ヒスシノ短文
ドアを開けると、ヒースクリフがいた。オレと目があって、ヒースクリフがほっとしたような顔をする。その両手にはほわほわと湯気をあげるマグカップが握られていた。
「……どうしたんだ、ヒース」
時計を見ればもう日付が変わるかというころで、普段のヒースクリフならとっくにベッドに入っている時間だ。後で外に出て少し体を動かそうかと思っていたオレとは対照的に、ヒースクリフはもう寝るだけだと言わんばかりに完全な部屋着に着替えている。
困惑していると、ヒースクリフは小さく笑ってオレにマグカップの一つを渡した。受け取ると、少し冷えた指先にじわりと温かさが染み込んでいく。中身は温めたミルクらしく、ほのかな甘い香りが漂う。首を傾げるオレに、ヒースクリフが小さく笑った。
「ホットミルク。シノが寝るのが遅いって、ファウスト先生とネロが心配して作ってくれたんだよ」
もう片方のマグカップを持って、入っていい?と言うヒースクリフに頷いて、ドアの前から体をずらしてヒースクリフを招き入れる。部屋に入ったヒースクリフの視線が机の上に積み上げられた本に向かっているのに気づいて、オレは顔を顰めた。
「さっきファウストが持ってきた宿題だ。今日はやけに多い」
「最近寒くなってきたのに、シノが夜中まで一人で外で訓練してるからだよ。風邪ひくって心配してたよ」
オレが夜遅いのはいつものことだ。夜の方が魔力が高まるせいか、なかなか眠気がやってこない。ミスラのように不眠なわけではなく、ただ単純に眠くならないのだ。賢者に言わせれば、「シノは夜型なんですね」ということらしい。ただ、ヒースクリフのように朝に弱いわけでもないから朝は朝で早く起きて運動をしているせいで、ファウストやネロは「睡眠時間どうなってんだ」と眉を顰める。
「別に、支障はないから大丈夫なんだけどな」
「成長期の夜更かしは、身長に重大な影響を与えるってファウスト先生が言ってたよ」
「…………」
オレの部屋に椅子はひとつしかない。並んでベッドに腰を下ろして、二人で黙ってホットミルクを飲む。優しい甘みが口の中に広がって、ため息がでた。ミルクの甘みの中に見知った甘い味がして、オレは乳白色の水面をじっと見つめる。
「……これ、ヒースのシュガーが入ってるか?」
「え?よくわかったね」
同じようにマグカップを傾けていたヒースクリフが驚いたように青い瞳を丸くする。もう一口飲んでみて、オレは頷いた。
「ヒースのシュガーの味がする」
「……シュガーには疲労回復効果があるし、安眠にも効くかなと思って。まさか、わかるとは思わなかった」
「わかるさ。オレが一番多くヒースのシュガーを食べてるからな」
シュガー作りは魔法使いの基本だ。師匠について魔法の練習をするようになってから、シュガー作りは何度も練習した。失敗したシュガーも、成功したシュガーも、お互いに交換して食べた。この世界でオレよりも多くヒースクリフのシュガーを食べたやつは他にいないだろう。
ふと顔をあげると、隣に座るヒースクリフの頬がほんのりと赤くなっていた。
「どうした?」
「いや……。うん、俺もきっと、シノのシュガーならわかると思う」
「何だと。昔作ったやつは確かに変な味だったが、今やったらもっとうまいのができる」
「そういうことじゃないって!」
慌てるヒースクリフにふん、と鼻を鳴らす。繊細な魔力操作を必要とするシュガー作りは苦手だ。何度作っても、形がうまくいかない。味だって、ヒースクリフのものと比べたら全然違う。それでも、昔よりはだいぶうまく作れるようになっているはずだ。胸の奥から悔しさがにじみ出てきて、明日はシュガー作りもファウストに見てもらおう、と決めた。
二人して黙り込んでしまって、再び部屋は静寂に包まれる。ホットミルクで体が温まったせいか、ふわぁ、と小さくあくびが出た。それを見たヒースクリフが小さく微笑む。
「……体、温まった?眠れそう?」
「ああ、いつもよりは」
久しく感じていなかった、緩やかな微睡みがそっとのしかかってくる。あくびを噛み殺していると、ヒースクリフが「横になったら」とベッドの毛布をめくりあげた。素直にベッドに横たわると、ヒースクリフが優しく体に毛布をかけてくれる。
「……部屋に戻らないのか?」
「シノが寝たら戻るよ」
「なら、一緒に寝るか」
そんなことを口走ってしまったのは、ほのかなミルクの甘みが子供だった頃を思い出させたせいだろうか。ヒースクリフが青い目を見開く。いやならいい、と言おうとしたところで、ヒースクリフが毛布の端っこを持ち上げた。そのまま体を潜り込ませてきて、同じベッドの中で顔を見合わせる。
「……子供の頃みたいだね」
「……そうだな」
小さい頃、大いなる厄災が来る夜は、こうして二人で手をつないでベッドに潜り込んだ。大人に怒られることなく、そうやって眠れるのは、その夜だけだったから。
でも今ここでは、同じベッドで眠ることを咎める大人はいない。顔を見合わせて、声を潜めて笑い合う。
お互いの呼吸がかかるほど近い距離で、宝石のように青い瞳を見つめる。同じようにヒースクリフもオレの目を見ているのだと思うと、何だか面白かった。
「眠れそう?」
「ああ」
狭いベッドの中で、ヒースクリフの体温が伝わってくる。目を閉じてヒースクリフの温もりに身を寄せると、ヒースが微笑むのがわかった。
「ーーーおやすみ、いい夢を」
優しいヒースクリフの声とともに、ふと額に何か柔らかいものが触れた。何だろう、と考える思考は形になる前にとろとろと溶けていく。
ーーーただ、今日は幸せな夢が見られるだろう。
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