サマー・ブルー
──そろそろかな。
腕につけた銀色の時計が正確に時刻を指し示しているのを確認して、ヒースクリフはノートをめくっていた手を止めた。立ち上がった拍子に、カタン、と引いた椅子が音を立てる。いつものヒースクリフなら、静かな図書館で物音を立ててしまったことを気にして、周りを見回してしまうだろう。しかし、まだ誰もいない早朝の図書室では、ヒースクリフが自分の立てる物音を気にする必要もなかった。
立ち上がって、窓のそばに寄る。
もうすぐ、時間だった。
ヒースクリフは、私立の中高一貫校に通っている。いわゆるお坊ちゃん校というもので、通っているのはほとんどが一定以上の社会的地位を持つ人物の子息たちだった。
そういった金銭的に余裕のある子息たちは車での送迎が基本だからという理由からか、駅から離れた郊外の小高い丘の上に立地しているこの学校はさながら庶民の暮らす家々を見下ろすような形になっている。(そんなものだから、地元の人々や近くの一般校に通う生徒たちからは、やっかみも含めて「城」なんて呼ばれていたりもする)そのため、生徒達は毎朝その校舎を囲む坂道を登って通学する。たいていは車通学のため、ヒースクリフが知る限りはそのことについて不満を聞いたことはない。徒歩で通学する生徒も何人かいるので、もしかしたらその生徒達にとっては不満なのかも知れないが。しかしそれも、正門へと続く道に限る話だ。
この学校には、正門と裏門が存在する。正門は、この学校に通う生徒達が使う新しい道だ。こちらは少し遠回りにはなるが、車通学の生徒のためか整備されており、坂道の斜度も緩やかになっている。徒歩通学の生徒が使うのも専らこちらの道だ。
そしてもう一つ、裏門に続く坂だ。こちらは正門ルートとは真逆で、近道になる代わりに勾配がきつく、また道幅も狭いため車が通りづらいこともあり、この学校の生徒であってもほとんど誰も使わない。誰も好き好んで急勾配の坂など上りたがらないだろう。
坂道は頂上がちょうどこの学校の裏門をかすめるようにして、そのまま市街へと下っていく。ただこの学校に立ち寄るためだけに作られたような道は、地元の人々であっても利用者はいなかった。
誰も使う人間がいない裏門は人気がなく、ひっそりとしている。その静寂さが良かったのか、ヒースクリフの学校の図書室はこの裏門に面した校舎の二階に設けられていた。
図書室の窓からは、裏門が、そして裏門に続く坂道がよく見える。
じっと、人影を探すように坂道の先を見つめる。すると、小柄な黒い影が、たったった、とリズムよく身体を揺らしながら現れた。
「きた……」
ぽつりと呟く。
裏門の坂道なんて、誰も使わない。それがこの学校に通う生徒たちの共通認識だった。
しかし、ヒースクリフは、例外を知っている。
それは、黒い髪の小柄な少年だった。ジャージ姿で、スクールバッグをリュックのように背負っている。誰も使わない急な坂を、跳ねるようなリズムで駆け上っていく。彼の頬を伝う汗が朝日にきらめいていた。
歩いて上るのだって苦しい坂道を走って上る彼は、汗を流してはいるものの、苦しそうな顔はしていない。ただひたすらにまっすぐ前を睨みつけて、一定の速度で走っていた。そして、裏門に辿り着く。そのまま足を止めることなく、裏門を通り過ぎて、下り始めた坂道を駆け抜けていった。
走り去っていく彼の背中が見えなくなると、ヒースクリフはふぅ、と息をついて、窓辺から離れた。再び図書館の自習用の机に戻り、教科書を開く。
彼を初めて見たのは、まだ桜が咲いている頃だった。図書委員会に属しているヒースクリフは、朝に図書室の鍵を開けなければならない。図書室の鍵を早めに開ければ、その分誰もいない静かな時間を過ごせる。自分に向けられる人の視線に疲弊していたヒースクリフは、人の目を避けて自分だけの時間を確保するために、自分が当番の日はいつもより早く登校するようにしていた。
その日も、そうして早く登校した日だった。誰もいない図書室の鍵を開け、鞄を机に置く。すると、窓の外を、ひらひらと薄紅色の花びらが舞っているのが目に入った。裏門のそばに、ひっそりと桜の木が植えられていた。
正門にはずらりと桜が植えられ、そちらも満開の時期を迎えていた。立派な桜が並ぶ光景は壮観で、登校してくる生徒たちを華やかに出迎えている。それに比べて、人気のない裏門にひっそりと植えられた一本の桜の木は、ずいぶんと寂しげに見えた。
しん、と静かな、風の音すら聞こえないような静かな空間を、桜が舞っている。寂しげだけれど、ヒースクリフは正門に立ち並ぶ満開の桜の木よりも、静かにひっそりと咲くこの桜の方が美しいと思った。
思わずぼんやりと、舞い散る桜を眺めていた。そしてその桜吹雪の向こうに、誰も使わない坂道を走る小柄な人影を見つけたのだ。
ジャージはこの学校の指定のものではない。近くにある、別の一般校の生徒だろうか。白い半袖シャツに、青に白のラインが入った長袖のジャージを上下に着ている。しかし、走りやすいようにかズボンの裾を捲り上げているらしく、裾からは健康的な足首が覗いていた。通学用だろうスクールバッグの持ち手をリュックのように背負っている。ヒースクリフの学校の生徒には考えられない着こなしだった。
桜が舞い散る中、少年はフォームを崩すことなく、まっすぐに坂を駆け上っていた。その力強い姿に、目を奪われる。
それからというもの、裏門の坂を駆け抜けていく少年を図書室の窓から見送ることが、ヒースクリフの日課になった。
