【親編】入学式
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秀一は瞳を細めて、体育館ステージの上で熱弁を振るう校長を見つめた。
秀一の隣りでは征樹が退屈そうにあくびをもらしている。
あともう少しもすればきっと夢の中だろう。
(平和なやつめ)
思って小さく嘆息する。
今日は高校の入学式だった。
親を連れてきている生徒もちらほら見受けられたが、秀一はひとりで来ていた。
秀一は両親とあまり折り合いがよくない。
というより、秀一は親と絶縁状態にあった。
秀一の父親はなかなか有名な政治家だ。
ゆくゆくは秀一に自分の地盤を継がせようとしていたのだろう、物心着く前の幼い頃から、秀一はいわゆる帝王学を学ばされて生きてきた。
学問や芸術などの英才教育はもちろん、人の上に立つものの心構え、人を動かす基本、人心掌握術。そして人を欺き、また欺かれないための処世術……。
政治家という仕事柄か、父親は特に欺き欺かれるということを重点的に指導してきた。
そのためなのか、父親は秀一や母親のことはもちろん、自分以外の誰も信用していない。それを明言してはばからない人物だった。
秀一は頭もよく、非常に賢かった。
そのため、小学校に上がる頃にはすでに人の心の動きが手に取るように見えてしまっていた。
同級生の頭の中はもちろん、熱心に綺麗事を並べ立てる教師の頭の中も、果てには自分の父親の頭の中さえも。
欺瞞や保身に満ち溢れた醜悪な世界。
早くに熟成してしまった秀一が、世界に興味を失くすのは充分な理由だった。
母親は母親で、父の立場を利用して男遊びに興じて家には滅多におらず、秀一を顧みることなどほとんどなかった。
幼い頃から自分の身の回りの世話はいつも使用人がしてくれたし、また小学校低学年の頃には既に、そのものたちの手を借りずともひとりでなんでもすることができた。
母親のことも父親のことも恋しいと思ったことはない。
むしろ、自分たちにはそういう冷めた関係がお似合いだとさえ思っていた。
愛情など一過性のもの。それは親子にあっても例外ではない。
他人はもちろんのこと、家族であってさえも、信頼すべきものではない。周りは全て敵と思え。
秀一の学んできた帝王学は、それを秀一に何度となく教え続けてきた。
あのまま何事もなければ、きっと自分は淡々と人生を過ごし、一流大学を出て、ただ言われるがままに父親の地盤を受け継いで政治家になっていただろうと思う。
別にそれでも構わなかった。
だけど中学2年生のときに、ひょんなことがきっかけで隣りですっかり爆睡しはじめた征樹と一緒に、秀一は暴走族を旗上げした。
もちろんそんなことが政治家一家の月瀬家で許されるわけもなく、秀一はそれを機に家を出た。当然顔に泥を塗られる形になった父親からの資金援助もなかったけれど、小学生のときから勉強にとやっていた株で、かなりまとまったお金を持っていたので生活に困ることはなかった。
家や、受け継ぐはずだった地盤には最初から執着どころか未練もない。
今となっては、形式的に親・保護者というものが必要になったときに、名前を借りる程度の関係だ。
いずれこれも、秀一が成人し、法律的に親の庇護下を抜ければなくなる関係だろう。
中途半端につながりのある今よりも、そのほうがよっぽどせいせいする。
そんなことを考えていると、ふいに肩に重みを感じた。
顔を向けると、ふわりと甘い花のような香りが鼻腔をくすぐった。
目の前にやわらかそうな栗色の髪の毛が広がっている。
隣りに座っていた女生徒が居眠りしてしまったのか、秀一の肩に頭を預けていた。
秀一の眉間に皺が寄る。
誰だか知らないけれど、自分の肩を借りるなどいい度胸だ。
