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天使と悪魔と契約した男


全ての始まりは、綾子が気紛れな明美の代わりに出た大学の定期公演だった。
――予は魅せられた。
その美しい歌声に。
――ああ、これこそ予が探し求めていた存在。
元々、義輝と明美は親同士が小さい頃に決めた婚約だ。
成人してからも、お互い自由に異性と関係を持てることを認めた上での婚約で、単に戸籍上の関係の婚姻になるのだろうと義輝は明美でない女性を数多抱きながら漠然と考えていた。
幸い、容姿と地位には申し分ない産まれ故、寄ってくる女性には困らなかった。
――全ては予の、思うまま。
……そう思っていた。
「……ごめんなさい。そんないきなりお誘いいただいても、どうしようもないので……」
数日後、大学で直接交際を申し込んだのを綾子に断られるまでは。
それ以降、義輝は綾子になんとしても振り向いてほしくて、全ての女性との関係を断ち切り、綾子のみを口説くことに徹した。
明美は元々綾子が嫌いだということを秘書の京極マリアから聞いていたが、義輝は綾子の愛を勝ち取ろうと必死だった。
まさに、「恋は盲目」な状態だったのである。
そして遂に、義輝は一方的に明美との婚約を解消すると京極マリアを通じて明美に通達し、義輝の真摯さに惹かれて交際を了承した綾子と改めて婚約した。
当初は義輝の親や弟は反対していたが、義輝の説得と、綾子の容姿や性格、更には歌声を受けて、快く結婚を許可したのだった。
足利財閥が開いた綾子を義輝の正式な婚約者としてのお披露目のパーティーにて歌わせると、参加者全てが綾子の歌声に魅せられた。
そして、そのパーティーに招待していた指揮者が「ぜひ彼女を私の『アイーダ』でプリマドンナとしてデビューさせてくれ」と足利財閥に願い出てきた。
――またとない機会だな、綾子。
義輝は、まさに幸せの絶頂にあった。
しかし、その幸せは突然終わりを告げる。
「――綾子!!」
綾子は練習していた劇場からの帰りに階段で足を踏み外し、両手首を骨折し……更には流産したのである。
まだ妊娠して一ヶ月半程しか経っていなかったため、義輝も綾子自身も妊娠に気付かなかったのである。
「…………」
意識を取り戻した綾子は、義輝の姿を見ると、「義輝さん」と言葉を紡いだのだが、声が出てこなかった。
「綾子……?」
二人が医者に告げられたのは、「ショックで声を一時的に失っている」という事実だった。
綾子は、唇だけで「皆さんにどうお詫びをしたら」や「これでは義輝さんに愛されている意味がない」と動揺した言葉を紡いでいた。
「大丈夫だ綾子、予は生涯其之方の傍から離れたりせぬ」
義輝は、綾子を優しく抱き締める。
「たまには休息も必要であろう、しばらく予のために忙しい日々を過ごしてくれたのだ……。公演もまだ正式な日は決まっておらぬし、父上や主催者も『待つ』と言ってくれている。焦ることはない、ゆっくり声を取り戻せばよいのだ」
綾子は、涙を流しながら義輝の腕の中にいた。
しかし、その数日後――。
その日は、穏やかな春の日だった。
義輝は綾子に渡す花束を、綾子を通じて得た友人の一人である花屋をしている前田慶次に作ってもらい、病院の入り口で面会の手続きをしていた時だった。
外で、何人かのただならぬ叫び声が聞こえた。
「……?」
義輝は書きかけていた筆を止め、ふと叫び声がした方を見る。
 そこには、綾子が倒れていた。
「綾子!!!!」
義輝は、なりふり構わず綾子の元に駆け寄る。
「これで、許、して、あけみさ……産まれてきて……ごめんな……さい……」
この世の誰よりも美しい声で、この上ない哀しい言葉を紡いでから、綾子は息絶えた。
「そんな……目を覚ませ、綾子!!綾子!!綾子――――!!」
義輝は上等なスーツが血で真っ赤に染まるのも厭わず、綾子を抱き締めて慟哭した。
――ああ、予が綾子を愛してしまったが故に!
