほんとうに面倒見のいい人だ。
翔は手に持っていた入学式の進行表を丸めると、ぽこりといい音をさせて千鶴の頭を叩いた。
「もうみんなクラスに移動はじめてるぞ? お前なに番人みたいにのんびりみんなの背中眺めてんだよ」
「ごめんね。ちょっとぼんやりしちゃって……」
「ぼんやり? 校長の長話に頭やられちゃったか?」
「むう。失礼だなあ、翔くんは」
ずばりと失礼きわまりない事を言う翔に、千鶴は不満げに頬を膨らませた。
翔は優しい性格をしているのだが、こういうところが玉に瑕だと千鶴は思う。
とにかく、ひとをからかうのが大好きなのだ。
そんな千鶴の胸中をしってかしらずか、翔が、ははと爽やかに笑う。
「まあまあ、ほんとうのことだろ? ほら、千鶴。クラス行くぞ」
言いながら翔が歩き出した。
千鶴も慌ててその後に続きながら、クラス分けの紙をがさがさと広げる。
そういえばまだ自分が何組か確認していなかった。
10組まであるクラスを1組から順々に、『安堂』の文字を探していく。
「あ、あったあった。わたし1年8組だー。翔くんはクラスどこ?」
「お前と同じだよ。なんだよ、千鶴。自分のクラスまだ確認してなかったのか?」
「いや、ちょっと入学式の間に事件がありまして……」
「……寝たのか」
「……ソノトオリデス」
また馬鹿にされるのかなと千鶴の笑顔が思わずひきつった。
それを見て翔が優しく瞳を細めると、ふんわりとした手つきで千鶴の頭を撫でてくる。
「まあ、あの話は千鶴には硬すぎたよな。えーっと1年8組は……こっちか」
進行表の裏に書かれている校舎見取り図を時折確認しながら、翔が校舎内を歩いていく。
千鶴はその背中を見失わないように必死に後を着いていった。
(さっきの彼は何組だろう……)
翔の後を追いかけながらも、頭が無意識にそんなことを考える。
なんとなく同じクラスになれたらいいなと思った。
高校生離れした超然とした雰囲気を持ったあの男子生徒と、千鶴はもっと話してみたかった。
自分とはまったく正反対の彼。彼の目に映る世界に、千鶴は単純に興味があった。
「お、あったあった。千鶴、ここだぞ」
そんなことを考えていると、翔の一際明るい声が千鶴の鼓膜を叩いた。
千鶴が顔をあげたと同時に、翔の背中が教室内にするりと消えていく。
「あ、待ってよ翔くん!」
知らない校舎で知らないクラス。ひとりにされるのはすごく不安だった。
千鶴は慌てて翔に続いて教室に入る。
と、何かにつまづいた。
「わ!?」
自慢じゃないが、千鶴はあまり運動神経がよろしくない。
咄嗟に受身をとることもできず、千鶴は教室の入り口で派手にすっころんだ。
「いったぁ……」
転んだ拍子に打ち付けたのか、膝がじんじんとして痛い。おそるおそる目をやると、そこから血が滲み出していた。
「ぶっ! ち、千鶴なにやってんだよ! はっずかしいやつだな、お前!」
目の前で、翔があははははとお腹を抱えながら笑い転げている。
千鶴はそんな翔を、目尻に涙を浮かべながら恨めしげに見つめた。
ひどい。あんまりだ。こっちだってこれから一年間をともにするクラスメートの前で派手に転んでしまって、顔から火が出るくらい恥ずかしいのに、もう少し優しくしてくれてもいいじゃないか。おまけに足だって負傷しているのに。
もうほとんどそろっていたクラスメートたちは、しゃがんだままの千鶴を心配そうに眺めていた。
騒ぎ立てたり笑ったりしないのはさすがに進学校の生徒といったところか。
そんなことを考えながら、ひとりだけひいひい笑い転げてうるさい翔に唇を尖らせていると、翔がやっと気が済んだのか、わるいわるいと千鶴に謝った。
目尻の涙を拭いながら、翔が手を差し伸べてくる。
と、そのとき。
「大丈夫か?」
低く落ち着いた声が割り込んできた。
秀一だった。
「あ! さっきの……」
千鶴の胸が小さく弾む。
(同じクラスだったんだ!)