どけようとしてその女生徒の顔を見て、秀一はその手を止めた。
絹のようになめらかな白い肌に、閉じていても大きいとわかる目。かわいらしく顔の中心にちょこんとおさめられた鼻に、小さくて、なのに妙に肉感的な形の良い唇。
まるで本に出てくる眠り姫のように綺麗な容姿をした女生徒だった。
そしてなによりも、その安心しきったような無邪気な寝顔に、秀一は目を奪われた。
「…………」
後ろの席に座っていた弥生が秀一の状態に気づいて、ちょいと背中をつついてきた。
「めっずらしいね、秀一。あんたが知らない人間に肩をかしてやるなんてさ。知ってる人間にだってそんなことされたら容赦ないくせに」
弥生はいひひと冷やかすような笑みを浮かべながら、こそっとまわりに聞こえないようにそんなことを囁いてくる。
「…………」
秀一はそんな弥生に呆れたような視線を送ると、すぐにまた隣りの女生徒に視線を移した。
小さな唇から、すうすうとかわいらしい寝息が漏れる。
なぜだか心があったかくなって、秀一は自分でも気づかないうちに微かに表情を緩めた。
後ろからでも秀一の表情がやわらかくなったのが見えたのか、弥生が驚いたように息を呑む。
秀一はそれにも気づかずに、その女生徒の顔にかかっていた髪を耳にかけてやった。
女生徒はう……んと一度小さく呻くと、また、穏やかな寝息をくりかえす。
今度こそ秀一は小さく笑むと、そっと掠めるように一度、その女生徒の頭を撫でた。
そして、肩にあるそのぬくもりをそのままに、顔を前に戻す。
校長の話は相変わらず底が浅くて聞くに堪えないような綺麗事の塊だったけれど、少しでも長くその話が続けばいいと、秀一は無表情な顔の下で考えていた。
入学式がすべて滞りなく終わり、最初に配られたクラス分けの紙に従って教室へ行くよう指示されたとき、立ち上がる生徒たちががたがたと椅子を鳴らす音で、それまで秀一の肩でぐっすり眠っていた女生徒が目を覚ました。
女生徒は秀一の肩に頭をもたせかけたまま、ぼんやりとした表情でぱちぱちと数度まばたきをするとハッと自分の状況を悟って、弾かれたように頭を起こした。
まばたきをするしぐさが小動物のようでひどく愛らしく、秀一の胸がどきりと弾む。
女生徒は今まで自分が頭を預けていた肩と、その持ち主である秀一とを何度か交互に見て、それから慌てたように立ち上がった。
「わああ、ご、ごめんなさい! わたし、いつのまにか寝ちゃってたみたいで……!」
鈴の転がるような甘く可愛らしい声。
眠っているときも充分魅力的だったけれど、起きて活動している女生徒はさらに魅力的だった。
それまで瞼で隠されていた、澄んだ栗色の瞳をじっと秀一に向けておろおろと目に見えてうろたえている。
「いや、別に構わない」
秀一は胸のざわめきを悟られぬよう、無表情を崩さずに、さらりと言った。
その言葉に、女生徒は少し安心したのか、ホッと息を吐いて表情を緩めた。
そしてすぐに何かに気づいたのか、今度は顔を青ざめさせて、それまで自分が頭を乗せていた秀一の肩に触れてくる。
「あ、あの、わたしほんとうにぐっすり眠ってしまっていたみたいで、よだれとか……垂らしてなかったですか? 肩冷たいとかないですか? 大丈夫ですか?」
秀一の肩を撫でて濡れていないか確かめながら、焦ったように言い募る女生徒に、秀一は小さく首を振ってみせた。
「大丈夫だ。君は普通に眠っていただけで、俺に被害はなにもない」
「はあ、よかった」
今度はふわりと花が咲いたように微笑む。
「あはは! よだれって、普通そこ心配する?」
そこに弥生が割り込んだ。
女生徒は腹を抱えて笑う弥生に向かって、ひどく重要なことでも告げるように真剣な表情で言う。