義輝は綾子の小さい体を掻き抱く。
「綾子……どうして……どうして予を置いていったのだ……」
その答えは、もう返ってくるはずもなくて。


綾子の葬儀は、親族でひっそりと行われた。
まだ正式に入籍していなかったため、義輝や義輝の他の一族は参列者でしかあれず、義輝は更に悲しみが募る。
――明美が綾子を唆したのか。
綾子の安らかに眠る顔を見ながら、義輝の心は複雑な思いを抱いていた。
――ならば許す余地はない。
綾子を、そしてまた自分たちの子を奪った存在は、いかなるものも許さない。
どんな罪に問われようとも。
義輝の心に、復讐の炎が宿る。
だが、ふと冷静になる。
――もし綾子の墓前にその者らの首を供えたとて、綾子は喜ぶまい。
綾子はそんな人間だった。
復讐など、望む女性ではない。
それは一切の美化ではない、事実である。
義輝は、綾子が、綾子の肉体が灰に返ってしまったなど考えたくもなく、火葬される直前に葬儀場を後にした。
そして、そのまま逃げるようにあらかじめ話があったアメリカへの長期出張へ赴いた。
日本にいたら、綾子を思い出してしまう。
部屋にいたら、綾子を思い出してしまう。
何をするにしても、綾子を思い出してしまう。
――ああ、どうして、綾子は予の傍におらんのだ。
思い出したくなくて、「現実」を知りたくなくて、ひたすら異国で仕事に没頭した。
――眠ることすら、もう辛い。
そんなある日、義輝はものすごい肺の激痛に襲われた。
そして、気付いたら病院にいた。
「義輝!あなた何をしていたの!!」
「……マリ、ア?」
日本にいるはずの秘書、京極マリアが目覚めたら傍にいた。
「……と、いうことは予はまだ死んでおらぬということだな」
「義輝……」
「マリア、綾子がいなくなってから何年たった」
義輝は自分の手を見る。
――ふむ、少し痩せたか……?
「――あと十ヶ月で五年よ」
「……まだ五年か」
「義輝、あなた……自分の体の状態、分かってるの?」
「……思っていたよりも、この体は丈夫でな」
「――義輝、目を覚ましなさい!!」
 マリアは、義輝の頬を張った。
「……すまぬ、マリア」
「どうして末期になるまで肺がんを放っておくの!」
「肺がん……?」
 義輝は突然のマリアからの宣告に少し驚く。
「体の異常に気付かなかったの……?」
「……そうだな、それすら気付かぬほど、予は打ちひしがれていると言ったところか」
 マリアは、改めて義輝の中の「綾子」の存在が大きいことを知る。
「義輝、この先どうするの?お医者様が『このレベルまで進んだら、後は本人がいかに残された人生を楽しむかを考えた方がいい』って言ってたわ……」
「……そうか」
義輝は、すんなりとそれを受け入れたようだった。
「……一晩、考えさせてはくれまいか。何、選択肢はそこまで……多くあるまい」
「分かったわ、明日また来るわね」
マリアは、そっと笑ってから病室を出て行った。
義輝は一人になってから、ため息を一つついた。
「なぜ予を迎えに来ぬ、綾子」
――まだすることがあるということか?
仕事を取り上げられて急に手持無沙汰になったので、義輝は久しぶりにパソコンで日本のニュースを見た。
すると、一か月後に日比野明美と藤堂潤太郎が組んで「アイーダ」を日本で公演することを知る。
「……!!」
それを見て、静めていたはずの復讐の炎が燃え上がった。
――なぜ綾子を憎んでいたこの者が……のうのうと息を吸い、社会的な地位を得ておるのだ。
――許せない、許せない……許せない!!
義輝は、その瞬間に残された命を綾子のための復讐に費やすことに決めた。
――入念な計画を練って、どうしたら明美を最も報われない形で殺してやれるかを考えねば。綾子以上に報われない死に方を!
