天使と悪魔と契約した男
一夜明けて……。
オペラ歌手日比野明美が何者かに殺された事件は、大々的に報道された。
警視庁は、世界的な有名人を殺害した犯人を必ず検挙するという意思を固く持っていた。
「犯人は恐らく自由に劇場の内部に出入りできる人物に限られる。彼らを徹底的に洗い出せ。もちろん出演者も抜かりなくせい!!」
捜査一課課長織田信長はいつもの威圧的な声で、部下たちを叱咤激励した。
「――はい!!」
久秀は、日比野明美のことを報じるテレビを何となく見ながら朝食の小倉トーストを食べていた。
小倉トーストの初見時はびっくりしたのだが、一度食べたら甘党の久秀はやみつきになってしまった。
「それにしても、なぜ日比野明美は殺されたんだ……?」
最後の一口を食べ終わると、久秀は考え込む。
「――久秀様、そろそろお出にならないと。今日は取材が入っています」
「……長逸」
遠慮せず久秀の思考を打ち切った秘書の三好長逸を、久秀は不機嫌そうに見る。
「今日の取材先は『ピアチェーレ』だそうな」
「……ウッ、行くしかないじゃないか」
「ピアチェーレ」は最近できたパンケーキの店である。
なかなか予約が取れず久秀が悶々としていた時、ある女性向け雑誌の記者がそこの予約を取ってくることを条件に取材を申し込んできたのである。
「私立探偵」という特殊な仕事故あまり顔を出したくなかった久秀だが、あっけなくパンケーキの前に屈した。
――これを逃したら、次はない。
久秀はすぐさま取材の申し出を受けたのだった。
久秀が支度した後、長逸が運転する車に乗り、久秀は取材先に向かう。
目的地に着くと、そこには若い女性が立っていた。
「松永……久秀さんですね」
「――ああ」
「――長逸、また迎えの時は連絡する」
「はい、分かりました」
長逸は一つ頷いてから車を出して去っていった。
「私、雑誌『SAPPHIRE』のライターの秋津京華と申します」
「『SAPPHIRE』……ああ、この間のスイーツ特集、楽しく読ませていただきました」
「……!!ありがとうございます!編集部総出であちこちまわった甲斐がありました」
「あれほどの数を月刊でこなしたのは感嘆しました、それでこの店を知って……是非一度来てみたかった」
「……では、早速入りましょう!」
秋津は店内に入る。
「ようこそ、秋津さん。この間はお世話になりました」
「こちらこそ、お世話になりました。それに、今回も取材先の許可を出してくださって……」
「構いませんよ、秋津さんの頼みとあらば」
店員は、秋津と久秀を個室に案内する。
「ご注文が決まったら、こちらのベルでお呼びくださいね」
「ありがとう」
秋津と久秀は、迷うことなくメニューに手を伸ばして注文を決める。
「……もしかして、松永さんって甘党ですか?」
「……君もじゃないのかね」
耐え切れずクスクスと笑い合い、注文をしてパンケーキが届く合間に、早速取材が始まった。
「松永さんは、どうしてこの職業を?」
「どうして……か。茶道師範の趣味の傍ら探偵業をやっていたら、こっちが本業になっていた感じだね」
「えっ……」
「茶室はいうなれば二畳半の密室だ。その密室の中で様々な話を聞いていると色々分かってね……。小説の分類でいうなら、私は安楽椅子型の探偵かな。シャーロック=ホームズみたいに現場の捜査には、よほどのことがない限り行かない。いや、行けないと言ったところか」
「な、なるほど……」
秋津は、熱心にメモを取っている。
「それと、私はどうも弟子曰く疑り深い性格らしくてね。……その証拠に、君は元々雑誌の取材に例の事件が起きた時の『アイーダ』でラダメスを演じていた藤堂潤太郎を呼ぼうとしていただろう?手帳の端に彼の連絡先が書いてあるメモがあるの、見えているよ」
「……う、うーん……さすがというところですね……。そう、元々は『アイーダ』に合わせて彼を取材したかったんですけど、断られちゃって」
「それは残念だったね……」
「え、いやまあ、よくあることですし……。優しく断って頂いたので……。日比野明美さんの方がずっとか怖かったですよ」
「……ほう?」
秋津は、録音していたレコーダーを切って久秀に小さな声で言った。
「あの人、業界で有名な高飛車の人なんです」
「…………」
「断り方も、『私がそんな三流の雑誌の取材を受けると思うの?』って……。噂によると、昔気分で公演をキャンセルさせようとしてもできなくて、こっそり代役にやらせたこともあったとか」
「ほう?」
「干されて当然かもしれないんですけど、彼女、日比野財閥のお嬢様だし……悪く書くと、こっちがやっていけないんです」
「……大変だな」
「生前の悪い噂を暴く記事なんて、誰も書けないですよ……。それこそ、ゴシップ記事ばかりの雑誌でもね」
「悪い噂……」
「他にも、財閥の副社長さんの息子さんと結婚してるけど愛人の男がたくさんいるとか……藤堂さんも、その噂がありますけどね。松永さんが調べたら、もっと出て来るかも」
「……ほほう、言ってくれるじゃないか」
「これは編集者の同僚に聞いた話なんで、内緒でお願いしますよ。さて、取材の続きなのですが、次は具体的に解決した事件とかありますか?いや、個人情報が特定されない程度のものがあればいいんですけど……」
「そうか……ふむ、少し待ちたまえ……今思い出す……」
久秀は、パンケーキを頬張りながら何を話そうか考えた……。