「笑い事じゃないんですよ! わたし、口元が緩いみたいで、お昼寝とかするとよくよだれを垂らしちゃうんです。ああ、ほんとうによかった。おろしたての学生服にわたしのよだれの染みが……なんてことになったら、どうやってお詫びをすればいいのかわからないですもんね! いや、もちろんその場合は新しいものを買わさせていただきますけども!」
グッと拳を握りこんで言うその女生徒に、弥生が一瞬呆気に取られた。
すぐにその表情が爆笑にとって変わる。
女生徒は自分がなんで笑われているのかわからない、という表情で首を小さく傾げていた。
「あ、あの……。わたし、なんか変なこと言いました?」
一向に笑いやまない弥生に、助けを求めるように女生徒が秀一を見てくる。
「変なことというよりは……態度が珍しかったんじゃないか?」
「態度?」
「君はこいつを見て、なんとも思わないのか?」
「はあ……。見事な金髪……ですね?」
くりっと小動物よろしく小首を傾げていった女生徒の言葉に、さらに弥生が火をつけたように笑い出す。
秀一もその反応がおかしくて微かに唇の端を持ち上げた。
弥生は、金髪で目つきも悪く、スカートもスケバンよろしく脛まで長さがあり、いかにもヤンキー少女といういでたちをしていた。
その弥生に臆することなく普通に接したあげく、抱いた感想が見事な金髪ときている。
天然なのかなんなのか、かなりの特殊な感性の持ち主だということはまず間違いなさそうだった。
「やー、あんたおもしろい! 気に入ったよ!」
言いながら弥生は女生徒の肩を抱く。
「あんたラッキーだったんだよ。秀一の肩を借りて無傷でいられるだけでも奇跡なのに、そのまま目覚めるまで寝かせてもらえてたんだからね。あたしはもう天変地異の前触れかと思っちゃったよ。現に征樹は入学式の間に一度秀一の肩に頭を凭せ掛けて、ご覧の通り沈められているからね」
言いながら弥生が秀一の反対隣りに座っている――正しくは気絶しているだが、征樹を指差しながら二カッと笑った。
女生徒がそれを見て途端に青ざめる。
「え、そうなんですか? ――あ、じゃあ、不快な感情をずっと我慢させてたんですかわたし……!」
さっきまで柔らかかった表情が、みるみるうちに色をなくしていく。
かと思えば、女生徒は突然がばりと激しく身を折った。
「あ、あの、ほんとうにごめんなさい! わたし、どうやってお詫びすれば……!」
その動転ぶりがあまりにもかわいらしくて、秀一は小さく喉の奥で笑いをかみ殺した。
珍しい秀一の姿に、弥生が目を瞠って驚いている。
秀一はそんな弥生には一切とりあわずに、そっと目の前の女生徒の頭に触れた。
伏せられているそこを、優しく撫でてやる。
「――!」
女生徒が頬を薄く染めて、弾かれたように頭をあげる。
秀一は、そんな女生徒に瞳をやわらげた。
「お詫びに……そうだな。……名前」
「え?」
「名前を教えてくれないか?」
「あ、安堂です。安堂千鶴」
「千鶴……か。これからよろしく」
言うと、秀一は千鶴と名乗った女生徒の頭を引き寄せた。
額に軽く唇を押し当てて、それから何事もなかったように歩き出す。
「――あ、ちょっと秀一!? ちょ、待ちなって! あーもう、征樹! あんたもいつまで伸びてんだよこの大馬鹿者!」
「いってぇえ~っ! 何しやがる弥生! 急に殴ることないだろっ!?」
「あんたがいつまでも起きないからだろ! ほら、秀一が行っちゃったじゃないか!」
「ええ!? あ、ほんとうだ! 秀一、おいちょっと待てよ~!」
にぎやかな二人の声と、体中を真っ赤に染めて呆然と立ち尽くす千鶴の気配を背中に感じながら、秀一は振り返らずに教室へと足を向けた。
安堂千鶴。
その名前は、秀一と征樹と弥生、三人と同じクラスの欄にあった。
