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誓約
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「明日、任務をさぼって私と結婚しよう」
静まり返ったメンテナンスルームに鈍い金属音がどーんと響き渡った。
「な、なんだって……?」
彼は目を大きく見開き、ぽかんと開いた口が塞がっていない。丁寧に整備された手が宙に浮いたまま。ついさっきまで、タオルでごしごしと磨いたぴかぴかのバスターに目を眇め、『ここも問題なし』と動作確認をしていたところだった。
「君の言ってることは」
落とした青色の《エックスバスター》の先端。エネルギーが収束する銃口の縁に熱を帯びる。今は眠っているはずなのに鉄が燃え焦げる匂いが漂う。
「………本気なのか」
たったひとつぶの豆粒を放りだしたように呟く。人工皮膚に覆われたほっぺに熱がこもる。大きな手で誤魔化すように隠し、指の隙間から視線が忙しく泳ぐ。伏し目がちに「思い違いなのか? いや、確かに……」とぼそぼそと小さくこぼす。
「本気って言ったら?」
作業台に置いてある細長い液晶時計。日付はまだ “ 4/1 ” と表示されている。冷ややかな桃色の発光色が網膜に焼きつき、かちかちして眩しい。
「もしものことだよ」
小さな窓から夕日が差し込み、周りの部屋が赤っぽくなっていく。彼の背後のある夕日が鋳込んだような黒ずんだ影をぐんと伸ばす。
「オレは夢主の意見を尊重したい。だが……今すぐに行動するのは難しいんだ」
彼の翡翠 のような双眸の輝きがふっと消え失せ、澱んだ混沌へと濁っていく。ヘッドパーツの隙間から短い睫毛が覗き、目元に押しつけるような暗い影を落とす。まるで、ずっと溜めてきてる想いを頑丈な殻に閉じこもるように。
「私が人間だから?」
「違う。オレはただ──── 」
わずかに口元が開いたが、引きつったものを押しとどめるように口をつむぐ。目に複雑な感情を分厚い蓋で閉じ込めるような影が覆い被さる。ふぅーと長く息を吐き出し、思考が一時的にパンクしたかのように首に手のひらを押し当てた。
「これあげる」
食べかけのアイスがぽたぽたと私の指先から手首に零れていった。
「エックス、あーん」
どろりと溶けかけたフルーツ入りの棒アイスを彼の口元に運ぶ。驚いたように目をぱちぱちさせる。耳元の円形パーツからどきどきと速い周期のような駆動音が漏れた。「そ、それは…」と静かに目を伏せ、心が決まらない様子ながらも受け入れて噛み砕く。
「どう?」
冷たい爽やかな音がさくっと響く。甘酸っぱい苺の香りが鼻腔をくすぐる。彼は目を閉じ、じっくりと味わうように噛み締めていた。
「少しは落ち着いた?」
「ああ……ありがとう。夢主のお陰だ」
彼の瞳が翡翠 の輝きを取り戻し、ふんわりと口元を緩める。ほっとしたように息をつく。左胸部から心音を模したような動作音が穏やかに聞こえてきた。
「結婚はしなくていいの。私はエックスの傍にいるだけでも嬉しいから」
「………そうか」
小さく肩を落とし、コアも一緒に出てきそうな大きな吐息をもらす。脚部の隙間に重たそうな排気が吹き出し、熱暴走を抑えるように力なく膝の上に手を置く。聴覚センサーを保護する赤色の通信ランプから点滅を激しく繰り返す。
「君はどんな嘘でも信じることができるか」
両手でぽんと軽く膝を叩いて立ち上がり、バスターに迷いなく手を伸ばした。手首を軽く捻り、鋼のような硬い音がかちっと響く。みじん切りのように細分化して内部に潜らせ、五本の指が滑らかに飛び出す。
「厳しい状況に追い込まれてもなお」
時計に視線を縫い付けたまま「難しいことだけどな…」と口をきつく結ぶ。切り替えるように短く息をつき、目をばちっとさせた。
「それは────」
「答えなくていいんだ。これは安易に正解などで決めつけられないことだから」
はっきりとした澄んだ声。窓硝子に手を押しつけ、見定めるような視線を遠くの景色へ送った。指が食い込むほど拳を震わせ、手のひらに細かい皺がくしゃっと寄る。
「信じたいことを素直に信じられたらいいんだけどな……」
薄く張り付いた彼の顔がうっすらと浮かび上がる。厳しく顔を顰め、糸のように目を細めた。ぼやけた輪郭を人差し指でなぞり、気落ちしたような吐息をつく。
「心から本気で」
窓越しに映る彼と視線が交差する。私の眼差しに狼狽えるように目を逸らし「いきなり聞いてすまなかった」と瞼を閉じた。
「エックス」
視界の端に煤黒い烏が翼をはためかせて疾風のように素速く横切った。
「あなたは何を考えているの…?」
彼の左胸部から不規則にノイズの音が稲妻のようにびりびりと走った。
「エックス?」
彼はへんに真剣で引きつったような顔で距離を縮めていた。足取りは真っ直ぐ。彼からなる足音だけが耳に突き刺さる。
一歩、二歩────
静寂を切り裂くようなカツンと硬く冷たい金属の接地音。
一歩ごとに重低音が鳴り響く。天井に埋め込まれているシステムパネルから淡い反射光が彼の顔を照らす。突き進むような覚悟を決めた表情。今までに見たことないくらいの決意に満ち溢れていた。
「……すまない」
冷たさを失った木の平たい棒が床にからんと転がり落ちた。
「誓いの約束 を」
私の左手首を優しく掬い、薬指にそっと歯を立てる。噛むというより甘噛に近い。麻痺するような熱がこもり、彼の温もりが心に浸透していく。指先に残るくっきりとした歯型。白い皮膚が鮮やかな赤色へと染まっていた。
「病める時も、健やかなる時も────夢主を愛し、敬い、慈しむ事を誓います」
意を決したような低い囁き。床に片膝をつき、胸部に手のひらを強く押し付ける。きりっと顔が引き締まり、堅い意志が瞳にきらりと火を灯した。
「命がある限り真心を尽くす事を誓います」
私の左手に手を添え、薬指に静かに口づけ落とす。癒すように指先で優しく撫でる。目に悲しげな影が覆い、「痛かったよな…」と低く抑えた声で弱々しく呟く。
「これがオレの限界だ。夢主は……誓うか?」
私はしゃがみ込むように膝を屈め、彼の頬に両手を添える。シリコン素材の柔らかい感触が伝わっていく温もりが手のひらを伝って全身に流れていく。無機質な口元に唇を寄せ、そっと当てる。一瞬だけ重ねてすぐに離す。排熱のような吐息が鼻先にかすめ、頭の芯までぼうっと溶けはじめる。
「夢主」
頼もしくて品位のある彼の声。がっしりとした手で私の手首を掬い、宝物を握りしめるように両手で慎重に掴む。
「エックス」
視線が甘く絡み合う。彼は大きな瞳を柔らかく細め、慈しむような微笑みを頬に浮かべた。
「君がもし……嘘をついていたとしても、オレの気持ちは本当だ」
彼は私の背中に腕を回し、そっと抱き寄せる。不安定な世界で大切な宝物を守るように腕の中に閉じ込められていた。重なり合った胸の奥からふたりだけの周波数のような心音が共鳴しあう。温かみのある彼の指先で頭を撫でられる。一束の髪を櫛のように掬いあげ、唇を寄せる。
「受け取ってくれないか」
