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SSのログ

「――シシィ」
外を見ているエリザベートに、ファーレンハイトは声をかけた。
彼女の手元には、アンスバッハとキルヒアイスの血で染まった銀の簪があった。
それは、彼女が実の父親のように尊敬と敬愛を向けていたメルカッツ提督から贈られたものだとファーレンハイトは知っていた。
その長い金の髪を軍務の時は様々な簪で彼女は纏めていたが、その銀の簪はここぞという時に彼女の髪を飾る大切な簪だった。
簪で彼女は数少ないお洒落をしていたのだろう、というのはファーレンハイトの勝手な推測だが……。
「――シシィ」
もう一度、ファーレンハイトはエリザベートに語りかける。
「……………………アード…………」
エリザベートは、ようやくファーレンハイトに気付いたようだった。
しかし、その目はいつもの光のあるような目と違ってなんとなく虚ろだった。
「シシィ、キルヒアイス上級大将は君のせいで死んだんじゃない」
ファーレンハイトは、かつての士官学校時代のように彼女の背を撫でた。
「……でも、あれは私だけが知っていた企みなのよ……。ローエングラム侯は案の定……ビッテンフェルトが『あなたは姉上様に似ておられるのではないか』って言いに来たもの……もちろん、お断りしたわ……」
ベッドの上に転がっている、これもメルカッツ提督から軍議に参加すらさせてもらえなかったエリザベートへと贈られた小型端末の画面には、何やらよく分からないプログラムが作動している様子を示していた。
エリザベートは、その画面へと目配せした。
「……そう……シュナイダー、お疲れ様」
プログラムがチカチカと光ってから、その画面は沈黙した。
「シュナイダー……?メルカッツ提督の副官が?」
「……ええ、逃げ遅れちゃったみたい。だから、このつまらない戦いから開放されたことからのお疲れ様……よ」
シュナイダーが逃げ遅れた……ということが意味するのを理解したファーレンハイトは、彼女がルカッツ提督に贈られた血に塗れた簪を離そうとしない理由を察した。
「シシィ、君の処遇は聞いているのか?」
「アンスバッハがあんなことをするから、そんな場合じゃないでしょ。まぁ……私はローエングラム侯がお許しくださるなら……その下に参じるつもりではあるけども……」
その先の言葉を紡ぐのが億劫だ、とでもいうようにエリザベートは再び口を閉ざして外を見た。
一部では「勝利の女神」とも言われている彼女の髪を下ろした姿は、士官学校時代からエリザベートと共にいたファーレンハイトからしてもそれは「勝利の女神」ではなく「美の女神」のそれだった。
「――シシィ」
「まだ何かあるの、アード」
「君はローエングラム侯の艦隊の中将だ」
「ふぅん…………って、えぇ?!」
突拍子もない昇進話に、エリザベートはめったに見せない表情を見せる。
それはまた貴族令嬢らしからぬ振る舞いと気付いたエリザベートは、ふいっとファーレンハイトと視線を反らせた。
「エイプリルフールはまだ先のはず…………」
「ローエングラム侯は、前線に戻られた。今は艦隊の司令官たちにオーディンの制圧を任せている」
「姉上様が説得なされたのね…………それはなんとなく予想はついていたことだけど」
エリザベートは、簪を自分の目線と合わせる。
「なら、私もあなたもまだ立ち止まる訳にはいかないでしょうね」
その目には、いつもの光が宿っていた。
ファーレンハイトは、それにホッとする。
それと共に、美しい彼女の弱い場面を支え、また知るのはファーレンハイトのみだという優越感が自らの心に湧いた。
「では、こうしてはいられないわ…………。ローエングラム侯にご挨拶をしなければ」
エリザベートは、その銀の簪で髪を結い上げようとしたが、それにはベットリと血が付いているのに気付いた。
仕方なく、それを机に置いてケースの蓋を開けて適当な簪を見繕う。
「アード、どれがいいと思う?」
あれでもない、これでもないと迷う彼女に、ファーレンハイトはスッと机にあった櫛を取って彼女の髪を梳き始めた。
「たまには、そのまま下ろしてお会いしても咎はないと思うぞ……」
「無礼だとは思われない?」
「女の軍人の先例は、君が作っているようなものだ……乱れた髪でなければ、いいだろう」
金糸のような髪を自分の心ゆくまで梳きあげたファーレンハイトは、その髪にそっと口付けた。
「…………アード?」
「ああ、すまない……少し絡まっていたところがあったから直していた。これでよし……と」
――この恋心を、彼女に言うのは畏れ多い。
軍人という身分を剥ぎ取ったエリザベートとファーレンハイトには、名門貴族と下級貴族という差があった。
エリザベートが身分の貴賤を気にする人ではないとファーレンハイトはよく知っているが、それによってエリザベートの評判を落としたくない。
かつて皇帝に寵姫へと乞われたほどの美人が、こうして自分を士官学校の先輩として慕ってくれるだけでも光栄だと思わなければならないのだ。
「行こうか、シシィ」
こうして、愛称で呼ぶことを許されるだけでも身に余る幸せなのだ。
「ええ、行きましょう。アード」
その唇で「アード」と紡がれるだけで、幸せなのだ。



――そう、まだ告げるのは早いのだ…………。

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