この復讐の炎は、地獄の炎。
我が身を燃やし尽くすに、ちょうどいい。
義輝は、翌朝来たマリアにだけその「計画」を話した。
マリアは、
「それが義輝のやりたいことなら、私は何も言わないわ」
と、止めも咎めもしなかった。
「――ありがとう、マリア。ほんの少しだけ、協力してくれまいか」
「……程度に、よるわよ」
「何、ほんの少しだけだ」
数日後、義輝とマリアは日本に向かって帰国の途に就いた……。


帰国後、義輝は明美と連絡を取った。
「――随分久しぶりね、義輝」
「其之方が『アイーダ』を演じるとマリアから聞いてな、食事でも奢ってやろうかと」
「あら、今日本に帰ってきてるの?」
明美は、受話器越しでも分かる程驚いていた。
「――ああ、弟の義昭から一時的に帰ってくるように言われた」
それは真っ赤な嘘だったが、明美に対してつく嘘に罪悪感などなかった。
「そうなのね、じゃあ明日にしない?久しぶりだもの、早く会いたいわ」
「了解した。まぁ、そう急くな。予は其之方がアイーダを演じきるまではこちらにいる」
――そう、其之方を殺しきるまで、な。
電話を切って後、義輝は友人の慶次に会いに行く。
「義輝!!」
「慶次、五年ぶりか」
「……うん、綾子の葬儀の時、以来だね」
「そうだな……」
義輝は、店先に並んでいる花々に目をやった。
「今日はどうしたんだい?」
「……ん?ああ……短い帰国の間に、色々な人と会っておこうと思ってな。マリア、明美、藤堂……」
義輝は、コートのポケットから手を出して指折り数えた。
「……あれ?義輝って、冬でも手袋してなかったよね?いや、今はもう春になりかけてるけどさ……」
「……アメリカに行ってから、するようになる程寒がりになってしまってな」
……本当は病気で以前より痩せた指を隠すために手袋をしているのだということを、義輝は大切な友人の慶次に言うつもりはなかった。
「……そうなのかい。ところで、義輝……今まで、言おうか言わないか……迷ってたんだけどさ」
慶次は、珍しく口ごもっていた。
「……どうした」
「俺、多分……見ちゃったんだよね。……綾子を、階段から、突き落とした人」
「……突き落とし、た?」
義輝は、慶次の言葉を聞いて目を見開いた。
「いや、俺は直接現場を見てた訳じゃないんだけど……。俺、その時綾子が落ちた階段の現場近くにいたのは……義輝に言ったよね?」
「――ああ、其之方が救急を呼んでくれたおかげで、綾子は大事に至らずに済んだのだ」
「落ちた綾子を見つける前、劇場の階段の方から来た、ものすごい勢いで走ってる人にぶつかったんだよね。……そいつ、俺にぶつかっても謝りもしなかったし、さすがに落ちた綾子を見たら声かけるでしょ。もしかしたら……って。いや、あくまでも俺の推測なんだけどね!」
「……そいつは、どんな格好だった?」
義輝は、怒りを抑えるべく必死に拳を握り締めていた。
「最近テレビとか見てたら、あれ……藤堂さんだったんじゃないかな……って」
「――藤堂だと?」
「うーん、藤堂さん……普段割と派手なある有名ブランドの腕時計してるじゃん?ぶつかった人、それと同じの付けてた」
「……そう、か」
「あくまでも推察だからね?真に受けないでくれよ。……綾子は、生き返らないんだからさ」
「……そうだな。綾子は、きっと喜ばぬだろう」
――だがそれでも、予はなして見せる。
義輝は、慶次に微笑みかけた。
「――ありがとう、慶次」
「構わないよ、友人なんだからさ」
「――ああ」
義輝は、慶次と別れてから新たに藤堂をどう殺すか考えていた……。


翌日、義輝は明美と共に食事をした。
「――本当に突然ね、義輝」
「いや、前々から決まっていたのだが、伝えそびれていてな」
――砂を食べているみたいだ。
嫌いな相手との食事は、こうも不味いものかと義輝は思う。
――違う、これは鎮痛剤の副作用だ。
アメリカで処方された強力な鎮痛剤の副作用が、味覚がおかしくなることだったのを、義輝は思い出した。
「どうしたの?前よりあまり食べていないようだけど?」
「……はっはっは、時差ぼけが激しくてな。まだそこまでこちらの生活に慣れ切っておらぬ故」
「五年は長いものよねぇ、私ももう三十路すぎちゃったもの」
「……変わっておらぬよ」
義輝は、そっと目を伏せた。
――予の時間は、ずっとあの時のままだ。