ゆっくりと腕を離し、指の合間に彼の指が滑り込む。私はぎゅっと隙間を埋めて握り返す。お互いの指の付け根が合鍵のようにぴたっと深く結びつく。
「………ありがとう」
アスパルテームが敷き詰められた微睡みの海にぷくぷくと溺れていった。
◇
戦場へと向かう転送装置の前。
「エックス…」
身軽そうなアーマーを纏った彼は口を閉ざして佇む。バスターの接続部分を作業のように確認した。ヘッドパーツの縁を不具合を認識するテスターのように指でなぞる。
「行ってくる」
淡々とした低い声。フットパーツを床に打ちつけ、操られた機械のような足取りできびきびと規則的に進む。彼の視線は真っ直ぐ前を見据え、一度もこちらを見ようとしない。
踵を返した瞬間、背負う深い青色のパーツの背中が小さく見えた。私は腕を伸ばすこともせずに見守るのが彼にとって最善だから。
それでも────
「………嘘つき」
彼に聞こえないように呟きが脳裏に焼き付く。彼が任務をさぼるなんて、最初から出来ないってわかっていたのに。のしかかる感情の海を鎮めるように頬肉の内側を深く噛む。
「行ってらっしゃい」
「すぐに済ませてくるよ」
彼は青白い光の粒子に分解され、風に舞うように霧散していった。消える直前に、「オレと君との約束だ」と安心させるような優しい微笑みをこぼしている気がした。
「約束……」
やけに喧しく嗄れた烏の鳴き声が耳を劈く。
「………いかないで、なんてただの我儘だよね」
彼がいなくなった後の転送区画は、何も描かれていない白いキャンバスのように残酷だった。
「わかっているのに────なのに……」
こじ開けていた瞼が重くなり、視界が歪んでぼやける。咄嗟に両手で顔を覆う。目尻がじーんと痺れ、熱くて冷たいような涙が指の隙間から零れ落ちる。湿った指先で強引に拭う。必死に声を抑えるたびに、喉がきゅっと締め付けられて空気が通りにくい。
「今の時間って」
視界の端。壁面に仕組まれたデジタル時計の数字が音もなく切り替わる。静かに “ 23:59 ” から “ 00:00 ” へ跳ね上げた。日付はあっけなく “ 4/2 ” に変わった。
「あの時の誓いは」
ふと左手を見る。彼の誓いを刻んだ痕が残っていた。黒みがかった赤が滲み、消える様子はまったく見えない。
拭ったはずの涙が歯型に溜まる。形がゆっくりと浮かび上がり、雫のように透き通った指輪が赤黒く染まっていく。
「まだ残っているんだね」
アスパルテームを超える人工的な香りに鼻が痺れていく。心の底にたまっていた不安が洗い去られた感覚に満たされる。
「私と」
彼との誓いの約束が刻まれた婚約指輪が銀色に輝いていた。
◇
凍てつくような夜が訪れた軌道エレベーター《ヤコブ》の昇降機内。
「逃がすか!」
俺は連続斬りで《クラッキング》を仕掛け、盾兵のメカニロイドのリフレクトを解除する。弦が切れた勢いで弾き飛ばし、壁へ叩きつける。
「これで終わりだ」
瓦礫があちこちに飛散し、大きくひび割れる音が狭い空間に響いた。そのまま背中からずるずると横に倒れ、猛烈な爆発音が聴覚センサーになだれ込む。
「まだまだだな」
オイルがこびりついた《ゼットセイバー》をさっと振り、乾いた風切り音が空気を裂く。
「させないよ!」
丸みを帯びた銃口にエネルギー弾が集束し、矢継ぎ早に畳みかける。浮遊するいくつもの豆のような赤いメカニロイドを打ち砕き、夜の静けさを劈く破裂音が響く。
「また蜂……流石に見飽きたよ」
くぐもった羽音が重々しく地を這うように唸りをあげた。
「前に来たときはそんなにメカニロイドしつこくなかったんだけどね」
規則的に動き、黒光りする鋭い針を突き出した。くるりと回転し、「危ないなぁ」と身を伏せながら連射を繰り返す。
「隙だらけだ」
重心を低く構え、床を勢いよく蹴る。人型メカ二ロイドが滞空し、虫のようにわらわらと群れていく。柿の渋色の目がぎらりと鋭く光り、黒い塊の爆弾を構えた。
「…まだ足掻くのか」
体を軽く捻り、《ゼットセイバー》を握る右手に力を込める。指先が柄に食い込み、内部に搭載されているトルクセンサーの駆動音が小さく噛み合う。
「そこだ!」
視界が白く染まり、すぱっと空気を引き裂くような高音が響き渡った。
「この程度か……珍しいエネルギー反応があると聞いていたんだがな」
重力に引かれて音もなく着地する。鈍く光るオイルを撒き散らし、静電気が稲妻のように迸った。山のように積み上がった残骸から煙が立ち上り、大砲のような爆発音が轟く。
「そもそもレアメタルはここにないから不思議なんだよね。もしかしたらエネルギーじゃなくてとんでもないイレギュラーだったりして」
《ホバリング》を起動したまま空中で体を捻らせ、敵の光弾を躱す。狙いを定めるように目を眇め、敏捷な動きでエネルギー弾を撃ち込む。
「特殊な能力の影響でレーダーに反応がなくて特定できないとかだったり、ね」
「特殊な能力か…」
アクセルの発した言葉を反芻する。横から小気味よく連続で爆発を起こし、灰色の煙が太くなびいていく。これである程度片付けたはずだ。
「また面倒なことが起きなければいいが……」
視界の端に黒い鳥が風の如く横切った。
「果たさないといけないんだ」
やけに威厳と落ち着きを加えた低い声。《エックスバスター》を添える左手が制御できないかのようにぶるぶると震え、指先に皺がひどく寄った。苦渋に満ちた表情のまま目を眇める。
「くっ…」
瞬きが止まり、レンズが小さくなるほど目を見開く。険しく顔を顰め、「しまった……!」と歯を食いしばる。
「………くそっ」
中途半端に出力されたようなエネルギー弾の軌道が外れ、メカニロイドの頬をかすめた。真っ黒に焦げた痕がこびりつき、かすかに火の粉が舞う。
「エックス?」
気の抜けたアクセルの声が妙に聴覚センサーに残った。瞬く間にはっと息を呑み、「何してるの!? 避けて!」と焦りを抑えきれていない声で叫ぶ。
「聞こえてないのか?」
ふと見ると、エックスの目の前にメカニロイドが掲げたセイバーの形状に似た武器が閃いていた。時が止まったように体が硬直し、不動のまま立ちすくんでいる。
「………妙だな」
アクセルとの距離はそんなに離れてはいない。わざわざ聴覚センサーを起動しなくても済む範囲内だ。
「いつの間に……!? 流石にこれって不利じゃないかな」
無数に乱れた硬い足音が冷え切った壁に跳ね返って重苦しく反響した。
「メカニロイドにしては随分と態勢がとれているな」
アクセルだけか……。俺を道連れにできたはずだ。意図的に選んでいるようにも見える。だとしてもイレギュラーのように意志があってたまるか。
「さっき処分したはずなのに……次から次へと増えているなんて聞いてないよ」
決められた定位置につくように大勢のメカニロイドが取り囲む。仲間の仇でも討つかのような目に冷酷な光が宿る。口元を引き締め、「ここはボクが引き受けるよ」と《アクセルバレット》の柄を握り直す。
「ゼロ! 後は任せたよ!」
「ああ。任せろ」
重心を低く落とし、わずかに体を前へ傾ける。脚部の高出力エネルギーが突き上がり、内部構造に接合されている力覚センサーのアンロック音を立てた。足元から溜まった熱を逃がすように排気が短く吹き出す。