(これから楽しくなりそうだな)
思って、秀一は微かに口元を緩めた。
秀一の隣りでは征樹が退屈そうにあくびをもらしている。
あともう少しもすればきっと夢の中だろう。
(平和なやつめ)
思って小さく嘆息する。
今日は高校の入学式だった。
親を連れてきている生徒もちらほら見受けられたが、秀一はひとりで来ていた。
秀一は両親とあまり折り合いがよくない。
というより、秀一は親と絶縁状態にあった。
秀一の父親はなかなか有名な政治家だ。
ゆくゆくは秀一に自分の地盤を継がせようとしていたのだろう、物心着く前の幼い頃から、秀一はいわゆる帝王学を学ばされて生きてきた。
学問や芸術などの英才教育はもちろん、人の上に立つものの心構え、人を動かす基本、人心掌握術。そして人を欺き、また欺かれないための処世術……。
政治家という仕事柄か、父親は特に欺き欺かれるということを重点的に指導してきた。
そのためなのか、父親は秀一や母親のことはもちろん、自分以外の誰も信用していない。それを明言してはばからない人物だった。
秀一は頭もよく、非常に賢かった。
そのため、小学校に上がる頃にはすでに人の心の動きが手に取るように見えてしまっていた。
同級生の頭の中はもちろん、熱心に綺麗事を並べ立てる教師の頭の中も、果てには自分の父親の頭の中さえも。
欺瞞や保身に満ち溢れた醜悪な世界。
早くに熟成してしまった秀一が、世界に興味を失くすのは充分な理由だった。
母親は母親で、父の立場を利用して男遊びに興じて家には滅多におらず、秀一を顧みることなどほとんどなかった。
幼い頃から自分の身の回りの世話はいつも使用人がしてくれたし、また小学校低学年の頃には既に、そのものたちの手を借りずともひとりでなんでもすることができた。
母親のことも父親のことも恋しいと思ったことはない。
むしろ、自分たちにはそういう冷めた関係がお似合いだとさえ思っていた。
愛情など一過性のもの。それは親子にあっても例外ではない。
他人はもちろんのこと、家族であってさえも、信頼すべきものではない。周りは全て敵と思え。
秀一の学んできた帝王学は、それを秀一に何度となく教え続けてきた。
あのまま何事もなければ、きっと自分は淡々と人生を過ごし、一流大学を出て、ただ言われるがままに父親の地盤を受け継いで政治家になっていただろうと思う。
別にそれでも構わなかった。
だけど中学2年生のときに、ひょんなことがきっかけで隣りですっかり爆睡しはじめた征樹と一緒に、秀一は暴走族を旗上げした。
もちろんそんなことが政治家一家の月瀬家で許されるわけもなく、秀一はそれを機に家を出た。当然顔に泥を塗られる形になった父親からの資金援助もなかったけれど、小学生のときから勉強にとやっていた株で、かなりまとまったお金を持っていたので生活に困ることはなかった。
家や、受け継ぐはずだった地盤には最初から執着どころか未練もない。
今となっては、形式的に親・保護者というものが必要になったときに、名前を借りる程度の関係だ。
いずれこれも、秀一が成人し、法律的に親の庇護下を抜ければなくなる関係だろう。
中途半端につながりのある今よりも、そのほうがよっぽどせいせいする。
そんなことを考えていると、ふいに肩に重みを感じた。
顔を向けると、ふわりと甘い花のような香りが鼻腔をくすぐった。
目の前にやわらかそうな栗色の髪の毛が広がっている。
隣りに座っていた女生徒が居眠りしてしまったのか、秀一の肩に頭を預けていた。
秀一の眉間に皺が寄る。
誰だか知らないけれど、自分の肩を借りるなどいい度胸だ。
どけようとしてその女生徒の顔を見て、秀一はその手を止めた。