「ねぇ、義輝。今日はこの後何か予定あるの?」
「……予定?」
義輝は、薄々明美の意図を気付きながらも知らないふりをして首を傾げた。
「久しぶりに、恋人らしいこと、しましょう?」
明美は、義輝に向けて艶然と微笑んだ。
――やはりな、だが、この方が計画は進みやすい。
「――いいだろう」
義輝は、明美に導かれるまま明美が取っていたらしいこのホテルの部屋に入った。
「――ねぇ、義輝……」
――この娼婦が。
義輝は蔑みを心に抱きながら、明美の体を抱きにかかった。
義輝は、決して快楽を享受せず、明美にただそれを下賜するだけ。
明美を気絶させるまで抱き尽くした後、義輝はシャワールームで激しく嘔吐し、また吐血していた。
「まだだ……まだ死ねぬ……」
その切ない声は、止めどないシャワーの水音に流されていった。
「アイーダ」の公演のその日まで、義輝は明美の傍にできる限り居続けた。
そうすることで、明美の敵ではないのだと明美やその周囲の警戒心を薄れさせることになる。
――いや、彼女は一度肉体関係を持てば大体許すのだったか。
義輝は、ボックス席で直前のリハーサル風景を見ながらぼんやりと考えていた。
――ああ、あの舞台に立っているのが綾子だったら、どんなに予は幸せだったろう。
最早叶わぬ夢と知りながら、なおも夢を見続ける。
「――義輝、もうすぐ公演が始まるわ」
着替えを持ってきたマリアに呼ばれて、義輝はようやく我に返る。
「……そうか、すまぬ。では着替えるとしよう」
舞台の方を一瞥してから、義輝は公演の際のドレスコードを整えに行った……。


公演は、素晴らしいものだった。
だが、綾子ならばもっと美しいアイーダを演じることができただろう。
本当の「愛」を知っているのだから。
綾子はひたすら義輝を愛してくれた。
愛の証である子どもまで宿してくれた。
ああ、どうして美しき「愛」程成就しないのだろう。
カーテンコールが終わった後、義輝はすぐに明美の楽屋に行った。
それが当然のようだと思われていたし、まして大騒ぎの舞台裏で、誰も義輝のことを気にしていなかった。
「――義輝!!」
「公演お疲れさま」
「どうだった?私の方が、綾子より上手かったでしょ?」
明美の口から綾子の名前が出て、義輝の復讐の炎は身を焼き尽くしそうになるまで燃え上がる。
「綾子も私と張り合わなかったら、長生きしたと思うのにねぇ」
「…………」
「そう思わない、義輝?」
――ああ、どうしてこの女が!
次の瞬間、義輝は明美の首を絞めていた。
自分でも信じられない程凄まじい力で締め上げていて、明美は抵抗する力すら無いようだった。
「あ……あ……」
「そう思う訳なかろう……!綾子は予の全てだった……!予を愛してくれた!予を……」
明美には、もう聞こえていなかった。
義輝は、息を切らしながら明美の体を椅子に座らせる。
「予を、しっかりと見てくれた、唯一の人だったのだ……綾子は」
義輝は、そのまま変わった様子もなく劇場を出たのだった。


翌日、義輝は滋賀に行った藤堂潤太郎を追って滋賀に行き、ホテルのスタッフに「藤堂さんのファンから、と言って渡してもらえまいか」と頼んでから東京に帰った。
――正直、ここまで素直に飲むとは思わなんだ。
義輝は、パソコンで見たニュースの記事を見て苦笑する。
その時、非通知の電話が鳴った。
「――何者だ」
義輝は、受話器の先にいる人物を威圧するつもりで低い声で言った。
「た……館林です……あの、公演で、アムネリスを、やった……」
「――ああ、どうしたのだ」
「自首してください、義輝さん。……私、松永久秀っていう探偵さんに、あなたのこと、話してしまい、ました」
義輝は、ふむ、と頷いてから「松永久秀」を検索した。
「……そうか、話してしまったか」
目を伏せて、義輝はゆっくりと息を吐く。
「ごめんなさい、でも、これ以上過ちを犯しても……綾子さんは」
「――忠告痛み入る、ありがたく聞いておこう」
義輝は、そのまま電話を切った。
直後、凄まじい痛みが義輝の体を襲う。
「あ……あぁ……」
鎮痛剤を飲んでも、もう少ししか効かない。
「綾子……綾子……」
そして義輝は、松永久秀に電話をした……。
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