「エックス!」
空気を押し潰すような重苦しい風圧が頬をかすめた。
「させるか!」
擦れあう武器が甲高い悲鳴を上げ、ふたつの刃が交差した。火花が雨のように足元に降り注ぐ。荒波のような高出力が押し寄せ、足を踏ん張って耐える。
煩わしい雑音が消え、一瞬の隙を見逃さずにセンサーを研ぎ澄ます。正確に息を整え、腰を低く落とす。わずかに軌道を逸らし、素速く刃を滑り込ませる。
「詰めが甘いな」
武器を弾き飛ばし、後方へ押し退ける。くの字に大きくのけぞり、足元がふらつく。反動で床に手をつき、視線が定まらないまま近辺を見渡す。
「しつこい野郎だ」
一陣の突風のような風が吹き、くすぐるように頬を撫でた。
「キサマの好きにはさせない!」
刃を深く潜り込ませ、胴体を切り裂く。上半身が石のように呆気なく転がり落ちる。膝から崩れ落ち、ばたんと虚しい音を立てた。切断部分が露わになり、鮮やかな配線が乱れている。
「もう大丈夫だろう」
普段通りに背に《ゼットセイバー》を納刀する。風に纏った煙を手の甲で振り払い、アーマーパーツに飛び散った破片をつまむ。
「動く気配さえないからな」
残骸となったメカニロイドに目をやる。この状態になるとまともに動くことはできない。待っていればじきに爆発するだろう。
「怪我はないか?」
おかしい。普段ならあんな遅い攻撃は誰でも避けられるはずだ。居ても立っても居られずに難解な計算を進める。解析結果によると分析が破綻し、《Failed to…》とエラーコードが受信された。あいにく、そんなに頭のいい方じゃないのが仇になったか。
「…大丈夫だ。ありがとう」
目つきに安堵の色が浮かび、大きく息をつく。俯き加減に視線を逸らす。《エックスバスター》の接続部分をなぞり、「オレとしたことが……すまない」と指が食い込むほど握りしめた。
「やっと終わったー!」
活気のあるはつらつとした声。天に向かって拳を突き上げ、明るい笑みを頬に浮かべた。残骸の山に戸惑いもなく片足を乗せ、「一人で相手するの大変だったよ」と遊ぶように《アクセルバレット》をくるくる回す。
「油断はするな。またいつ出てきてもおかしくない」
視覚センサーを起動して周囲を概観する。緑色のデジタルグリッドが瞬時に展開され、センサーが忙しく円を描く。細長い長方形の赤色の枠に《No signal》が表示された。
「わかってるよ。もうすぐ頂上につくから少しくらい休んでもいいと思うけど?」
頭の後ろで手を組み、口をへの字に曲げる。片方の口を動かすように軽く笑い、「ま、いいけどね」と床にどかっと腰を下ろし、大胆にあぐらをかく。
「今だから話すんだけどさ。エックス、さっきからどうしたの? ボクたちと合流したときからずっと上の空だけど……」
珍しく切なそうな声。不思議そうに首を傾げ、瞬きを繰り返す。首を手のひらでこすり、「無理には聞かないけどさ」と目を逸らす。
「一体、何があったの?」
えらく神妙な顔つき。不意にさっと立ち上がり、両手で頬を軽く叩く。ぐんと引っ張るように踵を上げ、小刻みに歩いている。
「答えられる範囲でいいよ。問い詰めることはしたくないからね」
目に憂色を浮かべ、顔が曇る。顎を引き、「心配なんだよ…」と向き合うようにエックスの目をじっと見つめた。
「たいしたことじゃないんだ。ただ────」
すぐに答えは出せないのか言葉を濁す。細い糸筋のような月光が顔を照らし、輪郭がぼんやりと浮かぶ。薄い影が宇宙を突き抜けるほど縦に伸びる。ゆっくりと目を伏せ、瞳が揺らぐ。
「夢主と色々あって……迷惑をかけてすまなかった」
顔を背け、感情を抑えるように腕を手で押しつける。目頭を指で押さえ、「さっきの件はオレの失態だ。次はないようにする」と排気口の底から吐き出すように息つく。
「ふーん」
顎に手をやり、思考に浸るように指先を唇に触れる。いきなり目に電灯がぱっとついたような光が灯った。人差し指で唇をとんとんと叩き、「もしかして…!」とぶつぶつと念仏を唱えるように呟く。
……正直、嫌な予感しかしない。俺の勘がそう言っている。
「もしかして夢主と喧嘩した?」
間の抜けた沈黙がじんわりと広がっていった。
「………本気で言ってるのか?」
エックスの目が見開き、小さく開いた口が塞がっていない。アクセルは間髪入れずに「それって失礼じゃない? ボクは本気だよ!」と頬を風船のように膨らませる。頬が強張り、「してないが」と乾いた笑みを貼りつけた。
「じゃ何? 夢主に嫌いって言われて落ちこんでるの? それとも今更になって夢主のことがめっちゃ心配で集中できないとか」
呆れたように肩をすくめ、首を軽く捻る。片方の口の端を吊り上げ、「しつこい男は嫌われちゃうよ」とくすくすと笑う。
「アクセル。限度ってものがあるだろう……どれも違う」
額を手で覆い、疲れを吐き出すように長く息をついた。
空に左手をかざし、薬指に穴が空きそうなほど見据えたまま動かない。苦悩に覆い被さった目を細め、「夢主は覚えているだろうか」と低く抑えて囁く。
「へへ、やっとエックスらしくなったね」
分かりやすい嬉しさが頬にこぼれ、無邪気にころころと笑う。ふんぞり返るように胸を張り、「ボクのお陰だね」と腰に手を当てる。
「そうは見えないけどな」
小さく呟いた声が思考回路に焼き付く。どうやらアクセルには聞こえていないようだ。俺だけが聴覚センサーに入ったことになる。
「……そうだな」
上体をわずかに引き、くるりと背を向けた。込み上げてくる感情に耐えるように拳を力強く握りしめ、人工関節が苦しそうにぎしぎしと軋む。「夢主と約束したんだ」と憂いを帯びた瞳が弱々しく揺れた。
「帰らないといけないんだ。必ず………」
「エックス? やっぱり何かあったんじゃ────」
けたたましい警告音が《WARNING》と抑揚の少ないシステム音が思考回路の細部にまで鳴り響く。
『緊急事態よ、みんな! 大型のイレギュラー反応が近いわ…! 今までにないかなり強力な反応よ……警戒を怠らないで!』
「「「了解」」」
無機質な電子音が聴覚センサーの底に響いてぷつんと途切れた。
「久しぶりのご登場だね。またイレギュラー退治ができるなんて腕が鳴るねー」
得意げに口角を上げ、にやりと笑みを深める。目を閉じ、肩に手を添えて大きく回す。決意を固めた声で「よし、準備完了」と《アクセルバレット》を軽快に回転させる。
「どんなヤツでも叩き斬るまでだ」
俺は短く息をし、《ゼットセイバー》を引き抜く。淡い橙色が視覚システムに焼きつき、三日月のような弧を描く。
「必ず────この戦いを終わらせる!」
頭部の芯に突き刺さるような力強い声。切り替えるように長く息を吐き出し、口をきゅっと結ぶ。
《エックスバスター》にそっと手を置き、「すぐに終わらせるんだ」と自分に言い聞かせるように呟く。まるで、結ばれた約束を果たすように
「いつでも行けるぜ」
地軸もろとも斬り裂くような破裂音がどよめいた。
◇
柔らかい間接照明が差し込む深夜の休憩室。
「疲れた……」
