オートフィクション

26 8月7日

2019/09/04 04:52
飛行機の席で隣になった外国人の携帯の待受に、微笑む子どもの顔がチラリと見えた。

8月7日。生まれ育った地域では旧暦の七夕の日。小さい頃は、近所の公民館と空き地に、皆で作った飾りをつけた竹が立った。頭の中にある部分部分の想い出を思い出しながら、飛行機の中でこれを打ってる。

あれから、10年、15年以上の時間が経ち、私は結婚して関東に住んでいる。その長い時間の中で、父が死に、母を想い、恐れ、妹を心から大切な存在だと認識して、夫と結婚し、愛し合い、妊娠して、流産した。一日の中で何度も喜怒哀楽を感じる日々を振り返ると、長かったなと思う。

今、26歳。あと54年後には80歳になる。54年という時間は、母一人分の人生の年数だ。母を始め、歳の順でいけば、これから見送るであろう人達の顔を思い浮かべると、私は今からもっともっと完成されていくんだろうと思う。悲しみも、苦しみも、死も、自分の一部になっていくのが何となく分かる。

大切な人の死を経験して昇華することで、私は自分の死をこれからもゆっくりと受け入れていく。死を感じるたび、生を感じる。死を知るたび、その人を想い、それを次の世代に語り継いで、その人の本当の死を遅らせる、まだ死が訪れない人とのこれからの時間を考える。26年間で最も大きな悲しみと幸福は、父と子どものこと。父は死んでから私の中に愛となって生まれて、子どもは悲しみとなって全身を巡っている。どちらも穏やかに私の中に存在していて、私はそれを宝物に思う。涙は出る。だけど、恐怖はない。無闇やたらに悲しいからでは無く、強いて言うなら胸一杯の幸せに思わず涙を流すような、そんな涙が出てくる。

深く愛されている感覚。悲しみがずっと体の中にある感覚。揺るがない私だけの確かなものは、26歳の私の中に確かに存在している。

隣に座った外国人は、子どもの動画を見ている。彼はそれを見ながら微笑んでいる。私にも、自分の子どもの動画を見て微笑む未来があった。でもそれは消えてしまった。私は自分の中にある悲しみにふと気づくけれど、それはすぐにじんわりとした熱となって胸の中で溶けていく。

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