絹のようになめらかな白い肌に、閉じていても大きいとわかる目。かわいらしく顔の中心にちょこんとおさめられた鼻に、小さくて、なのに妙に肉感的な形の良い唇。
まるで本に出てくる眠り姫のように綺麗な容姿をした女生徒だった。
そしてなによりも、その安心しきったような無邪気な寝顔に、秀一は目を奪われた。
「…………」
後ろの席に座っていた弥生が秀一の状態に気づいて、ちょいと背中をつついてきた。
「めっずらしいね、秀一。あんたが知らない人間に肩をかしてやるなんてさ。知ってる人間にだってそんなことされたら容赦ないくせに」
弥生はいひひと冷やかすような笑みを浮かべながら、こそっとまわりに聞こえないようにそんなことを囁いてくる。
「…………」
秀一はそんな弥生に呆れたような視線を送ると、すぐにまた隣りの女生徒に視線を移した。
小さな唇から、すうすうとかわいらしい寝息が漏れる。
なぜだか心があったかくなって、秀一は自分でも気づかないうちに微かに表情を緩めた。
後ろからでも秀一の表情がやわらかくなったのが見えたのか、弥生が驚いたように息を呑む。
秀一はそれにも気づかずに、その女生徒の顔にかかっていた髪を耳にかけてやった。
女生徒はう……んと一度小さく呻くと、また、穏やかな寝息をくりかえす。
今度こそ秀一は小さく笑むと、そっと掠めるように一度、その女生徒の頭を撫でた。
そして、肩にあるそのぬくもりをそのままに、顔を前に戻す。
校長の話は相変わらず底が浅くて聞くに堪えないような綺麗事の塊だったけれど、少しでも長くその話が続けばいいと、秀一は無表情な顔の下で考えていた。
入学式がすべて滞りなく終わり、最初に配られたクラス分けの紙に従って教室へ行くよう指示されたとき、立ち上がる生徒たちががたがたと椅子を鳴らす音で、それまで秀一の肩でぐっすり眠っていた女生徒が目を覚ました。
女生徒は秀一の肩に頭をもたせかけたまま、ぼんやりとした表情でぱちぱちと数度まばたきをするとハッと自分の状況を悟って、弾かれたように頭を起こした。
まばたきをするしぐさが小動物のようでひどく愛らしく、秀一の胸がどきりと弾む。
女生徒は今まで自分が頭を預けていた肩と、その持ち主である秀一とを何度か交互に見て、それから慌てたように立ち上がった。
「わああ、ご、ごめんなさい! わたし、いつのまにか寝ちゃってたみたいで……!」
鈴の転がるような甘く可愛らしい声。
眠っているときも充分魅力的だったけれど、起きて活動している女生徒はさらに魅力的だった。
それまで瞼で隠されていた、澄んだ栗色の瞳をじっと秀一に向けておろおろと目に見えてうろたえている。
「いや、別に構わない」
秀一は胸のざわめきを悟られぬよう、無表情を崩さずに、さらりと言った。
その言葉に、女生徒は少し安心したのか、ホッと息を吐いて表情を緩めた。
そしてすぐに何かに気づいたのか、今度は顔を青ざめさせて、それまで自分が頭を乗せていた秀一の肩に触れてくる。
「あ、あの、わたしほんとうにぐっすり眠ってしまっていたみたいで、よだれとか……垂らしてなかったですか? 肩冷たいとかないですか? 大丈夫ですか?」
秀一の肩を撫でて濡れていないか確かめながら、焦ったように言い募る女生徒に、秀一は小さく首を振ってみせた。
「大丈夫だ。君は普通に眠っていただけで、俺に被害はなにもない」
「はあ、よかった」
今度はふわりと花が咲いたように微笑む。
「あはは! よだれって、普通そこ心配する?」
そこに弥生が割り込んだ。
女生徒は腹を抱えて笑う弥生に向かって、ひどく重要なことでも告げるように真剣な表情で言う。