ふっと息を吐いてふかふかのソファに腰を下ろす。硬そうな革が苦しそうにきゅっと鳴く。しっとりと吸い付くような肌触り。長年の時が刻まれているせいか、大きくひび割れている。
「傷ついてる……近いうちに取り替えないと」
鈍い銅色の光を放つチタン合金製のテーブル。表面には、誰かが作業中に付けていたであろう細かな擦り傷が残っている。
「本当に戻ってくるのかな」
牛乳をたっぷり注いだ紅茶のまろやかな味が口いっぱいに広がる。冷えきった薄茶色の水面に映った私の顔は、目元と頬が薄紅色に腫れ上がっていた。
「私はエックスのことを、」
信じたい。あれから彼が任務に出動してから数日も経つ。もしかしたらとっくに帰投してメンテナンスを受けているのかもしれない。
「もう終わっていてもいい頃合いのはずなのに」
窓の景色を見つめる。地平線の向こうからは、軌道エレベーター《ヤコブ》が天を貫くほど伸びている。前に彼らがやっとの思いで制圧したはずなのに、威圧感を放って神々しく聳え立っていた。
「まだかな……」
今頃、彼は何をしているのかな。きっとメカニロイドの残党調査に向かっているはず。ただ帰投しているのを信じるしかない。彼の安全を願う日々だった。
それに────
複雑なロックが解けるカチッと噛み合った短い排気音が部屋に鳴り響く。
「ただいま」
ドアが重力を無視するような滑らかさで上へ開く。彼のアーマーは研ぎ澄まされた刃物のように磨き上がられていた。戦場の泥や焦げ付いた火薬の匂いが嫌になるほど付くはずなのに、跡形もなく消え去っている。
────何事もなかったように。
「………おかえり」
「夢主! 遅くなってすまない……想定外の任務に時間がかかってしまっていたんだ」
気が付けば、頬に彼の冷たい手のひらが添えられていた。親指の腹で私の目元をなぞる。壊れ物を扱うような頼りない手つき。睫毛が指先に触れ、くすぐったさに目を伏せる。
「私は大丈夫だよ。謝らなくていいからね」
目尻をなぞる指を止めたくて彼の腕に手を添える。押し返すのでもなく触れるだけ。私の手が重なると、動きがぴたりと止まった。
「夢主………」
声に水を張ったような寂しい声。ふと見上げた視線の先。瞳が泣き出しそうにぐらぐらと揺れている。
「エックス。長かった任務で疲れたでしょ? 少しぐらい休まないと」
天井の隅に取り付けられている電磁掲示板。ありきたりな生中継のニュース。ひとりのアナウンサーが街を映し、レポーターの様子が無音で流れていた。
「だが────」
なぜか心に拭いきれない不安が押し寄せた。案じる眼差しから逃げるように、添えていた手の力を抜いて離れる。彼は目を丸くして口元がわずかに動いていたが、気にせずにほんの少しだけ力を入れて背中を押す。
「座ってね」
「あ、ああ………」
促されるまま、向かいのソファへ腰を下ろした。使い込まれた革が重みに耐えるようにぎゅっと低く鳴る。
「……君を独りにしてすまなかった」
顎が胸部につくほど俯き、「こればっかりは仕方ないことなんだ…」と低く抑えた声で呟く。閉じ合わせた睫毛がわずかに震えていた。
「わかってるよ。もう気にしなくて大丈夫だからね」
目線を合わせるように膝をつき、彼の両手を包装紙のように包んで握る。冷えきった鉄のような冷たい感触が脳に伝達していく。彼の瞬きが一瞬止まり、息を呑む。
「……夢主」
私は「大丈夫」と何度も言葉を紡ぐ。彼は眉間に皺を寄せ、「君は本当に…」と視線をじっと逸らす。目が悲しそうにしぼみ、頬に熱がふんわりと帯びる。
「夢主にはいつも助けられてばかりだな。ありがとう」
はっきりとした低い声。やんわりと目尻を下げ、儚い微笑みを唇の縁に浮かべる。ほっとしたように太い息をつく。翡翠 の煌めきを放つ瞳が照明に反射し、神々しく白く輝いていた。
「少し待っててね」
ふと瞼に記憶が蘇り、静かに手を離す。彼は快くこくりと頷き、「わかった」と軽い微笑を唇にこぼした。
「ちょっとだけ時間かかるけどいっか」
私は片隅にぼつんと置かれたカウンターに向かい、棚からカップをふたつ取り出す。甘いシロップを煮詰めたような茶葉の香りが広がる。ポットがぷしゅーと湧き、沸騰したお湯を耐熱硝子製のティーポットに注ぐ。
「もうそろそろいいかな」
精製されたレプリロイド専用の高品質な潤滑油を淹れる。独特な金属の匂いが混じってラズベリーの甘くてさっぱりとした香りが漂う。持ち手に指先を引っ掛け、滑るようにカップをテーブルに置く。
「手伝うことはなさそうだね」
肩の力を抜き、背もたれに身を預ける。柔らかい微笑みを浮かべ、「夢主は疲れたらいつでも休んでいいからな」と私の目を見つめた。私は視線に応えるためにソファに腰かける。
「これは?」
彼は軽く首を傾げ、ぽかんと口が半開きになる。焦点を合わせるように瞬きを繰り返す。
「エックスのために用意していたの。口に合うかわからないけど……」
「わざわざオレのためにか....? ありがとう。有り難くもらうよ」
カップの縁に艶やかな唇が触れ、大切そうに飲む。ゆっくりと離し、規則正しい無音の息をつく。潤んだ唇を拭うこともせずに熱の余韻を確かめるように目を伏せた。
「美味しい?」
「夢主と一緒にいるからかな」と彼は幸せそうに微笑み、首を縦に振る。
「そっか…」
視界の隅に空が真っ暗になるほど烏の大群が通り抜ける光景が映った。
「………夢主。あの時のことを覚えているか」
改まった声で「オレはずっと考えていたんだ」とすっと目を伏せる。彼が目線を外した先を辿る。私の左手を瞬きひとつせずに穴が空くほどじっと見つめている。まるで、隅から隅までスキャンしているように。
「エックス……?」
彼はカップをくるっと回してからまったく音を立てずに飲み干す。
「君との結婚はできないかもしれない。だが、守り抜くことだけは約束できると誓う」
強大な力でも動かせられないような堅固な決心が目に宿り、左胸部に手のひらを強く押し当てた。顔を深く引き締め、「この身をかけて」と指の跡がつくほど右手首をぎゅっと握りしめる。
「夢主」
彼が座っているソファの傍に置かれた大きな千歳蘭 の葉がひらひらと揺れた。
「ひとつだけ確認したいことがあるんだ。少しいいか……」
話を遮るような口調で話題を変えた。感情を押し殺している生真面目な顔つき。あまりにも落ち着いた視線に痛みのない違和感を覚える。不思議と時が止まったような感覚に陥り、疑問の花が咲き乱れた。
「いいけど…どうしたの? 確認って────」
氷のように冷えたティーカップに左手を添えた瞬間だった。
「………嘘じゃないと、信じてくれないか」
ぬるま湯になったミルクティーがことんと傾き、薄い橙色がじわじわと染み渡っていく。
「良かった……」
大きな両手で私の左手をそっと包み込み、薬指に残る微かな歯型の指の腹で縁取る。失くした大切な宝物を取り戻すようにゆったりと動く。
「まだ、残っていたんだね」
ひんやりとした唇が乾いた黒い痕にそっと触れた。古びた傷を新しい跡に修復しようと癒すように。金属と人工皮膚の冷たさが肌とどろどろと溶け合う。指先に痺れるような熱が全身の神経に広がっていく。
「上書きさせて欲しい。君のすべてを」
