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「もう大丈夫だ。目を開けて」
姿見に映っていたのはどこかの国の城に君臨するお姫様のような私だった。
「きつくないか? ︎︎ぴったりだといいんだが……」
目に入ったのは、淡い光をまとったような桃色の衣装。なめらかに流れるような白いレースと透ける布が重なっている。上身頃はチャイナドレスを思わせる立ち襟。細い飾り結びが胸元を縦へと導き、牡丹がひとつひとつが咲いているように装飾されている。袖は薄絹のように透け、腕の動きに合わせてゆるやかに揺れる。広がるたびに波紋を運び、レースの縁が輪郭をなぞる。スカートは段を重ねてあり、落ちるように揺れていた。
「うん。大丈夫だよ」
ふと見ると、鏡越しに彼と視線を交わした。彼は驚いたように何度かぱちぱちと瞬きを繰り返したあと、ぽかぽかした笑みをこぼす。一等星に研がれた宝石を見守るように。
「ねぇ、エックス」
疑問が頭に纏わりついて離れない。にこにこと微笑んでいる彼をじっと見つめる。不思議そうに「どうしたんだ?」と首をわずかに傾げた。ひな祭りの時だけ彼は張り切るんだろう。なんとなく気になって質問する。
「どうしてエックスは私のためにいろんなことしてくれるの?」
「どうしてだろうな。ただ、こういう日もあって良いと思うが……もしかして嫌だったか?」
視線を落とし、誤魔化すように腕を押さえていた。顔を背けてどこかを見つめている。彼の視線の先。箪笥の上に飾られた浮世人形が目に入った。身に纏うのは深い朱色の華やかな着物。時の流れから切り離されたような顔立ち。伏し目がちの瞳は何かを見つめているようで、何も見ていない気がした。
「ううん、嫌じゃない。むしろ嬉しいの」
「そうか。夢主が喜ぶならオレはそれで良い……」
柔らかくて低い声。一仕事終えたみたいにふうっと肩で息をつき、「良かった…」と呟いて胸を撫で下ろす。冷たい海から引き上げられ、毛布にくるまった温かいベッドで眠れるように。
「少しだけじっとしていて」
大きな手がこめかみにそっと触れる。傷だらけの指で静かに髪を掬い、私の耳にかけた。彼は“ 花の何か ”を頭につけているようだった。鏡でよく見ると、薄紅色が特徴的で桜の花弁によく似ている。
「これって桜?」
「桜ではないんだ。これは桃の花って言うんだ」
鏡に太陽が反射して無数の光の粒子が飛び交う。彼の輪郭がぼやけ、霞んでいて見えない。ささやかな願いを祈るような目でこちらを見つめているような気がした。硝子細工で細かく造られた少女を壊れ物として扱うように。
「任務の合間に見つけてきたんだ。その、夢主に似合うと思って………」
人工皮膚で造られた頬がぼうっと熱を帯びた。冷やすように指の腹でなぞり、小さくはにかむ。口元をきゅっときつく結び、顔を背ける。
「そうなんだね」
今年もあまりの凄さに目を見開く。毎年のことでありながらも、やっぱり彼の用意の周到さには圧倒されてしまう。『夢主は無頓着すぎるんだ。もう少し女の子らしくしないと』と言いながらこうやって衣装を着させる。
︎︎この日だけ彼は任務漬けの中、わざわざ時間を作ってくれている。嬉しさのあまり心が舞い踊ってしまう。会えない日が多いからこればっかりは仕方なかった。スカートの裾を掴み、その場を回ってふわりと舞う。
「夢主。凄く似合っているよ」
鏡に映っていた彼の表情は穏やかだった。窓から猫がごろんと日向ぼっこしそうなぽやぽやとした日差しが差し込む。
「誰よりも………」
視線が絡み合う。照れくさそうに目をこっそりと逸らし、もじもじと軽く手を組んでいた。