「笑い事じゃないんですよ! わたし、口元が緩いみたいで、お昼寝とかするとよくよだれを垂らしちゃうんです。ああ、ほんとうによかった。おろしたての学生服にわたしのよだれの染みが……なんてことになったら、どうやってお詫びをすればいいのかわからないですもんね! いや、もちろんその場合は新しいものを買わさせていただきますけども!」
グッと拳を握りこんで言うその女生徒に、弥生が一瞬呆気に取られた。
すぐにその表情が爆笑にとって変わる。
女生徒は自分がなんで笑われているのかわからない、という表情で首を小さく傾げていた。
「あ、あの……。わたし、なんか変なこと言いました?」
一向に笑いやまない弥生に、助けを求めるように女生徒が秀一を見てくる。
「変なことというよりは……態度が珍しかったんじゃないか?」
「態度?」
「君はこいつを見て、なんとも思わないのか?」
「はあ……。見事な金髪……ですね?」
くりっと小動物よろしく小首を傾げていった女生徒の言葉に、さらに弥生が火をつけたように笑い出す。
秀一もその反応がおかしくて微かに唇の端を持ち上げた。
弥生は、金髪で目つきも悪く、スカートもスケバンよろしく脛まで長さがあり、いかにもヤンキー少女といういでたちをしていた。
その弥生に臆することなく普通に接したあげく、抱いた感想が見事な金髪ときている。
天然なのかなんなのか、かなりの特殊な感性の持ち主だということはまず間違いなさそうだった。
「やー、あんたおもしろい! 気に入ったよ!」
言いながら弥生は女生徒の肩を抱く。
「あんたラッキーだったんだよ。秀一の肩を借りて無傷でいられるだけでも奇跡なのに、そのまま目覚めるまで寝かせてもらえてたんだからね。あたしはもう天変地異の前触れかと思っちゃったよ。現に征樹は入学式の間に一度秀一の肩に頭を凭せ掛けて、ご覧の通り沈められているからね」
言いながら弥生が秀一の反対隣りに座っている――正しくは気絶しているだが、征樹を指差しながら二カッと笑った。
女生徒がそれを見て途端に青ざめる。
「え、そうなんですか? ――あ、じゃあ、不快な感情をずっと我慢させてたんですかわたし……!」
さっきまで柔らかかった表情が、みるみるうちに色をなくしていく。
かと思えば、女生徒は突然がばりと激しく身を折った。
「あ、あの、ほんとうにごめんなさい! わたし、どうやってお詫びすれば……!」
その動転ぶりがあまりにもかわいらしくて、秀一は小さく喉の奥で笑いをかみ殺した。
珍しい秀一の姿に、弥生が目を瞠って驚いている。
秀一はそんな弥生には一切とりあわずに、そっと目の前の女生徒の頭に触れた。
伏せられているそこを、優しく撫でてやる。
「――!」
女生徒が頬を薄く染めて、弾かれたように頭をあげる。
秀一は、そんな女生徒に瞳をやわらげた。
「お詫びに……そうだな。……名前」
「え?」
「名前を教えてくれないか?」
「あ、安堂です。安堂千鶴」
「千鶴……か。これからよろしく」
言うと、秀一は千鶴と名乗った女生徒の頭を引き寄せた。
額に軽く唇を押し当てて、それから何事もなかったように歩き出す。
「――あ、ちょっと秀一!? ちょ、待ちなって! あーもう、征樹! あんたもいつまで伸びてんだよこの大馬鹿者!」
「いってぇえ~っ! 何しやがる弥生! 急に殴ることないだろっ!?」
「あんたがいつまでも起きないからだろ! ほら、秀一が行っちゃったじゃないか!」
「ええ!? あ、ほんとうだ! 秀一、おいちょっと待てよ~!」
にぎやかな二人の声と、体中を真っ赤に染めて呆然と立ち尽くす千鶴の気配を背中に感じながら、秀一は振り返らずに教室へと足を向けた。
安堂千鶴。
その名前は、秀一と征樹と弥生、三人と同じクラスの欄にあった。
(これから楽しくなりそうだな)
思って、秀一は微かに口元を緩めた。