恋人は名乗った後で / 短編
「ちょ、いい加減離して下さい!まだ業務中です!!」
あぁ、最悪だ。
なんなんだ、本当に。
人目のつかない廊下で息を切らす。
「…本当にアナタはどういうおつもりなんですか?」
怒りのあまり、若干頭に血が上りそうになって拳が震える。
「ごめんごめん。この前宿泊券を拾ってくれたお礼、ちゃんとしてなかったからさ?」
やっと手を離してくれたかと思ったら、手の中にはいつのまにか可愛い包紙が持たされていた。
「…なんですか?これ」
「あの日、君一人だったろ?後で乙女たちに聞いたけど俺が誘ったせいで君が居残りだったんだってね。悪いことしちゃったね」
包紙からは微かに食欲をそそられる甘い香りが漂ってくる。
…焼き菓子?
「お兄さん手作りの愛情たっぷりカップケーキ。今度お兄さんともデートしてね?それじゃ、サリュ!」
その場で中身を確認してみると可愛らしいメッセージカードに『この間はメルシー♪』なんて文字が綴られていた。
そのメッセージカードを見つめながら考える。
私が嫌悪するほど、そこまで悪い人じゃないのかもしれない。
微かに心にじんわりと花が舞う。
…っていやいや、きっとこれも彼が女子を口説く策略に決まっている。
危うく、騙されるところだった。
この手にまんまと乗ってしまってはいけない。
アーサーさん──憧れの方との二人きりの時間はかけがえのないものだった。
お茶菓子と一緒に紅茶を楽しんで、他愛のない会話をして。
まるで夢のような時間で、あまりの夢心地で現実味がないような感覚さえ覚えた。
「二件目に行こう」
そう誘われた時にはまるで有頂天で、もちろん誘いにも応じた。
二件目は少し洒落たバー。
初めは穏やかに乾杯したかと思えば、やけにお酒のペースが早いアーサーさんを心配した頃には時既に遅し。
どうやらお酒が強くなかったようで机に突っ伏してベロベロに潰れてしまっている。
「アーサーさん?立てますか?」
声が届いているのか届いてないのか、アーサーさんはブツブツと何かを呟きながらヨダレを垂らしてぐっすりだ。
「ど…、どうしよう…」
私がオロオロしていると、カラン、とドアの開く音が聴こえてきて、その瞬間室内に薔薇の香りが漂った。
「ったく、やっぱりここか」
…え?なんでこの人がここに?
どこからともなく現れたその人は、よっこらせ、と、潰れたアーサーさんの肩を抱いていた。
「まあ、こいつとは腐れ縁だからさ、今日はどうせ浮かれてるんだろうなと思って。そんな予感がしたわけよ」
アーサーさんを持ち上げてる方の手とは別の手で、店主に手短にお札を出す姿に状況が掴めないままでいると「さ、行こう」と彼に手を引かれた。
「ベーカー通りの△△番地までお願いします」
タクシーにアーサーさんを乗せた後、夜道を薔薇の香りに包まれながらゆるやかに歩く。
「そういえば、名前、聞いてなかったよね?」
「言わないとダメですか?」
「あはは、お兄さん君に相当嫌われてるみたいだね。ちょっと落ち込むな〜」
「アナタには、色んな女性が周りにいるじゃないですか」
きっと私のことも、そういう対象でしか見てないんだろう。
だからわざわざ名乗ることも無い。
バーを出る前に引かれた手はまだそのまま繋いだままで。
振り解いてもいいんだけど、もうここまで来ると変に抵抗してる方が馬鹿馬鹿しくなってくる。
「まあ、それはお兄さんが格好良くて美しいから、かな?」
パチン!と目元から星屑がこぼれる。
そんな自信満々にウィンクされても…。
「だから尚更に、名乗りたく無いんですよ。随分軽い人だなって」
それに、薄々感じている。
この人に酔ってしまったら、もう後戻りができなくなる事を。
私はこの人に対して散々嫌悪感を感じているわけだが、
嫌い、って思っている時点でその人に興味がある、という事なのだ。
だから尚の事、引き摺り込まれては最後。
そんな風に心のどこかで感じていたのだと思う。
きっと無関心だったらどうも思わないはずだから。
「じゃあさ、お兄さんの恋人になったら名前教えて?」
「いやいや!絶対になりませんから!!」
しん、とした静けさの中に私の声が響いて慌てて片手で口元を覆った。
まだ車通りが多いとはいえもう夜はすっかり深くなってなかなかにいい時間なはず。
そんな私に隣の彼は微笑んでいて、優しく握られている手の力がさらに強くなった気がした。
あぁ、最悪だ。
なんなんだ、本当に。
人目のつかない廊下で息を切らす。
「…本当にアナタはどういうおつもりなんですか?」
怒りのあまり、若干頭に血が上りそうになって拳が震える。
「ごめんごめん。この前宿泊券を拾ってくれたお礼、ちゃんとしてなかったからさ?」
やっと手を離してくれたかと思ったら、手の中にはいつのまにか可愛い包紙が持たされていた。
「…なんですか?これ」
「あの日、君一人だったろ?後で乙女たちに聞いたけど俺が誘ったせいで君が居残りだったんだってね。悪いことしちゃったね」
包紙からは微かに食欲をそそられる甘い香りが漂ってくる。
…焼き菓子?