「……本当に?」
呼吸が僅かに乱れ、胸が小さく波打つ。心の中の拭いきれぬ不安がぐるぐると嵐のようにどっと押し寄せる。私がこんなことを言ってしまったのがよくわからなかった。本当かどうか確かめたくて────
「ああ。本当だ」
間髪入れずに彼は答える。気が付けば、頭を優しく撫でられていた。幼い子どもをあやすように。不思議と温かくて、ごつごつした感触が肌に直接伝わってくる。心音が穏やかになり、呼吸を整える。まだ彼の手は離れていなかった。不意に体温は徐々に上昇し、体が言うことを聞かなくなってしまう。頬がぐんぐんと急激に熱っぽくなる。冷やそうと手を頬に置いたが、ぬるま湯に浸かっているみたいだった。
「大丈夫そうだね」
次の瞬間、彼は手をゆっくりと離した。あっという間だった………彼の温もりは消え失せないまま残っている。
「どうやら心配ないみたいだね」
小さく息をふっと吐き、胸を撫で下ろす。目尻を下げてふにふにしそうな笑みを浮かべた。気持ちの肩を預けているような安心感に浸る。
「桜、綺麗だね」
窓の向こうでは桃の香りがする桜が満開に咲き誇る。細い枝が埋もれ、暖かい桜色のような花の雲が覆っていた。
「エックス?」
彼は卓子に置いてあったひなあられをじっと見つめる。色とりどりにある中から桃色のひなあられを取り出す。
「夢主。あーん」
彼の手には、小さなひなあられをつまんでいた。また頬が熱くなって気恥ずかしい想いに駆られた。彼は気にしないように口元へ運ぶ。
︎︎ぱくっと受け入れて噛み砕く。ころころするような金平糖が舌にとろっと溶け、まろやかな甘さで満たされる。
「美味しいか?」
小さく首を縦に振る。
「なら良かった……」
彼はそっと目を伏せた。口元を緩めて、視線を逸らす。精巧な機械の耳の縁がほんのり熱を帯びている。脚部の関節の隙間から排熱のような蒸気がふわふわしていた。
「君はあの時のことを覚えているか」
︎︎突然、彼は苦悩に満ちた目を伏せてぽつりと苦しそうに呟いた。
「時々、君に迷惑をかけていないか不安になるんだ」
テレビから不吉な禍を呼び覚ますノイズが稲妻のようにじりじりと走った。
「オレは一体何のために……」
部屋の隅々まで灰色の陰が覆う。密かに積み重ねてきた想いが膨張寸前のような瞳がぐらぐらと揺れている。腹部を締め付けるようにがしっと掴む。
「エックス……?」
険しく顔を顰め、「違う。そんなことは....」とぶつぶつと唱えるような声。泡が針でぱっと消えるようにぶるぶると震えている。首を掌で押さえるように当てた。
「どうしたの? どこか具合でも────」
「すまない………今は少し頭を冷やしたいんだ」
言葉を被せるように答えた。一歩ずつ後ずさり、くるりと背を向ける。指先をひとつ動かさず、遠くの街に視線を送った。冷たい硝子に薄く張り付いた彼の顔がどんよりと曇っている。
「あの時のことって────」
︎︎私は腕を伸ばすことも出来ず、ただ見つめることしかできなかった。
「いずれオレは君を置いていくことになるかもしれない」
うっすらと焦げたオイルのような匂いが漂う。
「誰も届くことさえできない遥か彼方へ………」
花瓶に飾られている透き通るような白い藤の花。戦闘機のような足跡がついた花びらが床の上で散らばる。切断器の高熱によって融かされた痕が僅かに残っていた。
「時間は必ずしも待ってくれないからな。たとえ、『時が止まればいいのに』と願ったとしても」
窓に雨が強く打ち付けられている。零れていく雨粒は酷く濁っていく。虚空の隅々からあるだけの風を集めて叩きつけるような嵐が襲い、がたがたと激しく揺れる。桜の花びらに油を塗ったような雫が流れ、ぽろぽろと散っていった。