幽かな月影が彼の顔に降り注ぎ、目元が浮かび上がった。ぬいぐるみを愛でるように目を細め、整備されたばかりの緑色の瞳の奥でセンサーがちかちかと明滅する。熱を帯びた人差し指が私の口元に優しく添え、メモリーに保存するように下唇のふくらみをなぞった。
「この手で」
あの時の嘘を真実にした甘くて蕩けそうな誓約の始まり鐘が告げた。
静まり返ったメンテナンスルームに鈍い金属音がどーんと響き渡った。
「な、なんだって……?」
彼は目を大きく見開き、ぽかんと開いた口が塞がっていない。丁寧に整備された手が宙に浮いたまま。ついさっきまで、タオルでごしごしと磨いたぴかぴかのバスターに目を眇め、『ここも問題なし』と動作確認をしていたところだった。
「君の言ってることは」
落とした青色の《エックスバスター》の先端。エネルギーが収束する銃口の縁に熱を帯びる。今は眠っているはずなのに鉄が燃え焦げる匂いが漂う。
「………本気なのか」
たったひとつぶの豆粒を放りだしたように呟く。人工皮膚に覆われたほっぺに熱がこもる。大きな手で誤魔化すように隠し、指の隙間から視線が忙しく泳ぐ。伏し目がちに「思い違いなのか? いや、確かに……」とぼそぼそと小さくこぼす。
「本気って言ったら?」
作業台に置いてある細長い液晶時計。日付はまだ “ 4/1 ” と表示されている。冷ややかな桃色の発光色が網膜に焼きつき、かちかちして眩しい。
「もしものことだよ」
小さな窓から夕日が差し込み、周りの部屋が赤っぽくなっていく。彼の背後のある夕日が鋳込んだような黒ずんだ影をぐんと伸ばす。
「オレは夢主の意見を尊重したい。だが……今すぐに行動するのは難しいんだ」
彼の
「私が人間だから?」
「違う。オレはただ──── 」
わずかに口元が開いたが、引きつったものを押しとどめるように口をつむぐ。目に複雑な感情を分厚い蓋で閉じ込めるような影が覆い被さる。ふぅーと長く息を吐き出し、思考が一時的にパンクしたかのように首に手のひらを押し当てた。
「これあげる」
食べかけのアイスがぽたぽたと私の指先から手首に零れていった。
「エックス、あーん」
どろりと溶けかけたフルーツ入りの棒アイスを彼の口元に運ぶ。驚いたように目をぱちぱちさせる。耳元の円形パーツからどきどきと速い周期のような駆動音が漏れた。「そ、それは…」と静かに目を伏せ、心が決まらない様子ながらも受け入れて噛み砕く。
「どう?」
冷たい爽やかな音がさくっと響く。甘酸っぱい苺の香りが鼻腔をくすぐる。彼は目を閉じ、じっくりと味わうように噛み締めていた。
「少しは落ち着いた?」
「ああ……ありがとう。夢主のお陰だ」
彼の瞳が
「結婚はしなくていいの。私はエックスの傍にいるだけでも嬉しいから」
「………そうか」
小さく肩を落とし、コアも一緒に出てきそうな大きな吐息をもらす。脚部の隙間に重たそうな排気が吹き出し、熱暴走を抑えるように力なく膝の上に手を置く。聴覚センサーを保護する赤色の通信ランプから点滅を激しく繰り返す。
「君はどんな嘘でも信じることができるか」
両手でぽんと軽く膝を叩いて立ち上がり、バスターに迷いなく手を伸ばした。手首を軽く捻り、鋼のような硬い音がかちっと響く。みじん切りのように細分化して内部に潜らせ、五本の指が滑らかに飛び出す。
「厳しい状況に追い込まれてもなお」
時計に視線を縫い付けたまま「難しいことだけどな…」と口をきつく結ぶ。切り替えるように短く息をつき、目をばちっとさせた。
「それは────」
「答えなくていいんだ。これは安易に正解などで決めつけられないことだから」
はっきりとした澄んだ声。窓硝子に手を押しつけ、見定めるような視線を遠くの景色へ送った。指が食い込むほど拳を震わせ、手のひらに細かい皺がくしゃっと寄る。
「信じたいことを素直に信じられたらいいんだけどな……」
薄く張り付いた彼の顔がうっすらと浮かび上がる。厳しく顔を顰め、糸のように目を細めた。ぼやけた輪郭を人差し指でなぞり、気落ちしたような吐息をつく。
「心から本気で」
窓越しに映る彼と視線が交差する。私の眼差しに狼狽えるように目を逸らし「いきなり聞いてすまなかった」と瞼を閉じた。
「エックス」
視界の端に煤黒い烏が翼をはためかせて疾風のように素速く横切った。
「あなたは何を考えているの…?」
彼の左胸部から不規則にノイズの音が稲妻のようにびりびりと走った。
「エックス?」
彼はへんに真剣で引きつったような顔で距離を縮めていた。足取りは真っ直ぐ。彼からなる足音だけが耳に突き刺さる。
一歩、二歩────
静寂を切り裂くようなカツンと硬く冷たい金属の接地音。
一歩ごとに重低音が鳴り響く。天井に埋め込まれているシステムパネルから淡い反射光が彼の顔を照らす。突き進むような覚悟を決めた表情。今までに見たことないくらいの決意に満ち溢れていた。
「……すまない」
冷たさを失った木の平たい棒が床にからんと転がり落ちた。
「誓いの
私の左手首を優しく掬い、薬指にそっと歯を立てる。噛むというより甘噛に近い。麻痺するような熱がこもり、彼の温もりが心に浸透していく。指先に残るくっきりとした歯型。白い皮膚が鮮やかな赤色へと染まっていた。
「病める時も、健やかなる時も────夢主を愛し、敬い、慈しむ事を誓います」
意を決したような低い囁き。床に片膝をつき、胸部に手のひらを強く押し付ける。きりっと顔が引き締まり、堅い意志が瞳にきらりと火を灯した。
「命がある限り真心を尽くす事を誓います」
私の左手に手を添え、薬指に静かに口づけ落とす。癒すように指先で優しく撫でる。目に悲しげな影が覆い、「痛かったよな…」と低く抑えた声で弱々しく呟く。
「これがオレの限界だ。夢主は……誓うか?」
私はしゃがみ込むように膝を屈め、彼の頬に両手を添える。シリコン素材の柔らかい感触が伝わっていく温もりが手のひらを伝って全身に流れていく。無機質な口元に唇を寄せ、そっと当てる。一瞬だけ重ねてすぐに離す。排熱のような吐息が鼻先にかすめ、頭の芯までぼうっと溶けはじめる。
「夢主」
頼もしくて品位のある彼の声。がっしりとした手で私の手首を掬い、宝物を握りしめるように両手で慎重に掴む。
「エックス」
視線が甘く絡み合う。彼は大きな瞳を柔らかく細め、慈しむような微笑みを頬に浮かべた。
「君がもし……嘘をついていたとしても、オレの気持ちは本当だ」
彼は私の背中に腕を回し、そっと抱き寄せる。不安定な世界で大切な宝物を守るように腕の中に閉じ込められていた。重なり合った胸の奥からふたりだけの周波数のような心音が共鳴しあう。温かみのある彼の指先で頭を撫でられる。一束の髪を櫛のように掬いあげ、唇を寄せる。
「受け取ってくれないか」
ゆっくりと腕を離し、指の合間に彼の指が滑り込む。私はぎゅっと隙間を埋めて握り返す。お互いの指の付け根が合鍵のようにぴたっと深く結びつく。
「………ありがとう」
アスパルテームが敷き詰められた微睡みの海にぷくぷくと溺れていった。
◇
戦場へと向かう転送装置の前。
「エックス…」
身軽そうなアーマーを纏った彼は口を閉ざして佇む。バスターの接続部分を作業のように確認した。ヘッドパーツの縁を不具合を認識するテスターのように指でなぞる。
