かえりみち
「はい、これ福引券ね」
「え?」
今夜の夕食の鍋に使う材料を買って支払いをしていると、にこにこと笑うレジのおばさんに何かの紙切れを渡された。
「商店街福引券?」
「そう。二千円以上お買い上げで一枚あげてるのよ。今のお会計で二千円超えたから、一枚ね。あっちの福引会場で引けるから、帰る前に引いて行ってちょうだい」
「へぇ、福引ね……」
レジのおばさんに礼を言って、夏生はぺらりとした福引券を財布にしまった。レジを抜けて、食材の入った籠を持って先に行っている篁を追いかける。
「ねぇ、センセー、福引だって」
「うん?」
持参したエコバッグに白菜を詰めていた篁は、夏生が指差した方向を見やって、あぁ、と頷いた。たった今買い出しを終えたばかりの八百屋の壁に、「冬の大売出し! 2000円以上のお買上げで福引券1枚! 一等は豪華温泉旅行ペアチケット!」とポップな字体で書かれたカラフルなポスターが貼られていた。
篁の隣に並んで、一緒に荷物をエコバッグに詰める。
「少し前からやってるな」
「へぇ。一等賞なに?」
「一等は豪華温泉旅館ペアチケット。二等が米20キロだとさ。あとはまぁ、いろいろ」
「温泉旅行?」
ふと、顔を上げてポスターを見つめる。カラフルなポスターには、間違いなく、「一等賞:豪華温泉旅行ペアチケット」の文字が書かれていた。
「なんだ、温泉行きたいのか?」
「いや、この前晴んとこが兄弟で温泉行ったって聞いたなと思って」
「へぇ、仲良いな、やっぱり」
「まぁ、あいつらは仲良いどころの騒ぎじゃないけどな」
特に長男と末っ子。そう言うと、篁は気まずそうに眉根を寄せた。視線を逸らしながら、豆腐のパックをエコバッグに入れる。
「……そこは俺はノータッチで行きたいんだよ。晴くんは良識ある大人だから大丈夫だとは思うが……」
「晴に良識? そんなもんあったらこんなことになってないでしょ」
はん、と鼻で笑ってやる。あいつはまともそうに見えて、末っ子に関しては頭のねじが数十本は飛んでいる。温泉旅行でだって、末っ子相手にいやらしいことのひとつやふたつ……。
「それで、なんだ。みんなで旅行に行ったって?」
「うん、そう」
篁が無理矢理話題を元に戻した。意地でも海棠家の長男と末っ子の話は聞きたくないらしい。
「これって、一等を引いたらタダで温泉旅行に行けるってこと?」
「まぁ、そうだな。当たったらだが」
「ふーん……」
もう一度商店街福引大会のポスターを見やる。ポスターの端っこに、商店街のマスコットキャラクターであるジョージくんのイラストが描かれていた。
「ねぇ、俺引いてみたい」
「あ? 福引?」
「うん、当たるかもしれないじゃん。当たったら、温泉旅行だよ」
それに、幼い頃に海外に出てしまった夏生には「福引」というものが懐かしくも、一種珍しくもあった。知識としてはあるものの、福引というものをやったことがあったかどうか、記憶にない。
夏生の子供心がくすぐられる。篁はそんな夏生を見ながら、何か腑に落ちないような表情で顎を触っていた。
「お前が福引……?」
「なに、だめなの」
「だめじゃないけど。ホストが福引って、なんかなぁ」
「ホストだって福引くらいするよ。センセー、ホストのことなんだと思ってんの? それに、今日俺オフだから」
篁は「ホスト」という職業を何か勘違いしている節がある。自分がそういった世界に縁がなかったからだろう。確かに、仕事着のスーツの夏生が福引を回していたら、かなり目立つかもしれないが。
夏生がじとっとした目で篁を見ると、篁はそっと目を逸らした。
「あー、わかった。じゃあ、帰りに会場に寄っていこう」
「やった」
荷物の詰まったエコバッグを肩にかけた篁と並んで、八百屋を出る。
「買い忘れないか?」
「うーん」
篁の問いに夏生は少し考え込んで、篁の家の冷蔵庫の中身と、先ほど買い込んだ食材を照らし合わせる。
「うん、ない」
「よし」
すっかり篁の家の冷蔵庫の中身を把握していることに、少しだけくすぐったい気持ちになる。
最近はもうずっと、篁の古びたアパートに入り浸っていた。篁のアパートはお世辞にも広いとも綺麗とも言い難いが、不思議な安心感があった。何より、あの家に帰れば篁がいる。