「オレは夢主のことを────」
彼はどこかに迷う寸前の上の空の目で兎のぬいぐるみをじっと見つめていた。
◇
「座って。何もなくてごめんなさい」
E缶をそっと置き、彼女は向かいの椅子へと腰を下ろした。視覚センサーで物の位置を把握するために辺りを見渡す。本棚がずらりと並び、窓際には大量のぬいぐるみがぎゅっと敷き詰められている。薄いレースのカーテンに陽光が通り抜け、床に淡い木漏れ日の模様を描く。
︎︎ソファの隅に兎のぬいぐるみがぽつんと覗いていた。
「こちらの方こそすまない。急に押しかけるようなことをしてしまって....」
「気にしなくていいの。私が好きにしたことだから」
疲れを解きほぐすような優しい声が回路に染み込む。繊細な硝子細工のように脆い微笑。目を伏せ、透明なコップの縁をなぞるようにゆっくりと瞳が動く。長い睫毛が餅のように柔らかそうな頬に影を落とす。
「それで相談って?」
「………あ、ああ。実は────」
意識が再構成されてはっと我に返った。心臓もないのにこんなにも胸が高鳴っているのだろうか。彼女には聞こえていないことを願いたい。
︎︎息をふっと吐いて思考を素早く切り替える。『なぜ同じレプリロイドでも戦わないといけないんだ』と大まかに要約し、オレが思っていることをざっと話したつもりだ。語りすぎたせいか演説のような熱のこもった言い方になってしまった。もし困らせていたら────
「大変だったよね」
驚きとも名づけようのない不思議な感情が込み上げる。はっきとした真っ直ぐな彼女の声。子どものようにこくりと頷く。鼻であしらうこともせず、「そんなこと言っても決まりは決まりだ」と手の甲で気怠そうにも振らない。
「君は────」
彼女の目に小さな雨粒が溜まり、伏し目がちに口角が下がっていた。
「夢主......! 悲しませるようなことをしてしまってすまない」
不安で落ち着かない気分を搔き立てられる。彼女を悲しませるようなことをしたのはオレの責任だ。切り裂くような波紋に胸が痛む。取り返しのつかないことをしてしまったような後ろめたさが募っていく。
「本当にすまない………」
彼女はつっかえ棒が外れたようにふふと微笑を浮かべた。
「さっきから謝ってばっかりだね。なんだか可笑しくて」
目尻の涙を華奢な指先で拭う。気を静めるようにコップを手に取り、艶っぽい唇を寄せる。喉が小さく上下するこくんと音が室内に響く。ふぅーと長く息を吐き、壊れ物を扱うような手つきで下げた。
「お、可笑しい?」
思考回路にいくつもの疑問符が乱舞する。処理速度が遅れ、《Failed to……》のメッセージが受信された。心の底に溜まっていた残骸のような不安が洗い去られたような感情が湧き上がる。異常が発生しているというのに。
「謝らなくていいんだよ。考え方は
「それぞれ……」
彼女の言葉を何度も反芻した。配線に小さなしこりのようなものを保留しながらも計算を進める。解析結果はエラーコードが乱雑に並べられ、難解に陥ってしまった。だが、重荷のひとつを下ろし、調和を施した寛ぎがじんわりと広がっていった。
「ただし、これは簡単には解決できない。あなたのことを理解できない
冷え切ったE缶に歪んで引き伸ばされたオレの顔が映っていた。天井の電灯の光を拾い、幽霊のようにぼんやりと浮かぶ。誰かも知らない他人が冷ややかな視線を返してきているようだった。
「でも、これだけは覚えておいて。自分自身との戦いになるかもしれない」