「行ってくる」
淡々とした低い声。フットパーツを床に打ちつけ、操られた機械のような足取りできびきびと規則的に進む。彼の視線は真っ直ぐ前を見据え、一度もこちらを見ようとしない。
踵を返した瞬間、背負う深い青色のパーツの背中が小さく見えた。私は腕を伸ばすこともせずに見守るのが彼にとって最善だから。
それでも────
「………嘘つき」
彼に聞こえないように呟きが脳裏に焼き付く。彼が任務をさぼるなんて、最初から出来ないってわかっていたのに。のしかかる感情の海を鎮めるように頬肉の内側を深く噛む。
「行ってらっしゃい」
「すぐに済ませてくるよ」
彼は青白い光の粒子に分解され、風に舞うように霧散していった。消える直前に、「オレと君との約束だ」と安心させるような優しい微笑みをこぼしている気がした。
「約束……」
やけに喧しく嗄れた烏の鳴き声が耳を劈く。
「………いかないで、なんてただの我儘だよね」
彼がいなくなった後の転送区画は、何も描かれていない白いキャンバスのように残酷だった。
「わかっているのに────なのに……」
こじ開けていた瞼が重くなり、視界が歪んでぼやける。咄嗟に両手で顔を覆う。目尻がじーんと痺れ、熱くて冷たいような涙が指の隙間から零れ落ちる。湿った指先で強引に拭う。必死に声を抑えるたびに、喉がきゅっと締め付けられて空気が通りにくい。
「今の時間って」
視界の端。壁面に仕組まれたデジタル時計の数字が音もなく切り替わる。静かに “ 23:59 ” から “ 00:00 ” へ跳ね上げた。日付はあっけなく “ 4/2 ” に変わった。
「あの時の誓いは」
ふと左手を見る。彼の誓いを刻んだ痕が残っていた。黒みがかった赤が滲み、消える様子はまったく見えない。
拭ったはずの涙が歯型に溜まる。形がゆっくりと浮かび上がり、雫のように透き通った指輪が赤黒く染まっていく。
「まだ残っているんだね」
アスパルテームを超える人工的な香りに鼻が痺れていく。心の底にたまっていた不安が洗い去られた感覚に満たされる。
「私と」
彼との誓いの約束が刻まれた婚約指輪が銀色に輝いていた。
◇
凍てつくような夜が訪れた軌道エレベーター《ヤコブ》の昇降機内。
「逃がすか!」
俺は連続斬りで《クラッキング》を仕掛け、盾兵のメカニロイドのリフレクトを解除する。弦が切れた勢いで弾き飛ばし、壁へ叩きつける。
「これで終わりだ」
瓦礫があちこちに飛散し、大きくひび割れる音が狭い空間に響いた。そのまま背中からずるずると横に倒れ、猛烈な爆発音が聴覚センサーになだれ込む。
「まだまだだな」
オイルがこびりついた《ゼットセイバー》をさっと振り、乾いた風切り音が空気を裂く。
「させないよ!」
丸みを帯びた銃口にエネルギー弾が集束し、矢継ぎ早に畳みかける。浮遊するいくつもの豆のような赤いメカニロイドを打ち砕き、夜の静けさを劈く破裂音が響く。
「また蜂……流石に見飽きたよ」
くぐもった羽音が重々しく地を這うように唸りをあげた。
「前に来たときはそんなにメカニロイドしつこくなかったんだけどね」
規則的に動き、黒光りする鋭い針を突き出した。くるりと回転し、「危ないなぁ」と身を伏せながら連射を繰り返す。
「隙だらけだ」
重心を低く構え、床を勢いよく蹴る。人型メカ二ロイドが滞空し、虫のようにわらわらと群れていく。柿の渋色の目がぎらりと鋭く光り、黒い塊の爆弾を構えた。
「…まだ足掻くのか」
体を軽く捻り、《ゼットセイバー》を握る右手に力を込める。指先が柄に食い込み、内部に搭載されているトルクセンサーの駆動音が小さく噛み合う。
「そこだ!」
視界が白く染まり、すぱっと空気を引き裂くような高音が響き渡った。
「この程度か……珍しいエネルギー反応があると聞いていたんだがな」
重力に引かれて音もなく着地する。鈍く光るオイルを撒き散らし、静電気が稲妻のように迸った。山のように積み上がった残骸から煙が立ち上り、大砲のような爆発音が轟く。
「そもそもレアメタルはここにないから不思議なんだよね。もしかしたらエネルギーじゃなくてとんでもないイレギュラーだったりして」
《ホバリング》を起動したまま空中で体を捻らせ、敵の光弾を躱す。狙いを定めるように目を眇め、敏捷な動きでエネルギー弾を撃ち込む。
「特殊な能力の影響でレーダーに反応がなくて特定できないとかだったり、ね」
「特殊な能力か…」
アクセルの発した言葉を反芻する。横から小気味よく連続で爆発を起こし、灰色の煙が太くなびいていく。これである程度片付けたはずだ。
「また面倒なことが起きなければいいが……」
視界の端に黒い鳥が風の如く横切った。
「果たさないといけないんだ」
やけに威厳と落ち着きを加えた低い声。《エックスバスター》を添える左手が制御できないかのようにぶるぶると震え、指先に皺がひどく寄った。苦渋に満ちた表情のまま目を眇める。
「くっ…」
瞬きが止まり、レンズが小さくなるほど目を見開く。険しく顔を顰め、「しまった……!」と歯を食いしばる。
「………くそっ」
中途半端に出力されたようなエネルギー弾の軌道が外れ、メカニロイドの頬をかすめた。真っ黒に焦げた痕がこびりつき、かすかに火の粉が舞う。
「エックス?」
気の抜けたアクセルの声が妙に聴覚センサーに残った。瞬く間にはっと息を呑み、「何してるの!? 避けて!」と焦りを抑えきれていない声で叫ぶ。
「聞こえてないのか?」
ふと見ると、エックスの目の前にメカニロイドが掲げたセイバーの形状に似た武器が閃いていた。時が止まったように体が硬直し、不動のまま立ちすくんでいる。
「………妙だな」
アクセルとの距離はそんなに離れてはいない。わざわざ聴覚センサーを起動しなくても済む範囲内だ。
「いつの間に……!? 流石にこれって不利じゃないかな」
無数に乱れた硬い足音が冷え切った壁に跳ね返って重苦しく反響した。
「メカニロイドにしては随分と態勢がとれているな」
アクセルだけか……。俺を道連れにできたはずだ。意図的に選んでいるようにも見える。だとしてもイレギュラーのように意志があってたまるか。
「さっき処分したはずなのに……次から次へと増えているなんて聞いてないよ」
決められた定位置につくように大勢のメカニロイドが取り囲む。仲間の仇でも討つかのような目に冷酷な光が宿る。口元を引き締め、「ここはボクが引き受けるよ」と《アクセルバレット》の柄を握り直す。
「ゼロ! 後は任せたよ!」
「ああ。任せろ」
重心を低く落とし、わずかに体を前へ傾ける。脚部の高出力エネルギーが突き上がり、内部構造に接合されている力覚センサーのアンロック音を立てた。足元から溜まった熱を逃がすように排気が短く吹き出す。
「エックス!」
空気を押し潰すような重苦しい風圧が頬をかすめた。
「させるか!」
擦れあう武器が甲高い悲鳴を上げ、ふたつの刃が交差した。火花が雨のように足元に降り注ぐ。荒波のような高出力が押し寄せ、足を踏ん張って耐える。
