美し国から来たる司書
「……むむむ……」
「どうかされましたか、司書殿」
助手にしていた夏目漱石に声をかけられて、司書はハッと顔を上げる。
「夏目先生……」
「そろそろ休憩しましょう、今日はあなたの好物のフルーツタルトが食堂の日替わりケーキですよ」
漱石は慣れた様子で司書の手を持って食堂までエスコートする。
エスコートは漱石の他にも鴎外や永井などにもう何度もされているが、未だ司書は気恥ずかしくて慣れない。
「あの……夏目先生」
「はい」
「少しお聞きしても……?」
「構いませんよ」
司書は食堂に向かう途中に漱石に向けて質問をする。
「……二葉亭四迷先生が、この間私に向けて『死んでも可いわ』……とか仰ったんです……。もしかして、彼は転生したくなかったのかな……って」
「ふむ、長谷川君がそのようなことを……」
「私、あれから転生の理論とかもう一度見直したんです。転生した皆さんの容姿は……皆さんの生前の姿のみならず著作の影響があって……どうして完全に生前の姿じゃないのかって、もしかして無理矢理私が彼岸から魂の一部を引き寄せてしまって……みなさんに……」
司書は歩みをやめて立ち止まり、
「みなさんに『則天去私』であらぬように強いているのかも……」
と、漱石の言葉を使って心境を告白する。
「司書殿……」
「ごめんなさい、やっぱりフルーツタルトは……今日は諦めます」
司書は漱石に一礼して司書室に戻ろうとする。
「司書殿!」
グッと手を握って、漱石は司書を引き止めた。
「……!!」
「――あなたが欲しい答えは、ツルゲーネフの『片恋』にありますよ」
「どういうことですか……?」
「まぁまぁ、読んでごらんなさい」
そう言った後、漱石はスッと手を離した。
「……難しくないですか?」
「それは、あなたが選ぶ翻訳者次第ですよ。ツルゲーネフの『片恋』なら、ロシア文学の棚の開架にあったはずです」
「分かりました、ありがとうございます……夏目先生」
司書は、その名前を忘れないうちに図書館へ行って本を借りてきた……。
特務司書の通常勤務が終わった後、司書は自室に戻ってツルゲーネフの『片恋』を読み始めた。
それは、主人公と「大人」になりゆく思春期で複雑な出自持った少女・アーシャの、恋の物語。
「いや……なんていうんだろう」
今まで読んできた恋愛を題材にした小説とは違うテイストで、司書は悩んだ。
それに、漱石の言う「答え」とは何かも分からずじまいだった。
「うーん……」
しかしこのまま考えても進展はなさそうだったので、司書は眠る前にいつも飲んでいるハーブティーを飲むために給湯室に行く。
安眠効果があるとされるカモミールティーを淹れて誰もいないであろう隣の談話室に行くと、そこにはロシア語の辞書と最近図書館に入ってきたロシア語の本がコピーされている紙を広げて考え込んでいる二葉亭四迷がいた。
「二葉亭先生?!」
「……ん……ああ……司書殿か」
「あの……もう……日にち変わりそうなんですけど……」
「眠れないんだ……転生しても、俺は不眠症らしい」
「えっと……あの、これ飲まれます?」
司書は、四迷に先程淹れたカモミールティーのティーカップを差し出す。
「……これは……」
「カモミールのハーブティーです。安眠効果があるって言われてて、実際すごく寝付きがよくなるんですよ」
「ありがとう……飲ませてもらおう」
四迷は、司書からティーカップを貰うと少し香りを楽しんでから口にする。
「最も、利尿作用もあるから飲み過ぎには注意ですけどね」
心配ならアロマオイルとか入浴剤という手もあります、と司書は付け加えた。
「……司書殿は、特務司書になる前は何をしていたんだ?」
飲み終わったティーカップをテーブルに置いてから、四迷は司書に尋ねる。
「三重県の観光誘致のための部署です。もっと端的に言ったら、三重県はこんなにいいところなんですよ!とアピールする担当です」
「俺が日本にロシアを紹介するようなことをしていたのか……」