︎︎真剣な面持ちで焦点を合わせるように見つめる。顎を引き、唇をきゅっと固く結ぶ。さらりと落ちた前髪の隙間から射抜くような鋭い眼差しが覗く。「本当のことなの」とか細い声が回路に這うように響いた。
「自分自身………」
けしかけるような一陣の風がひゅうひゅうと窓を鳴らす。
「気休め程度にもならないかもしれないけど、もし躓くことがあったらこの子を見つめてみて」
ソファの隅で丸まっていた兎のぬいぐるみを優しく抱き上げる。すらりとした指先で長い耳をなぞった。オレの膝の上にぽんと置き「ちょっとしたプレゼントだよ」と掌に短い前足を握らせる。柔らかな綿の感触が染み渡り、毛並みから陽だまりのような匂いに包まれた。ぬいぐるみ越しに伝わる彼女の微かな温もり。ほっと救われた気分になる。
「いいのか、貰っても……?」
︎︎底知れない不安が胸の奥でどんよりと沈む。咄嗟に言葉を飲み込んで彼女の目を見つめる。ぱっちりとした瞳が宝石のように燦然と輝く。
「君にとって大切なものじゃないのか?」
︎︎視線が交差する。彼女は首を軽く捻り、「いいの」とひまわりのような微笑を浮かべる。
「遠慮しないで。きっとこの子も喜んでいるから」
︎︎せせらぎのような優しい声。そっと膝を屈め、ぬいぐるみの頭を塗り薬を擦り込むように撫でた。まるで、とっておきの宝物を託すように。目尻が下がり、花が咲き乱れたような微笑みをこぼす。
「だが、なぜオレに?」
︎︎思考回路にぷつぷつと沸きあがる疑問の泡で埋め尽くされる。ふと見上げると彼女は、「んー」と思考に浸るように手を顎に押し当てた。輪郭を縁取るようにこすり、静かに視線を逸らす。
「そうだね……きっとあなたなら大切にしてくれるんじゃないかって思ったの」
︎不意に彼女はしゃがみ込むように膝に手をつき、柔らかい眼差しでオレの目を見つめる。微塵も濁りが見えない綺麗な瞳が視覚センサーに焼きつく。
︎︎もう片方のオレの腕をそっと掬い上げ、「特に深い意味はないから重く受け止めなくていいよ」とぬいぐるみの耳に手を添えらせた。
「大切に、か」
差し出された兎のつぶらな瞳はとても彼女に似ていた。
♡
懐かしい思い出がふと蘇った。彼女と出会ったのはオレが新人の頃だった。
イレギュラーを残酷に破壊する任務に疑問を抱いていた時期に。今でもこのおもいはあまり変わらないが……
戦闘の時でさえそんなことを考え、迷惑をかけていたのは事実だ。案の定、周囲の仲間からも理解されず、嘲笑されていた。全員がそうではなかったのが、まだ救いだった。数少ない仲間でも、支えてもらっていたのは有り難い。
そんな中、勇気を振り絞って彼女に相談したのがきっかけだ。なんとなく、わかってくれるんじゃないかと、心のなかで思ってしまった。思いのほか、話を真剣に聞いてくれた。ひとつも笑わずにただ頷くだけ。
︎初めてだった。こんなにも、オレのために優しく接してくれたことが。言葉だけじゃなく、行動でも表れることを改めて感じた。
この時から彼女の傍に寄るだけで動力炉は騒がしく、不具合を度々起こすようになった。この感情はこれまでの経験上で抱いたことがまったくない。感情ってのは不可解なものだらけだ……
永い時を経て蓄積された想いは簡単に崩れない────オレはそう思っている。
レプリロイドは損傷がどんなに激しくも、電子回路が破損して傷が癒えてなくても、すぐに修復が可能だ。たとえ、このボディが朽ち果てようとしたり、この世から消え去ったりしても、自身のメモリーさえ残っていれば、実質生きていられるようなものだ。何かしらのことで破壊され、存在ごと消されなければ、データ上では存在することになる。
────