煩わしい雑音が消え、一瞬の隙を見逃さずにセンサーを研ぎ澄ます。正確に息を整え、腰を低く落とす。わずかに軌道を逸らし、素速く刃を滑り込ませる。
「詰めが甘いな」
武器を弾き飛ばし、後方へ押し退ける。くの字に大きくのけぞり、足元がふらつく。反動で床に手をつき、視線が定まらないまま近辺を見渡す。
「しつこい野郎だ」
一陣の突風のような風が吹き、くすぐるように頬を撫でた。
「キサマの好きにはさせない!」
刃を深く潜り込ませ、胴体を切り裂く。上半身が石のように呆気なく転がり落ちる。膝から崩れ落ち、ばたんと虚しい音を立てた。切断部分が露わになり、鮮やかな配線が乱れている。
「もう大丈夫だろう」
普段通りに背に《ゼットセイバー》を納刀する。風に纏った煙を手の甲で振り払い、アーマーパーツに飛び散った破片をつまむ。
「動く気配さえないからな」
残骸となったメカニロイドに目をやる。この状態になるとまともに動くことはできない。待っていればじきに爆発するだろう。
「怪我はないか?」
おかしい。普段ならあんな遅い攻撃は誰でも避けられるはずだ。居ても立っても居られずに難解な計算を進める。解析結果によると分析が破綻し、《Failed to…》とエラーコードが受信された。あいにく、そんなに頭のいい方じゃないのが仇になったか。
「…大丈夫だ。ありがとう」
目つきに安堵の色が浮かび、大きく息をつく。俯き加減に視線を逸らす。《エックスバスター》の接続部分をなぞり、「オレとしたことが……すまない」と指が食い込むほど握りしめた。
「やっと終わったー!」
活気のあるはつらつとした声。天に向かって拳を突き上げ、明るい笑みを頬に浮かべた。残骸の山に戸惑いもなく片足を乗せ、「一人で相手するの大変だったよ」と遊ぶように《アクセルバレット》をくるくる回す。
「油断はするな。またいつ出てきてもおかしくない」
視覚センサーを起動して周囲を概観する。緑色のデジタルグリッドが瞬時に展開され、センサーが忙しく円を描く。細長い長方形の赤色の枠に《No signal》が表示された。
「わかってるよ。もうすぐ頂上につくから少しくらい休んでもいいと思うけど?」
頭の後ろで手を組み、口をへの字に曲げる。片方の口を動かすように軽く笑い、「ま、いいけどね」と床にどかっと腰を下ろし、大胆にあぐらをかく。
「今だから話すんだけどさ。エックス、さっきからどうしたの? ボクたちと合流したときからずっと上の空だけど……」
珍しく切なそうな声。不思議そうに首を傾げ、瞬きを繰り返す。首を手のひらでこすり、「無理には聞かないけどさ」と目を逸らす。
「一体、何があったの?」
えらく神妙な顔つき。不意にさっと立ち上がり、両手で頬を軽く叩く。ぐんと引っ張るように踵を上げ、小刻みに歩いている。
「答えられる範囲でいいよ。問い詰めることはしたくないからね」
目に憂色を浮かべ、顔が曇る。顎を引き、「心配なんだよ…」と向き合うようにエックスの目をじっと見つめた。
「たいしたことじゃないんだ。ただ────」
すぐに答えは出せないのか言葉を濁す。細い糸筋のような月光が顔を照らし、輪郭がぼんやりと浮かぶ。薄い影が宇宙を突き抜けるほど縦に伸びる。ゆっくりと目を伏せ、瞳が揺らぐ。
「夢主と色々あって……迷惑をかけてすまなかった」
顔を背け、感情を抑えるように腕を手で押しつける。目頭を指で押さえ、「さっきの件はオレの失態だ。次はないようにする」と排気口の底から吐き出すように息つく。
「ふーん」
顎に手をやり、思考に浸るように指先を唇に触れる。いきなり目に電灯がぱっとついたような光が灯った。人差し指で唇をとんとんと叩き、「もしかして…!」とぶつぶつと念仏を唱えるように呟く。
……正直、嫌な予感しかしない。俺の勘がそう言っている。
「もしかして夢主と喧嘩した?」
間の抜けた沈黙がじんわりと広がっていった。
「………本気で言ってるのか?」
エックスの目が見開き、小さく開いた口が塞がっていない。アクセルは間髪入れずに「それって失礼じゃない? ボクは本気だよ!」と頬を風船のように膨らませる。頬が強張り、「してないが」と乾いた笑みを貼りつけた。
「じゃ何? 夢主に嫌いって言われて落ちこんでるの? それとも今更になって夢主のことがめっちゃ心配で集中できないとか」
呆れたように肩をすくめ、首を軽く捻る。片方の口の端を吊り上げ、「しつこい男は嫌われちゃうよ」とくすくすと笑う。
「アクセル。限度ってものがあるだろう……どれも違う」
額を手で覆い、疲れを吐き出すように長く息をついた。
空に左手をかざし、薬指に穴が空きそうなほど見据えたまま動かない。苦悩に覆い被さった目を細め、「夢主は覚えているだろうか」と低く抑えて囁く。
「へへ、やっとエックスらしくなったね」
分かりやすい嬉しさが頬にこぼれ、無邪気にころころと笑う。ふんぞり返るように胸を張り、「ボクのお陰だね」と腰に手を当てる。
「そうは見えないけどな」
小さく呟いた声が思考回路に焼き付く。どうやらアクセルには聞こえていないようだ。俺だけが聴覚センサーに入ったことになる。
「……そうだな」
上体をわずかに引き、くるりと背を向けた。込み上げてくる感情に耐えるように拳を力強く握りしめ、人工関節が苦しそうにぎしぎしと軋む。「夢主と約束したんだ」と憂いを帯びた瞳が弱々しく揺れた。
「帰らないといけないんだ。必ず………」
「エックス? やっぱり何かあったんじゃ────」
けたたましい警告音が《WARNING》と抑揚の少ないシステム音が思考回路の細部にまで鳴り響く。
『緊急事態よ、みんな! 大型のイレギュラー反応が近いわ…! 今までにないかなり強力な反応よ……警戒を怠らないで!』
「「「了解」」」
無機質な電子音が聴覚センサーの底に響いてぷつんと途切れた。
「久しぶりのご登場だね。またイレギュラー退治ができるなんて腕が鳴るねー」
得意げに口角を上げ、にやりと笑みを深める。目を閉じ、肩に手を添えて大きく回す。決意を固めた声で「よし、準備完了」と《アクセルバレット》を軽快に回転させる。
「どんなヤツでも叩き斬るまでだ」
俺は短く息をし、《ゼットセイバー》を引き抜く。淡い橙色が視覚システムに焼きつき、三日月のような弧を描く。
「必ず────この戦いを終わらせる!」
頭部の芯に突き刺さるような力強い声。切り替えるように長く息を吐き出し、口をきゅっと結ぶ。
《エックスバスター》にそっと手を置き、「すぐに終わらせるんだ」と自分に言い聞かせるように呟く。まるで、結ばれた約束を果たすように
「いつでも行けるぜ」
地軸もろとも斬り裂くような破裂音がどよめいた。
◇
柔らかい間接照明が差し込む深夜の休憩室。
「疲れた……」
ふっと息を吐いてふかふかのソファに腰を下ろす。硬そうな革が苦しそうにきゅっと鳴く。しっとりと吸い付くような肌触り。長年の時が刻まれているせいか、大きくひび割れている。
「傷ついてる……近いうちに取り替えないと」
鈍い銅色の光を放つチタン合金製のテーブル。表面には、誰かが作業中に付けていたであろう細かな擦り傷が残っている。
「本当に戻ってくるのかな」