少年は毎朝早くに、裏門の坂を通り抜けていく。この道をランニングコースにしているらしかった。こんな坂道をわざわざランニングコースにしなくても、と思うが、何かのトレーニングなのかもしれない。ジャージからのぞく腕や脚には綺麗に筋肉がついているようで、もしかしたら何かの運動をする選手なのかもしれなかった。
(どこの学校に通っているんだろう。同い年?運動部なのかな。何部だろう。なんでこの坂を走っているんだろう)
少年と言葉を交わしたことはない。名前も知らない。少年も、ヒースクリフのことを知らないだろう。
ただ、二階の図書室の窓から眺めているだけ。
なぜ、この少年がこんなにも気になるのかはわからない。
少年は毎日裏門の前を通り過ぎる。ヒースクリフも、毎日走り抜けていく少年の姿を見送っていた。
桜はすっかり散って、代わりに青々とした葉が茂り出していた。もうすぐ夏がやってくる。ヒースクリフも制服が夏仕様の薄手のものに変わっていた。少年は変わらない。せいぜいジャージの上着を脱いだくらいだった。制服を着ていたら、どこの学校の生徒かわかるのにな。と思う。どこの学校の生徒かわかったところで、何も変わりはしないのだけれど。見つめる者と、通り過ぎていく者。両者の視線は交わらない。
その日も、少年は坂の下から現れた。いつもと同じペースで、坂を駆け上がっていく。春から毎日この坂を上っているのだ。足腰は随分と鍛えられているのではないだろうか。
いつものように図書室の窓際に立って、裏門を見下ろす。少年がいつものように、ヒースクリフの視線に気づくことなく通りすぎていくのを見守る。
しかしその日は、いつもと違った。
いつものように坂を上り切った少年は、そのまま坂を下っていかなかった。ヒースクリフの学校の裏門近くで、足を止めたのだ。それは、ヒースクリフが少年を見つけて以来、初めてのことだった。
「──……あれ、どうしたんだろう」
いつもと違う様子の少年に、ヒースクリフは思わず呟いた。もっとよく見えないかと、身を乗り出す。
少年は立ち止まって、何やら足首を確認していた。走っている途中で、捻ったのかもしれない。あれだけ急な坂だ。きっと足首にも負担がかかっているのだろう。下手な走り方をしたら、怪我のもとだ。
(だ、大丈夫かな…。どうしたんだろう、捻ったのかな。捻挫?ひどいのかな。もしかして、歩けなくなってたり……)
いつも颯爽と走り抜けていく少年が立ち止まった姿に、なぜだか不安になる。ひどい怪我をしていたとして、こんな人気のない道でどうするのだろう。誰か、助けを呼べる人はいるのだろうか。それとも、怪我をしたまま、またこの急な坂道を下っていくのだろうか。足首を痛めたなら、下りの坂道なんて絶対によくない。
(ど、どうしよう……)
思わず手を伸ばす。伸ばした指が、コツン、と窓ガラスにぶつかった。
見ているだけのヒースクリフとあの少年は、友達ではない。知り合いですらない。ただ、見ているだけの相手だ。何かできるわけでもない。それでも、心配だった。
──もし、もし少年がひどい怪我をしていて、このまま動けないのなら、窓を開けて声をかけてみようか。
知らない人間に自分から声をかけるだなんて、人見知りのヒースクリフはほとんどしたことがない。それでも、あの少年が困っているのなら、思い切って声をかけてみようか。
そんな風に考えていると、ふと、少年が顔を上げた。
ばちり、と視線が合う。
いつもまっすぐに前を見つめる少年の紅玉のような瞳が、ヒースクリフを捉えた。
突然のことに、息を飲む。
(どど、どうしよう⁉︎見てたことに気づかれた…⁉︎)
こんなにはっきりと視線が合ってしまったのだ。ヒースクリフが見ていることに、少年も気づいただろう。
目が合ったのなら、なにかリアクションをしなければならない。相手は怪我をしているかもしれないのだ。窓を開けて、大丈夫ですか、と一言かけるだけでいい。そう思うのに、できない。
予想外の出来事に、軽くパニックになる。
どうしよう、どうしたらいい。周りから優秀だと褒めそやされるヒースクリフの頭脳は、今は全く役に立たなかった。
ヒースクリフがあわあわと慌てているのを、少年は窓の下からじっと見つめていた。
いつもは向けられることのない視線が、こちらに向けられている。少年を真正面から見たのは、これが初めてだった。程よく日に焼けた健康的な肌を、汗が伝っている。意思の強そうな瞳は赤く、くりっとしていて、どこか幼なげにも見えた。その瞳が、ヒースクリフを見上げている。まっすぐこちらを見上げる少年の表情からは、何も読み取ることができなかった。無表情なタイプなのかもしれない、と思ったところで、少年の口端が、にっと持ち上がる。不敵な笑みを向けられて、ヒースクリフは息を飲んだ。
「……!」
少年が笑っている。窓辺に立つヒースクリフを見上げて、まるで「大丈夫だ」と言わんばかりに、ぐっと親指を立ててみせた。
初めて見る少年の表情に、心臓が大きく鼓動する。
ふい、と少年が顔を背けた。足の調子を確かめるように何度かその場で足踏みをして、もう一度ヒースクリフを見上げる。再び視線が合うと、軽く片手を上げて、何事もなかったように再び走り出した。そのフォームはいつもと寸分変わりない。
いつもと同じように、ヒースクリフは遠ざかっていくその姿を見送った。窓ガラスに手を付いて、いつまでもその背中を見つめる。
(──目が、合った)
少年がこちらに笑いかけた表情が、頭から離れない。
どくんどくん、と心臓の音が身体に響く。
何かが始まったような、そんな気がした。
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