秀一は静かに千鶴の前に立つと、すぐに膝の傷に気づいて軽く眉根を寄せた。
「秀一だ。月瀬秀一。……ひざ。怪我したのか?」
「あ、うん。ちょっと転んだ拍子にきっちゃったみたい。でも大丈夫だよ。たいしたことな……ってきゃあ!?」
言葉の途中で、突然秀一がしゃがんだままだった千鶴の脇の下に手を差し入れてきた。
そのまま小さい子を抱き上げるように、ひょいと抱えあげられ、千鶴の心臓がばくんと大きく跳ねる。
(い、いいいいいきなりなに!? なんで!?)
教室の注目が、さっき以上に自分に集まっているのがわかる。
千鶴の心臓が忙しなく拍動し、体中の血が沸騰したように熱くなった。
「わ、ちょ、あの、離してっ」
父親以外の男の人に抱き上げられるなんて初めてだ。しかもこんな公衆の面前で。
恥ずかしさと混乱で千鶴は思わずじたばたと抵抗した。
と、それまで無表情だった秀一が、ぴくりと片眉をあげた。
「あまり暴れるな。今降ろしてやるから」
秀一は言うと、手近にあった空席の机の上に千鶴のからだを降ろした。
「わっ」
動揺する千鶴には一切取り合わず、秀一はマイペースに千鶴の怪我した足を掴むと、膝を曲げたり伸ばしたりしながら「痛いか?」と聞いてきた。
秀一の指先が触れた場所から千鶴の心臓に、沸騰した血が逆流していく。その部分が熱を持ってじんじんして、もはやそれが怪我のせいなのか秀一のせいなのかさっぱりわからなかった。
とりあえず痛みがないことだけは伝えなくてはと、千鶴は真っ赤になった顔を必死で横に振る。
「だ、大丈夫!」
「そうか。ただの擦り傷だな。心配ない。あれだけ派手に転んでこの程度の擦り傷なら、逆に軽症だろう。よかったな」
「あ、ありがとう……」
お礼を言うと、それまで無表情に淡々と言っていた秀一が、微かに表情を緩めて千鶴を見た。
もう一度、千鶴の心臓が大きく飛び跳ねた。
だけどその笑顔も一瞬で、秀一はすぐにもとの表情に戻ると、千鶴の足に目を落とした。
「絆創膏あるか?」
「え、絆創膏? ごめんなさい、持ってない……」
首を振る千鶴に、また新たな声が割り込む。
「あー、あたし持ってるよ。ほら」
振り向くと、入学式のときに話した金髪美人が絆創膏をひらひらと振っていた。
たしか、弥生という名前だったろうか。
秀一は弥生から絆創膏を受け取ると、ぺりぺりと袋を剥がしながら弥生に言う。
「お前が絆創膏持ってるなんて意外だな。雨でも降るのか?」
「アンタね。今のアンタの行動の方があたしが絆創膏持ってるよりよっぽど意外でしょ。明日が地球最後の日かと思っちゃうわよ」
「だよなー、言えてる言えてる!」
弥生の言葉に、いかにも元気印といった感じの男子生徒が同意した。
彼は……たしか、征樹と呼ばれていただろうか。
秀一は二人の発言に冷たい一瞥を向けると、すぐにまた千鶴の足に視線を戻した。
ティッシュで軽く千鶴の足の血を拭って、そこに絆創膏をぺたりと貼り付ける。
「ありがとう、月瀬くん」
「秀一でいい」
「あ、えと……秀一くん」
「秀一」
「…………」
重ねて言ってくる秀一に、千鶴の顔が赤くなった。
秀一はけっこう強引なところがあるらしい。おまけに、不思議と逆らえないような雰囲気があった。
秀一は言ってみろといわんばかりに、千鶴を静かに見つめてくる。
その瞳に、千鶴の体を焦りのような恥ずかしさのようなものが駆け抜けた。
(ど、どうしよう……!)