「センセー、荷物重くない? 俺持とっか?」
「これくらい大丈夫だ。夏生にはいつも料理作ってもらってるからな…。荷物持ちは俺がやるよ」
半歩前を歩く篁が、少しだけ振り向いて笑う。眼鏡の向こうの目尻にうっすらと皺が寄った。
篁のその、笑った時の目尻の皺が好きだった。
「……センセー、俺絶対一等引くからさ、そしたら休み取って温泉行こうね」
「お前が残念賞のポケットティッシュ貰うところもちょっと見たいが」
「何それ。俺ってすごく運がいいんだよね。絶対引けるって」
そう、自分の運の良さには自信がある。
ガランガラン、と派手な半被を着た男がハンドベルを振り回す音がまだ耳の奥に残っている気がした。はぁ、と大きくため息をつくと、苦笑した篁が隣から手を伸ばしてくる。慰めるように、くしゃりと髪を撫でられた。
「まぁ、福引なんてこんなもんだ。何かもらえただけいいだろう」
6等・洗剤セットを持ち上げて、夏生は再びため息をつく。
「洗剤って。この前予備を買っちゃったんだよ。こんなことなら買わなきゃ良かったなぁ。運が悪かった」
「そりゃ仕方ないだろう。とにかく、うちは当分洗剤を買わずに済むんだから、良かったじゃないか」
「そうだけどさぁ。あーあ、当たると思ったんだけどなぁ」
洗剤が入った袋はずしりと重い。持とうか、という篁の手を断って、夏生は右手に持っていた袋を左手に持ち変えた。商店街から篁のアパートまでは、そう距離はない。
夏生が勇んで回した福引の結果は、6等というなんとも微妙な賞だった。生活用品なので、助かると言えば助かるのだが。
もう一度、当たると思ったのにな、と呟く。
拗ねたように唇を尖らせる夏生を見て、篁は軽く笑った。
「そんなに自分の運に自信があったのか?」
「うん、まぁね。運が良くなくちゃこんなことないでしょ」
「へぇ。何がそんなに運が良かったんだ?」
「センセーと再会できたこと」
さらりと口に出すと、篁の動きが止まった。
冷たい風が、ひゅう、と夏生の前髪を揺らす。吐いた息が、白くけぶって空に溶けていく。
「子供の頃にちょっと会っただけでさ。その後10年以上会うことも、思い出すこともなかったのに、再会できるのってすごくない?」
幼い頃の記憶。今でこそはっきりと思い出せるが、海棠の家で篁と顔を合わせるまでは、記憶の深くに沈みこんでいた。
子供の頃に会っただけの憧れの相手に、大人になってから再会できるなんてどれくらいの確率だろう。
「普通ないよね。だから俺、めちゃくちゃ運がいいのかなと思ってたんだけど。…あ、違うか。もしかしたらそれで運を使い果たしちゃったのかも。再会できただけじゃないもんね」
笑って、足を止めてしまった篁を振り返る。
篁は虚を突かれたように息を詰めていた。しばらくして、固まっていた身体からふっと力が抜ける。
「センセー?」
俯く篁に声をかける。少しして、篁は顔を上げた。
困ったように、笑う。愛おしげに夏生を見る優しい瞳に、どきりと心臓が跳ねた。
「──…なら、俺ももう使い果たしたかもしれんな」
夏生も笑う。
「そうだよ。センセー、めちゃくちゃ運がいいんだからね」
幼い頃に出会って、再会して、新しい関係を築いた。これはもしかしたら、奇跡というものだったのかもしれない。
「あーあ。俺たち、もう福引で温泉旅行なんて一生当たらないかも」
「別にいいだろう。温泉旅行くらい、福引で当てなくても俺が連れて行ってやる」
「えっ、ホント? 連れてってくれるの?」
「あぁ。行きたいんだろう? 帰ったら休みを確認しよう」
「やった! じゃ、早く帰ろう」
ふたり並んで、歩き出す。
こっそり、荷物を持っていない方の手を触れると、篁はふっと口元を緩めた。夏生よりも少しだけ大きい荒れた手が、夏生の右手を握り込む。それだけで、夏生の胸はあたたかくなる。
「センセー、帰ったら鍋作るのも手伝ってね」
「わかった。何をしたらいい?」
「うーん、とりあえず隣にいて」
「それは手伝いなのか…?」
ぎゅっ、と強く篁の手を握りしめる。
「うん、すっごい重要」
fin
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