「四迷先生はロシア文学の翻訳なさってましたもんね。翻訳って……すごいと思います。私、前に森先生がドイツ語を翻訳しているのを見たんですけど……たくさん試行錯誤してて……」
「――司書殿は、ロシア語の翻訳作品を読んだことはあるのか?」
「さっきツルゲーネフの『片恋』を読みました。……ちょっと、難しかったですけど」
「なるほど……なら『死んでも可いわ』の答えを見つけたのか」
「えっ????」
司書は、そう言われて明らかに戸惑う。
「えっ????」
四迷も、司書の反応を見て怪訝な顔をする。
「ツルゲーネフの『片恋』に……そんなセリフありましたっけ……」
「……司書殿、一つ確認だが……その『片恋』の翻訳者は……」
「えっと……確か……米がついて……なんだったけ……」
「そういうことか……」
四迷は、司書の納得がいったようで頭を抱えていた。
「二葉亭先生……?」
「君は俺の翻訳じゃなくて米川正夫君の翻訳を読んだんだな」
「二葉亭先生の……翻訳……?」
「俺の方が彼より先にツルゲーネフの『片恋』を翻訳している……確か彼は、俺のその翻訳を読んだことでロシア語を志してくれたとは……この間調べたら出ていたが」
「そ……そうなんですね~……」
司書は彼に対してかなり失礼なことをしてしまった事に気付いていたたまれなくなり、飲み終わったティーカップを持って場を去ろうとする。
「待つんだ」
その時四迷に腕を掴まれて、司書は不可抗力で彼の懐に収まってしまう。
「確か米川君の翻訳では『あなたのものよ……』と直訳だったか」
「えっと……アーシャと、主人公の、逢引の……」
そのシーンは、司書の心の中に描写の巧みさ故印象に残っていた。
「――そこを俺はなんて訳したと思う?」
――もしかして。
……と司書は思ったが違うともっと怒りを買いそうだったので口に出しあぐねていると、
「『死んでも可いわ……』だ」
その低くよく響く声で耳元で囁かれて、司書は真っ赤になってしまう。
「し……四迷先生……」
「……死んでもいい、再び俺にロシア語を翻訳する機会をくれたこの体は、転生させてくれたあなたのものだ……」
「――そんなこと言わないでください!」
それが言葉通り「死ぬ」という意味にしか捉えられず、思わず四迷の腕から逃れる。
司書は、どうしても「死んでもいい」という物騒な言葉を婉曲的な表現として受け取ることができなかった。
「死ぬことを、愛の表現として捉えないで」
人が死んでしまったらもうこの世では二度と出会えないし、共に愛を重ねていくこともできないのだ。
「…………」
黙り込んだ四迷を見て、司書は自己嫌悪に陥った。
――文豪の人になんてことを。
言葉を操る事に関しては自分よりも四迷たち文豪の方が余程長けている。
――それなのに意見する自分は、なんて傲慢なんだろう。
「ごめんなさい……今のは、忘れてください」
司書は、四迷に対して頭を下げた。
「ドーブライノーチ……二葉亭先生。ティーカップは、給湯室の流し台に置いておいてください」
司書は、四迷の反応を見る前に慌ただしく談話室から去っていった。
******
自室のドアを締めると、司書はそのままドアの前でへたり込んだ。
すると同時に、涙が溢れてくる。
「私……もう誰にも私のために死んで欲しくないの……」
自分を庇って命を落とした母親を思い出して、どうしようもなく辛い。
そして連鎖的に愛する妻を失ってから憔悴して後を追うように亡くなってしまった父親も思い出してしまい、司書は過呼吸気味になる。
「……母さん……父さん……!」
息苦しくて、このまま窒息してしまうのではないかと思ってしまって、ますます怖くなる。
対処法は一応教えてもらっていても、いざとなると頭から消え失せてしまう。
「もり……せんせ……!」
医者で真っ先に思いついたのが鴎外だったため、深夜だと思いながらも彼の元に行こうとかろうじてドアを少し開けるが、体に力が入らない。
「だれ、か……」
「司書殿!!!」
「……しめ……せんせい……」
その時、自分を追いかけて来たのか四迷が司書の体を支える。
「まずは落ち着くんだ、息を止めて10を数えて」