「お兄さん手作りの愛情たっぷりカップケーキ。今度お兄さんともデートしてね?それじゃ、サリュ!」
その場で中身を確認してみると可愛らしいメッセージカードに『この間はメルシー♪』なんて文字が綴られていた。
そのメッセージカードを見つめながら考える。
私が嫌悪するほど、そこまで悪い人じゃないのかもしれない。
微かに心にじんわりと花が舞う。
…っていやいや、きっとこれも彼が女子を口説く策略に決まっている。
危うく、騙されるところだった。
この手にまんまと乗ってしまってはいけない。
アーサーさん──憧れの方との二人きりの時間はかけがえのないものだった。
お茶菓子と一緒に紅茶を楽しんで、他愛のない会話をして。
まるで夢のような時間で、あまりの夢心地で現実味がないような感覚さえ覚えた。
「二件目に行こう」
そう誘われた時にはまるで有頂天で、もちろん誘いにも応じた。
二件目は少し洒落たバー。
初めは穏やかに乾杯したかと思えば、やけにお酒のペースが早いアーサーさんを心配した頃には時既に遅し。
どうやらお酒が強くなかったようで机に突っ伏してベロベロに潰れてしまっている。
「アーサーさん?立てますか?」
声が届いているのか届いてないのか、アーサーさんはブツブツと何かを呟きながらヨダレを垂らしてぐっすりだ。
「ど…、どうしよう…」
私がオロオロしていると、カラン、とドアの開く音が聴こえてきて、その瞬間室内に薔薇の香りが漂った。
「ったく、やっぱりここか」
…え?なんでこの人がここに?
どこからともなく現れたその人は、よっこらせ、と、潰れたアーサーさんの肩を抱いていた。
「まあ、こいつとは腐れ縁だからさ、今日はどうせ浮かれてるんだろうなと思って。そんな予感がしたわけよ」
アーサーさんを持ち上げてる方の手とは別の手で、店主に手短にお札を出す姿に状況が掴めないままでいると「さ、行こう」と彼に手を引かれた。
「ベーカー通りの△△番地までお願いします」
タクシーにアーサーさんを乗せた後、夜道を薔薇の香りに包まれながらゆるやかに歩く。
「そういえば、名前、聞いてなかったよね?」
「言わないとダメですか?」
「あはは、お兄さん君に相当嫌われてるみたいだね。ちょっと落ち込むな〜」
「アナタには、色んな女性が周りにいるじゃないですか」
きっと私のことも、そういう対象でしか見てないんだろう。
だからわざわざ名乗ることも無い。
バーを出る前に引かれた手はまだそのまま繋いだままで。
振り解いてもいいんだけど、もうここまで来ると変に抵抗してる方が馬鹿馬鹿しくなってくる。
「まあ、それはお兄さんが格好良くて美しいから、かな?」
パチン!と目元から星屑がこぼれる。
そんな自信満々にウィンクされても…。
「だから尚更に、名乗りたく無いんですよ。随分軽い人だなって」
それに、薄々感じている。
この人に酔ってしまったら、もう後戻りができなくなる事を。
私はこの人に対して散々嫌悪感を感じているわけだが、
嫌い、って思っている時点でその人に興味がある、という事なのだ。
だから尚の事、引き摺り込まれては最後。
そんな風に心のどこかで感じていたのだと思う。
きっと無関心だったらどうも思わないはずだから。
「じゃあさ、お兄さんの恋人になったら名前教えて?」
「いやいや!絶対になりませんから!!」
しん、とした静けさの中に私の声が響いて慌てて片手で口元を覆った。
まだ車通りが多いとはいえもう夜はすっかり深くなってなかなかにいい時間なはず。
そんな私に隣の彼は微笑んでいて、優しく握られている手の力がさらに強くなった気がした。