とまどっていると、
「おい! お前千鶴のなんなんだよ!」
それまで呆気に取られていた翔が、ハッと我に返って秀一に掴みかかった。
振り返った秀一の顔を見て、今度は凍りつく。
「――!? お、まえ……! 月瀬……秀一!? あの、『死神』の……!?」
(死神……?)
千鶴はきょとんと首をかしげた。
ざわっと教室が、さっきまでと違う温度でざわめく。
翔が怯えたようによろりと数歩後ろへ後ずさった。
秀一は翔に向き直ると、少しだけ意外そうに翔を眺める。
「へえ。知ってるのか? お前みたいな善人そうな男が」
秀一のその言葉に、弥生と征樹がひゅうっと囃したてるような口笛を吹いた。
ふたりにとっても意外だったんだろう。少しだけ驚きの混じった、だけどおもしろそうな笑顔を浮かべて翔を見ている。
「ここいらの男なら、『死神』の月瀬秀一のこと知らないやついないだろ。あんたはそれくらい有名だ」
「それは光栄だな。だがいまそれは関係ない。俺は学校では暴れるつもりはない。それくらいの分別は持ち合わせているつもりだ。わかったらもういいか?」
なんでもないことのようにさらりと言うと、この話はこれで終わりとでもいうように、秀一は再び千鶴に向き直ろうとした。
が、翔が秀一の肩を掴んで、それを遮る。
秀一はその切れ長の眼差しを細めて、不機嫌そうに翔を見た。
「なんだ?」
その声音の冷たさに、教室のざわめきが水を打ったようにしんと静まり返る。
千鶴も、間近で変わった秀一の態度に驚いていた。
さっきまで秀一を包んでいた柔らかい雰囲気が、今では鋭く尖ったものに変わっている。
みんな息をひそめて、成り行きを見守っていた。
「千鶴から離れろ。お前みたいな不良が近づいていいような子じゃない」
「ふうん? 千鶴とお前はどういう関係なんだ?」
「友達だ。……今はな」
ふいに、翔が熱を帯びた瞳で千鶴を見つめてきた。
千鶴は驚いて翔の瞳を見つめ返す。
(翔くん……?)
心臓が小さくざわめいた。
翔にあんな瞳で見つめられたのは初めてだ。
「なるほど。今は……か。なら、お前こそ引っ込んでいてくれないか?」
「は!? なんでだよ!」
「俺はどうやら千鶴に惚れたらしい。だからお前が千鶴に近づくのがおもしろくない。それに、好きな女が怪我をしても助けもせず笑っていられるようなやつには、なおのこと千鶴に触れて欲しくない。それが理由だ」
「は!?」
「――え!?」
千鶴のからだが硬直した。
あまりにあっさり言われすぎて、今一瞬なにが起こったのかわからなかった。
(い、いま……秀一くん……なんて?)
