君に花を
窓の外から明るい笑い声が聞こえて、ヒースクリフは足を止めた。
廊下の窓から中庭を見下ろすと、冬の柔らかな日差しの中、リケとミチルが並んで楽しそうに笑っている。その様子に、ヒースクリフの方も小さく微笑みを浮かべた。
いばらの城での戦いから、数日が過ぎた。恐ろしい魔獣との死闘を終え、体も魔力も疲弊しきった魔法使いたちも、ようやく回復の兆しを見せ始めている。魔法舎は、ようやく日常を取り戻しつつあった。
リケとミチルが笑っている姿に平穏が戻ってきたことを実感して、ヒースクリフはほっと息をついた。比較的軽傷だったとはいえ、あの二人は戦いの中で相当ショックを受けていた。それがまた笑えるようになって、本当に良かったと思う。
ただ、まだ完璧に日常に戻れたとは言い難い。
窓の外から視線を戻して、ヒースクリフは手に持った包帯を見下ろす。あの戦いで重傷を負ったシノは、まだ安静を命じられたままだった。
「ーーーシノ、起きてる?」
「ヒースか、起きてるぞ」
シノの部屋の扉をノックすると、中から聞き慣れた幼なじみの声がしたことにほっとする。扉を開けて部屋に入ると、シノはベッドの中で体を起こしていた。
「どう、調子は」
「もう全然元気だ。むしろこのまま寝てると体が鈍る。そろそろ部屋から出してくれってファウストに言っておいてくれ」
拗ねたように唇を尖らせるシノに苦笑しながら、ヒースクリフはシノの机の上に替えの包帯を置いた。
シノの顔色が戻りつつあることにほっとする。あの戦いの直後は、血を流しすぎたことと魔力切れを起こしかけていたせいでひどい顔色をしていた。フィガロの治療を受けてからも、疲弊した体力を回復するために丸一日眠っていた。シノは普段は賑やかなくせに、眠る時だけは息を潜めるかのように静かになる。まさしく死んだように眠っていて、ヒースクリフは何度もシノの呼吸を確かめずにはいられなかった。
体力も魔力も回復し、魔獣との戦いで負った怪我も、フィガロの治癒魔法のおかげで大分治りが早くなっている。明日には、きっとシノも外に出られるようになるだろう。
(ーー良かった、本当に、シノが無事で……)
まだ、真っ白な正装を真っ赤に染めたシノの姿を夢に見る。シノが視界の中にいないと不安で胸がいっぱいになってしまって、ヒースクリフはここ数日、日中のほとんどをシノの部屋で過ごしていた。
「ーーーあれ、これどうしたの?綺麗な花…」
毎日のように訪れている部屋に見慣れないものを見つけて、ヒースクリフは首を傾げた。
机の上に、綺麗にアレンジメントされた花籠が置いてある。昨日まではなかったものだ。
ヒースクリフの視線に気づいて、シノがあぁ、と得意げに鼻を鳴らす。
「さっき、賢者が持ってきた。お見舞いだそうだ」
「賢者様が?」
「あぁ。お見舞いと、ミノタウロスを倒したことの報酬」
籠いっぱいに溢れる花は、青や白を基調にした小ぶりだが清楚な品のあるものだった。それを嬉しそうに眺めて、シノは笑う。心底嬉しそうなシノの顔を見て、ヒースクリフの口元も綻んだ。少しでも花が長持ちするように魔法をかけようとしたところで、シノが口を開いた。
「お前にやる」
「……え?」
思わずシノを振り返る。ベッドの上で枕にもたれるように体を起こしたシノは、嬉しそうに笑っていた。
「ヒースにやる」
「…え、だって、これはシノが貰ったものだろ」
「オレはお前に持っていて欲しい。オレへの報酬なら、それは主君であるヒースへの報酬でもあるだろ。それに、ヒースは花が似合うから」
花に伸ばしていた手をぎゅっと握りしめる。
シノは、いつもこうだ。綺麗なものや美しいもの、シノのものを何でもヒースクリフに与えようとする。ヒースクリフだけを綺麗なもので彩ろうとする。
それが、ヒースクリフには苦しい。
「ーーーそれは、シノへの報酬だよ。お前のものだ」
そう言うと、シノは不満そうに眉を寄せる。
「オレのものなら、オレがヒースにあげてもいいだろう。報酬を貰ったのなんて初めてだ。オレはオレが手に入れたものならなんでもヒースにあげたい」
喉の奥が詰まったように苦しくて、ヒースクリフは黙り込んだ。ーーどうしてシノは、こんなにも。
「《レプセヴァイヴルプ・スノス》」
呪文を唱えると、花籠に収められていた花たちがふわりと浮き上がる。くるくるとシノの頭上を回ると、一つの花冠になった。シノの黒髪の上にそっと落ちたそれを、シノは目を丸くして見上げた。その表情がまるで幼い子供のようで、ヒースクリフは唇を噛みしめる。
「……シノのものだよ。シノのものを、俺に渡そうとしなくていいんだ」
「………」
シノの指先が、そっと花冠に触れる。昔、小さかった頃にシノに初めて花冠を作ってあげた時も、シノはこんな顔をしていた。
子供のようだったシノの顔が、じわじわと喜びに紅潮していく。
「……ありがとう、ヒース」
噛みしめるように呟いたシノの言葉に、胸が熱くなった。
シノはヒースクリフになんでも与えたがるけれど、それはヒースクリフも同じだ。「自分のもの」を持つことを否定するようなシノに、なんでもあげたかった。シノの心に根付いたものをなくしてあげたい。子供の頃のシノを抱きしめてあげたかった。
「ネロも、シノに何か食べたいものを作ってくれるって言ってたよ。何が食べたい?」
「レモンパイ」
「だと思った。明日、シノの快気祝いに作ってもらえるように頼んでおくよ」
「あぁ」
花冠を乗せたまま、シノが笑う。その光景を目に焼き付けるようにして、ヒースクリフも微笑んだ。
願わくは、シノが傷つくことがもうないように。
いつまでもこうして、二人で笑っていられるように。
ヒースクリフがかけた祝福の魔法が、シノを守ってくれますように。
魔法は心で使うもの。強い想いは、きっと強い力になる。
シノの幸せと変わらない日常を切に願って、ヒースクリフは瞳を閉じた。
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