︎︎病気や事故などが起きない限り、老衰して寿命を迎えてしまう。……儚い人生だと思った。何度も仕事という名の任務の時に、この視覚センサーで嫌でも認識していたから。
忘れることなんてできないやしない。制御装置に焼き付いてしまったから。思い出すだけでも、モーターに接続されているトルクが詰まりそうになっていた。戦場から漂う塵やゴムが焼ける臭いが半導体式センサに吸い付くこともあった。
運命に抗いたい。なんて……ふとした時に思うことが何度もあった。
もう奇跡を信じて願っても叶うことはないだろう。人間に永遠なんて存在しないのはわかっている。思い通りにいかないこともだってある。彼女もいずれ迎えることになるのだから。
︎︎だが────どうしてもこの日だけは大切にしたい。
彼女との思い出のメモリーを内部にデータとしてバックアップや上書きをしようと思えばいつでも出来るが、“ 記憶 ”はメモリーと違って形として残すことができない。通常ではレプリロイドでも人間のように時間と共に記憶がゆっくりと薄れていく。
︎︎その時の感情や考えて発した言葉や行動。その全てが神経回路に刻まれ、初めて“ 記憶 ”として残る。
だから、オレは“今”という時間を────
守りたい
未来と違い、過去に戻って干渉することができない。どんなに願っても時間は止まってくれない。変えることさえ不可能なのだから。叶わないことだってわかっているのに願ってしまうんだ。意識があやふやなまま壁をぼうっと見つめ『もっとこうすれば変われたんじゃないか』と。自責の念の繰り返しで苛まれる日々もあった。『過去に戻りたい』と悔やんでばかりで今になって何もできないことも数え切れないほどあった。
時々、彼女を見つめていると動力炉に異常が発生してしまう。それがどうしてなのかもわからない。頻度は昔より少なくなった気がする。いつものように過ごしているだけなのに。なのに────
いや、これ以上考えないでおこう。
だが、いつ、どこで、この平穏な日常が壊れるのかわからない。救える命がいくつもの尽きるのを繰り返させたりはしない。何としてでも。また世界が破滅を迎えようとしても絶対に諦めない。
奴の野望を阻止するために。
奴が理想を掲げ続けたことで、いつしか心は蝕まれていった。制御不能になって冷たくなった機械の群れを攻撃し、どろどろとしている汚れた油を浴びるたびに。
自らこの手で処分して……仕方ないことだってわかってる。
考えただけでも可動部に仕組まれているモーターの熱が暴走しそうになっていた。
︎︎やはり、戦うだけでは今までの繰り返しになる…戦ってもなにも解決しないことがあることもわかっている。だけど、こうしている間にも、イレギュラーたちは暴れているんだ。…悩んでいるヒマなんて、ないな。
昔のオレならこんなことは思わなかっただろう。今は────大切な宝物をこの手で握りしめているから。
◇
「……エックス?」
俯いていた彼が顔を上げ、息を呑んではっとする。意識をどっか遠くに投げていたけど、顔を引き締めてすっと戻っていた。まるで、深海魚からの誘いを拒み、光り輝く地上へと這い上がるように。
「………なんでもない。気にするな」
安心させるように微笑を浮かべる。ずっとどこか暗い影が覆い被さっていたが、こぢんまりとした太陽が照りつけて消滅していた。ようやく、遥かなる過去の時間を取り戻したように光に満ちた表情が溢れ出す。
「独りで抱える必要なんて、もうないんだ。」
彼の力強い呟き。自分に言い聞かせるような囁きにも聞こえる。揺らぎのない芯の通った声が耳の奥深くにまで刻み込まれた。
「何としてでも────」
聳え立つ運命を目の前にして、決意のみなぎった音が響き渡った。