混乱する頭を整理しようとする。
と、それまで千鶴に背を向けていた秀一が、くるりと振り向いた。
「!」
間近で秀一の瞳に見つめられて、千鶴の全身が心臓になったように激しく鼓動した。
体中が熱くなるのを、止めることができない。
「あ、あの……!」
「聞こえたか、千鶴?」
そっと壊れ物に触るかのように、秀一の指が千鶴の頬に触れた。
更に高鳴る心臓。
それまでの無表情を崩して、秀一が柔らかく微笑んでくる。
「もう一度言うが、俺はどうやらお前に一目惚れしたらしい」
「え!? ええ!? そんな……まさか……!」
はっきり言って信じられなかった。
だって自分が秀一と初めて会ったのは、つい今しがたの入学式のときだ。
その時にしたことといえば、入学式のほとんどの時間を秀一に肩を借りて寝たことと、起きてよだれの心配をしたこと。他には……なにもない。
「…………」
思い返してみても、好きになってもらえる要素など微塵も見当たらなかった。
「…………。秀一くんって、元気によだれをたらす女の子が好みなの?」
それなら自分を好きになるのも頷ける。
思って質問すると、秀一がその整った顔を思いっきりしかめた。
「俺にはそんな奇特な趣味はないが」
「そ、そっか。そうだよね……。あれ? でもわたしは元気よくよだれたらす女子だから、そうしたらわたしのこと好きじゃないんじゃない?」
「千鶴は別だ。もしよだれがたれてたら拭いてやる。ひとつ聞いておきたいんだが、お前は寝てるときだけじゃなくて、起きているときもよだれをたらすのか?」
「まさか! そこまで口元緩くないよ! もう、秀一くんは失礼だなあ!」
興味深げに訊いて来る秀一に、千鶴は小さく頬を膨らませる。
そして再び眉間に皺を寄せてうーんと唸った。
「でもそうなってくるといよいよわからないなー。わたし、秀一くんに好かれる理由が全然見当たらないもん」
「別になにも今わかろうとしなくていい。これから時間を掛けて、ゆっくりとわからせてやるさ」
「!」
最後の言葉を耳元で囁いて秀一は自信たっぷりに微笑むと、千鶴の頭をそっと撫でた。
翔を振り返って、背筋も凍るような薄い笑みを向ける。
「と、いうわけだ。千鶴の面倒は今日から俺が見る。今までご苦労だったな」
「――なっ! お前なんかに任せられるか! 千鶴、お前もなんとか言えよ!」
翔の言葉に、ハッと千鶴は我に返った。
「あ、えと……」
何か言おうとした千鶴の肩を、ぽんと弥生が元気づけるように叩いてくる。
「残念だったね、千鶴。ありゃ秀一本気だわ。逃げらんないよ」
「え、え?」
「だなー。でも秀一が誰かを好きになるなんて驚いたな。あいつ、ひとに興味全然ないのに。それが一目惚れだもんなー」
まあ、こんだけかわいいこならわからなくもないけど。征樹はひとり言のようにそう言うと、「あ、でも」と千鶴に微笑んだ。
「一目惚れとはいっても、顔だけで惚れたわけじゃないと思うよ。なんかキミにピンと来るものがあったんじゃないかな、きっと。あ、それから安心して。秀一、確かに暴走族の総長とかやってっけどさ、一般人には絶対手を出さないから。弱いものいじめだってしないし。まあ、うちはほんとうは走りがメインだからな。そんなにこわがんなくていいぜ。あ、オレ水戸征樹。『死神』ナンバーツー。かっこいいだろ!? よろしくな」
「あー、そういや自己紹介がまだだったね。あたしは東島弥生。弥生でいいよ。『死神』でナンバースリーやってる。よろしくね」
「安堂千鶴です。こちらこそよろしくね」
二人の挨拶に千鶴は笑顔で答えた。
暴走族って聞いてびっくりしたけれど、秀一も弥生も征樹も、とても悪い人には見えなかった。
多分、秀一の作ったという暴走族自体、そんなに悪いグループではないんだろう。
これまで秀一と話した少ない会話の中で、千鶴はそんなことを思った。
にこにこ笑っている千鶴を弥生と征樹はどこかほっとしたように見つめると、仕切りなおすように、弥生がごほんと咳払いした。
「まあ」
「とにかく」
「「ガンバレ!」」
大いに同情を含む声音で、千鶴は弥生と征樹に応援された。
「う、うん。ありがとう……」
千鶴は曖昧に頷きながら、翔の文句を涼しい顔で流している秀一の背中を見つめた。
自分の気持ちが恋かどうかわからない。
だけど、秀一が気になることは確かだった。
(これから……楽しくなりそう……かな?)
ほんのちょっぴりの不安と、大きな期待を胸に抱いて、千鶴はにっこり微笑んだ。