牛乳をたっぷり注いだ紅茶のまろやかな味が口いっぱいに広がる。冷えきった薄茶色の水面に映った私の顔は、目元と頬が薄紅色に腫れ上がっていた。
「私はエックスのことを、」
信じたい。あれから彼が任務に出動してから数日も経つ。もしかしたらとっくに帰投してメンテナンスを受けているのかもしれない。
「もう終わっていてもいい頃合いのはずなのに」
窓の景色を見つめる。地平線の向こうからは、軌道エレベーター《ヤコブ》が天を貫くほど伸びている。前に彼らがやっとの思いで制圧したはずなのに、威圧感を放って神々しく聳え立っていた。
「まだかな……」
今頃、彼は何をしているのかな。きっとメカニロイドの残党調査に向かっているはず。ただ帰投しているのを信じるしかない。彼の安全を願う日々だった。
それに────
複雑なロックが解けるカチッと噛み合った短い排気音が部屋に鳴り響く。
「ただいま」
ドアが重力を無視するような滑らかさで上へ開く。彼のアーマーは研ぎ澄まされた刃物のように磨き上がられていた。戦場の泥や焦げ付いた火薬の匂いが嫌になるほど付くはずなのに、跡形もなく消え去っている。
────何事もなかったように。
「………おかえり」
「夢主! 遅くなってすまない……想定外の任務に時間がかかってしまっていたんだ」
気が付けば、頬に彼の冷たい手のひらが添えられていた。親指の腹で私の目元をなぞる。壊れ物を扱うような頼りない手つき。睫毛が指先に触れ、くすぐったさに目を伏せる。
「私は大丈夫だよ。謝らなくていいからね」
目尻をなぞる指を止めたくて彼の腕に手を添える。押し返すのでもなく触れるだけ。私の手が重なると、動きがぴたりと止まった。
「夢主………」
声に水を張ったような寂しい声。ふと見上げた視線の先。瞳が泣き出しそうにぐらぐらと揺れている。
「エックス。長かった任務で疲れたでしょ? 少しぐらい休まないと」
天井の隅に取り付けられている電磁掲示板。ありきたりな生中継のニュース。ひとりのアナウンサーが街を映し、レポーターの様子が無音で流れていた。
「だが────」
なぜか心に拭いきれない不安が押し寄せた。案じる眼差しから逃げるように、添えていた手の力を抜いて離れる。彼は目を丸くして口元がわずかに動いていたが、気にせずにほんの少しだけ力を入れて背中を押す。
「座ってね」
「あ、ああ………」
促されるまま、向かいのソファへ腰を下ろした。使い込まれた革が重みに耐えるようにぎゅっと低く鳴る。
「……君を独りにしてすまなかった」
顎が胸部につくほど俯き、「こればっかりは仕方ないことなんだ…」と低く抑えた声で呟く。閉じ合わせた睫毛がわずかに震えていた。
「わかってるよ。もう気にしなくて大丈夫だからね」
目線を合わせるように膝をつき、彼の両手を包装紙のように包んで握る。冷えきった鉄のような冷たい感触が脳に伝達していく。彼の瞬きが一瞬止まり、息を呑む。
「……夢主」
私は「大丈夫」と何度も言葉を紡ぐ。彼は眉間に皺を寄せ、「君は本当に…」と視線をじっと逸らす。目が悲しそうにしぼみ、頬に熱がふんわりと帯びる。
「夢主にはいつも助けられてばかりだな。ありがとう」
はっきりとした低い声。やんわりと目尻を下げ、儚い微笑みを唇の縁に浮かべる。ほっとしたように太い息をつく。
「少し待っててね」
ふと瞼に記憶が蘇り、静かに手を離す。彼は快くこくりと頷き、「わかった」と軽い微笑を唇にこぼした。
「ちょっとだけ時間かかるけどいっか」
私は片隅にぼつんと置かれたカウンターに向かい、棚からカップをふたつ取り出す。甘いシロップを煮詰めたような茶葉の香りが広がる。ポットがぷしゅーと湧き、沸騰したお湯を耐熱硝子製のティーポットに注ぐ。
「もうそろそろいいかな」
精製されたレプリロイド専用の高品質な潤滑油を淹れる。独特な金属の匂いが混じってラズベリーの甘くてさっぱりとした香りが漂う。持ち手に指先を引っ掛け、滑るようにカップをテーブルに置く。
「手伝うことはなさそうだね」
肩の力を抜き、背もたれに身を預ける。柔らかい微笑みを浮かべ、「夢主は疲れたらいつでも休んでいいからな」と私の目を見つめた。私は視線に応えるためにソファに腰かける。
「これは?」
彼は軽く首を傾げ、ぽかんと口が半開きになる。焦点を合わせるように瞬きを繰り返す。
「エックスのために用意していたの。口に合うかわからないけど……」
「わざわざオレのためにか....? ありがとう。有り難くもらうよ」
カップの縁に艶やかな唇が触れ、大切そうに飲む。ゆっくりと離し、規則正しい無音の息をつく。潤んだ唇を拭うこともせずに熱の余韻を確かめるように目を伏せた。
「美味しい?」
「夢主と一緒にいるからかな」と彼は幸せそうに微笑み、首を縦に振る。
「そっか…」
視界の隅に空が真っ暗になるほど烏の大群が通り抜ける光景が映った。
「………夢主。あの時のことを覚えているか」
改まった声で「オレはずっと考えていたんだ」とすっと目を伏せる。彼が目線を外した先を辿る。私の左手を瞬きひとつせずに穴が空くほどじっと見つめている。まるで、隅から隅までスキャンしているように。
「エックス……?」
彼はカップをくるっと回してからまったく音を立てずに飲み干す。
「君との結婚はできないかもしれない。だが、守り抜くことだけは約束できると誓う」
強大な力でも動かせられないような堅固な決心が目に宿り、左胸部に手のひらを強く押し当てた。顔を深く引き締め、「この身をかけて」と指の跡がつくほど右手首をぎゅっと握りしめる。
「夢主」
彼が座っているソファの傍に置かれた大きな
「ひとつだけ確認したいことがあるんだ。少しいいか……」
話を遮るような口調で話題を変えた。感情を押し殺している生真面目な顔つき。あまりにも落ち着いた視線に痛みのない違和感を覚える。不思議と時が止まったような感覚に陥り、疑問の花が咲き乱れた。
「いいけど…どうしたの? 確認って────」
氷のように冷えたティーカップに左手を添えた瞬間だった。
「………嘘じゃないと、信じてくれないか」
ぬるま湯になったミルクティーがことんと傾き、薄い橙色がじわじわと染み渡っていく。
「良かった……」
大きな両手で私の左手をそっと包み込み、薬指に残る微かな歯型の指の腹で縁取る。失くした大切な宝物を取り戻すようにゆったりと動く。
「まだ、残っていたんだね」
ひんやりとした唇が乾いた黒い痕にそっと触れた。古びた傷を新しい跡に修復しようと癒すように。金属と人工皮膚の冷たさが肌とどろどろと溶け合う。指先に痺れるような熱が全身の神経に広がっていく。
「上書きさせて欲しい。君のすべてを」
幽かな月影が彼の顔に降り注ぎ、目元が浮かび上がった。ぬいぐるみを愛でるように目を細め、整備されたばかりの緑色の瞳の奥でセンサーがちかちかと明滅する。熱を帯びた人差し指が私の口元に優しく添え、メモリーに保存するように下唇のふくらみをなぞった。
「この手で」
あの時の嘘を真実にした甘くて蕩けそうな誓約の始まり鐘が告げた。
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