四迷は、すまないと言いながら司書の体を抱き上げてベッドに寝かせる。
「リラックスして……そして鼻で息を吸うんだ」
司書は素直に四迷の言葉に従う、
「よし……じゃあ3秒間息を吐いて……そう……次は吸って……よし……大丈夫だ、リラックスして……」
数回程四迷の言葉通りの対処法をすると、司書の呼吸は落ち着いてくる。
「落ち着いたか?司書殿」
「あ……ありがとうございます……四迷先生……私、何もかもお世話になりっぱなしで……」
「気にするな、困った時はお互い様だろう」
「そうですね……」
「それに、俺は君を置いて翻訳をするほど仕事中毒じゃない」
四迷は司書の唇をそっとなぞってから、
「君が好きだ……当世風の言い方なら、『愛している』というのか」
と、口にした。
その言葉を聞いた瞬間、司書は目を見開く。
「俺のこの命ある限り、俺はあなたと添い遂げよう。俺はあなたの騎士……」
四迷は、司書の指先に唇を落とした。
「先生……」
「さぁ、今日はもう遅い……俺もさすがに横になるとしよう。おやすみ、また明日……その笑顔を見せてくれ」
司書の額に口付けをしてから、四迷は部屋を出ていった……。
久しぶりにぐっすり眠れて、四迷は司書からもらったカモミールティーの効果に驚いた。
朝食を取りに食堂に行くと、司書の姿を見かける。
司書は、今日の助手の谷崎潤一郎と朝食後の紅茶を飲んでいた。
話題を聞いていると『源氏物語』の話らしく、司書の興味の幅広さを実感する。
『源氏物語』の話をしていると、永井、尾崎紅葉や幸田露伴も加わって来て司書を取り囲んでの座談会の様相を呈する。
「お司書はんはホンマに教養高いなぁ」
「このまま俺の本も読んでもらえないかなぁ……」
「何言ってんだよ、まずは俺の本からだ」
織田作之助、太宰治、坂口安吾の「無頼派三羽烏」と呼ばれている3人が、その様子を見てそう言ったことを話していた。
「ところで、最近司書殿は何読んではるんやろ?趣味の西洋絵画の本やろか?」
「前は『逍遙先生をお迎えするなら、シェイクスピア読んだ方がいいのかも……』って、『ヴェニスの商人』読んでたぜ」
「司書さんは、いつになったら俺の『富嶽百景』を読んでくれるのー!」
「そんなに読んで欲しいなら、司書さんの司書室前にある『目安箱』に入れればいいやない」
「……よし!直訴だ!」
織田のアドバイスを聞いた瞬間、太宰は弾かれたように食堂から飛び出していった。
「…………」
「――おや、長谷川君。おはようございます」
「夏目さん……」
無頼派3人のやり取りを見ていた後に、四迷は漱石に声をかけられた。
「調子はどうですか」
「今日は久しぶりにぐっすり眠れた……司書殿に礼を言わねばならないな、カモミールティーが効いたようだ」
「おや、長谷川君は司書殿にハーブティーをもらったのですか」
「ああ……それがどうした」
「彼女のオリジナルブレンドのハーブティーはすこぶる評判が良くて色々な者たちが欲しがりますが、それ故に品薄でなかなか手に入らないのですよ」
「……違う、俺は彼女が寝る前に淹れたハーブティーをもらったんだ」
「それはそれは……また他の文豪が聞いたら羨ましがりそうな」
漱石は、優しく微笑んでから玉子焼きを口にした。
「彼女はそんなに人気なのか」
「人気っていうより、俺的には『教え甲斐がある』って奴だな」
漱石を見つけた子規は、2人の話の輪に入って来た。
「司書は割となんでも興味を示すし、俺たちの話を聞いてくれる」
「それに、彼女の甘味に関する知識は私を驚かせるほどです。洋菓子の話をした時は、時間を忘れてしまいました。太宰君には『私の前では、気を張らなくていい』と言い切って……ますます慕われてしまったようですけど」
「慕われる……?」
「彼女を慕う文豪は多いですよ、それが私の『こころ』にあるような感情だとは……分かりませんけどね」
「…………」
ふと司書たちの方を見ると司書たちは仕事に向かっていて、食堂にはもういなかった。
昨日の翻訳作業の続きをしていると、あっという間に時間は過ぎていく。