「抗えない運命なんて存在しない。どんな手でも変えてみせる」
気が付けば、彼の腕が背中に回り、優しく抱き寄せられていた。彼の胸部から心臓の鼓動を模した駆動音がとくとくと鳴っている。彼は精密機械で造られているはずなのに、生きているという温もりが伝わってきて心地いい。
「夢主」
複雑な心の迷路を切り裂いたはきはきとした声。これまで逃げていたことからしっかりと向き合うように。些細なことでも真正面から受け止める想いを心に刻みながら。
「世界がどうなろうと、いつか終わりが来ようとしても、必ずオレが守る」
雨がぽつぽつと止み、空が抜けるような青さに澄みきる。ぴかっと煌めく鮮やかな虹の橋が架かった。暴れていた雫が大人しくなり、きらんと光沢をもつ。小さな部屋に眩い明かりをぽつんと灯す。
「必ず────」
私はぎゅっと抱きしめ返した。
◇
夜の帳が下りた部屋で電灯がそっと灯る。
ふかふかの毛布に包まれ眠り姫のように規則正しい寝息を立てる少女。粉雪のように真っ白のレースのネグリジェが、彼女の肌をより白く見せていた。カーテンの隙間から月明かりが顔を照らす。長い睫毛が影を柔らかそうな頬に落ちた。
彼女専用の衣装をクローゼットに丁寧にしまう、自律しているレプリロイドの青年。彼は音を立てずに彼女の傍に寄り添うように腰を下ろす。優しく髪を掬い、乱れた髪を整える。無機質な指の隙間からさらさらと零れ落ちた。
「この時間が永遠に続けばいいのに……」
壁掛けの銀鳩時計の秒針を刻む音が鳴り響く。彼の伏せた短い睫毛が小刻みに震えていた。
「エックス………」
「なんだ?」
︎︎「……ん」とろんと眠気の残った声。夢心地に浸るようにぼんやりと迷っている。彼女は華奢な手で彼の大きな手にそっと添え、ゆっくりと握りしめた。
「ん?」
彼は軽く首を傾げ、「お、起きているのか…?」と一瞬だけ目を見開く。
「……夢主」
指でしっかりと絡め、ほどけないようにぎゅっと握り返す。整備された指先で愛おしげに肌を撫でる。そこから、陽だまりのような温もりが伝わってきた。
「今夜だけは傍にいさせてくれないか」
頼もしい力がこもり、品位のある低い声。彼女の瞳をじっと見つめている。内部装置が急激にぐんぐんと上昇し、冷却クーラーが追いついていないようだ。
「無理にとは言わない」
彼女は赤児が初めて笑い出す靨のような、笑みをこぼす。まだ波が打たない微睡みの海を彷徨い続けていた。
「君は本当に……大切にしてくれているんだね」
︎髪に隠れた耳の傍に桃の花が飾られている。彼は指先で薄い花びらの輪郭をそっとなぞり、彼女の頭を手のひらで慈しむように撫でた。ほんのりと桜餅のように甘く、ほろ苦い香りが広がっていく。
「……夢主、ありがとう」
彼は触れるか触れないかの距離で、一瞬だけ彼女の口元に寄せる。純白の天使のような羽がひらりと舞うように落ちてくるように。
︎︎目を閉じて気化熱を制御し、温かくなった吐息を漏らす。彼女の存在を確かめるように小さな掌にそっと力を込める。
「君に生きろとは言わない。だが、オレがいることだけは忘れないでくれないか」
夜の空がぱっと晴れた。花束を解きほぐしたような満天の星が煌めく。月光が窓から差し込み、ふたりの隙間を埋めるように当たった。
「オレは夢主が生きているだけで十分だ………だから────」
ふたつの流れ星が真珠のように輝きを放つ。後ろの長い光の尾を真っ直ぐに引き、ゆったりと流れる。
どんな願い事も叶えられそうな予感のする音がそよ風を誘き寄せた。
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