気付けば既に図書館は閉館の時間で、ライトが点灯していた。
「おや、もうこんな時間か……いつの間に」
四迷が机の上を片付けていると、鴎外がやって来た。
「……森さん」
「昨日、司書殿は過呼吸になったそうだな。司書殿から聞いたのは先程だったが」
「……ああ。一応、対処はしましたが……。彼女は、よく過呼吸を起こすのですか?」
「よく……というほどではないがな。司書に赴任したすぐの時は、何度か見たことがあるが……」
「……多分、俺のせいです」
「……君の?」
「俺が、『死んでもいい』なんていったから」
「……ふーむ……確かに君の翻訳を知らねば困惑するだろうな」
翻訳とは難しいものだ、と鴎外は頷く。
「――誤解は解きました」
「しているならばよかった、していないならば……俺は君の首根っこを掴んで彼女の前に引きずり出すところだった」
――それでも彼女に会えるなら、大歓迎だが。
と、四迷は考えてから、
「森さん……もしかして、森さんは彼女のことが好きなんですか?」
鴎外に単刀直入に質問を投げかける。
「私が彼女に抱く好意は君の言う『恋』ではない。私は彼女に対しては『崇敬』のような思いでいる。……永井君と司書殿は、私を見るたびに『尊い』……とは言っているが……」
「……そうですか……」
「君、司書殿に一目惚れしているだろう」
まさしく図星だった。
「信玄餅アイスも確定だ」と勢いよく抱きついて来た彼女に、自分は一目惚れしてしまった。
そして彼女を知るたびに、ますますその思いは募っている。
『片恋』の主人公のように、声を上げて彼女への愛を叫びたかった。
――彼女以外、何者も要らぬ。
「俺は、彼女を……愛している」
それは、何一つ偽りなどない気持ちだった。
******
「太宰君……」
司書室の前の目安箱には、太宰の本が5冊ほど入っていた。
「もう……こんなにたくさん」
どれも持ち出し禁止の本だったので、題名を控えておいてから図書館の方に返しにいく。
その途中、図書館から出て来た二葉亭四迷に会う。
「四迷先生……」
「もう大丈夫か?」
「はい、おかげさまで」
「司書殿はどうして今から図書館に?」
「太宰君が本を勧めてくれたんですけど、どれも本来は持ち出し禁止なので……」
「太宰……本当に実行したのか」
「……?」
「……こっちの話だ。手伝おう、配架が高い場所だと大変だろうしね」
「ありがとうございます、四迷先生」
司書は、四迷に一礼してから図書館に入る。
割とすぐに配架の場所が見つかって、30分も経たずに作業は終了した。
「よし……」
「司書殿、この後の予定は?」
「私、今日は久しぶりに外で夕飯を食べようと思って。……その、ロシア料理のお店を……見つけたので……よかったら、四迷先生もどうですか?」
「むしろ、断る理由がない」
四迷は、ロシア料理と聞いて嬉しそうな表情を見せる。
「分かりました……少し待ってくださいね、準備してきます」
司書は、笑顔を見せてから図書館を出て行った。
制服を着替えてきた司書と共に、四迷は図書館最寄りの駅から少し電車に乗った場所にあるロシア料理の店に行く。
初めて食べる料理の数々に、司書は興味津々で美味しそうに食べる。
「美味しい!」
「ボルシチを食べるのは初めてなのか?」
「大学では食文化を副専攻にしていたんですけど、あまり実食できる機会がなくて……」
「そうか……」
「人間は全て食から始まるので、食を研究することで当時の生活や価値観を垣間見ることができてとても楽しいです。皆さんとお話しする時も、色々な食べ物の話を聞いて……牛鍋は最高でした」
司書は、また四迷先生も一緒に牛鍋食べましょうねと言って微笑みかける。
「それは、俺の昨日の言葉を受け取ってくれるということか。……あなたを愛しているという、俺の言葉を」
四迷はジッと司書と視線を合わせた。
「はい……私、四迷先生のこと、もっとたくさん知りたいです、もっと勉強して、四迷先生に恥じないようにしないと」
司書は少し恥ずかしげに首を縦に振って、四迷の求愛を受け取った……。