izw
名前設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「はぁぁ〜…」
肩まで湯に浸かりながら深く息を吐く。少し熱めのお湯は冬の刺すような寒さで冷えた身体をじんわりと暖めてくれる。目を閉じれば頭の奥からゆるゆると迫って来る眠気を、振り払うようにゆっくりと目を開ける。
ガチャ バタン
明らかに誰かが入ってきた音に恐怖を覚える。家族が来る際は必ず連絡をくれるので、確実に家族ではない。そうなると常識や法律から逸脱しているタイプの人間。
ここに来たらどうしよう。スマホも身を守る物も今は手元にない。身一つの状態でどうやって自分を守れば?
「こっちか」
脱衣所の扉が開かれて耳に入る声は聞き覚えがある。
いやまさか。だとしても何故?
「よっ」
「は?」
人が風呂に入っていると分かっていながら、容赦なく風呂場の扉を開けたのは元彼だった。
自然消滅という言葉程、この関係に都合が良く適当なものはないと思う。
伊沢拓司がテレビに出るようになり、私から連絡しない限りは連絡が来ることも会うこともなかった。そのまま連絡を取り合うこともなく約3年。連絡なんて一切寄越しもしなかったくせに。
「何しに来たの」
「顔見に来た」
「じゃあ帰って」
付き合ってる間、この男には隅々まで見られたので今更隠すものもないが、今日に限って入浴剤を入れなかったことを後悔している。見られたところで減るものなんて有りはしないし、私の顔だけを真っ直ぐ見ているとは言え、気分がいいものではない。
そんなことより、コイツが何を考えているのか本当に分からない。本心なのか嘘なのかの検討もつかない。
「どうせだしもう少し話したいじゃん」
「この状況で?馬鹿なの?話すことなんてないから合鍵を置いて帰って」
「まあまあ」
何が、まあまあ。よ。私の話聞けよ。
「YouTuberだかタレントだか知らないけど、貴方には私と真逆の可愛らしい子がいるじゃない。靴だか靴下だかお揃いでオープンカーに乗る仲の女の子が。こんな状況その子に知られたら困るんじゃない?」
少しだけ話題になった熱愛報道。本人達は否定してるけど、この男が付き合ってもない異性と、あんなにも物理的に距離が近い所なんて見た事がない。付き合ってないとしても、絶対惚れてるだろ。
「嫉妬してくれてんだ」
「嫌味って言葉知ってる?」
「不快感を与える言動。嫌がらせとも言う」
「あらご存知だったのね」
お、良い例文だね。
ニヤニヤしながら指を差すその様に神経を逆撫でされている気分になる。その人差し指へし折ってやろうか。
「本当に何しに来たの。アンタと私はもう他人でしょ」
「顔見たら帰るつもりだったんだけど、顔見たら話したくなった。それより俺と自然消滅して、てっきり引越してるもんだと思ってた」
「何でアンタを理由に余計なお金と労力をかけてまで引越さなきゃなんないのよ。ていうか、引越してると思ったのに何で来たの」
賭け。合鍵が入って、回って、開いたら、居なくても待ってでも会う。そしたら、風呂入っててラッキーみたいな。
何でもないことみたいに、事も無げに、こういうことを言う所が大嫌いだ。
「あっそ。身体洗うから出てって」
「家だと先に湯船に浸かるの変わってねぇんだ」
「私の事を知った風な口聞くの辞めてくれる?出てかないとシャワーぶっかけるから」
「いいよ」
それで名前の気が済むなら。
「っざけんな、その程度で私の気が済むと思う?今までその気になれば連絡出来る状況で、1度も連絡して来なかったくせに今更何なの?引越してなけりゃ、私がまた手に入るとでも思ってる?」
巫山戯んな。私はそんなに安い女じゃない。
「思ってないよ」
「じゃあ何で今更来たの。お願いだから帰ってよ」
「ごめん、それは嫌だ」
意味分かんない。嫌なのは私の方。顔も見たくない。声も聴きたくない。名前を呼ばないで欲しい。
ぐちゃぐちゃの頭の中を流してしまいたくて、湯船から出て勢いよくシャワーの蛇口を捻る。拓司に背を向けて頭からシャワーを浴びると、服を着たまま濡れることも厭わず後ろから抱き締められる。
「離して」
「嫌だ」
「離してよ」
「ごめん」
顎を掬われて横を向かされる。
「好きだ」
目が合ったと思ったら、その言葉を理解する間もなく薄い唇が重ねられる。引き離すことも押し返すことも出来ずに、温いシャワーを浴びながらじっとりと濡れていく服と右手に絡まる懐かしい左手を感じながら、何度も重ねられるそれを大人しく受け入れることを選んだ。
「ねぇ、この花なに?」
「ライラックとゴデチア」
紫の花と赤いの花の小さなブーケ。
風呂場から出てスキンケアを済ませようとしたら、テーブルに置かれた見覚えのないそれが目に付いた。
紫のライラックと赤いゴデチア。後で調べてみよう。
「あ、アンタの私物ないから」
「え、何で」
「全部捨てた」
「まじかぁ」
勝手に濡れて勝手に落ち込まれたって知ったこっちゃあない。と、思ったけど勝手にクローゼットを漁って、お気に入りのオーバーサイズのパーカーを着ようとしてるから慌てて止めて、使っていい部屋着を出す。スポーツパンツの裾ゴムが脹脛でパッツパツに広がってるのを見て、お釈迦行きを覚悟した。
「もしかしてアレも捨てた?」
「どれ」
「リング」
「あー、どうだったかな。捨てたかも」
コリンズグラスに生けたブーケを本棚の一角に飾って、隣に置いてたリングを右手の中に隠す。
「一つ良いことを教えてあげよう」
「何?」
「名前が嘘つく時の癖」
長い瞬きを一回する。
私の頬に手を添えて親指で目元をなぞりながら、私の右手を開かせるクイズ王に私からも一つ良いことを教えてあげよう。
「ねぇ知ってる?」
「ん?」
「私はアンタと寄り戻したなんて思ってないから」
「え、うそ、まじ?名前さん?」
ふん、とそっぽを向いて離れると、眉を下げて後ろを着いてくる。久しぶりに見る弱った顔に込み上げてくる笑みを隠して、歯ブラシと歯磨き粉を手に取る。
歯磨き粉俺と居た時と違うやつじゃん。とか、予備の歯ブラシの置き場所替えた?とか言ってくるけど知らんふり。
「名前〜」
駄々っ子のように後ろから抱き竦めて縋ってくる姿はまるで大きな子供だ。世間のファンや服装がカラフルな私と真逆の彼女は、この男のこんな姿を知ってるのだろうか。もし見せてたら、このリングも捨ててやる。
歯磨きを終わらせて振り向くと、逆光で光のない目で私を目をじっと見つめてくる。あ、キスする気だな。
「私に言うことがいくつかあるんじゃない?」
「歯磨きしてた顔も可愛い。好き。愛してる」
「そうじゃな、んっ…」
ほら。やっぱり。人の話をまるで聞いちゃいない。押し返しても離れるどころか、後ろ髪を撫でて引き寄せてくる。
「本気で嫌がってくんないと俺のこと嫌いじゃないって勘違いするんだけど」
「諦めって言葉知ってる?」
「俺の辞書にないやつね」
嫌いじゃない。そこに可能性を見出した瞳は、獲物を見付けた猛禽類と似てる。ならば、私もハクトウワシになってやろう。地に落ちるその寸前まで爪を絡ませこの男と身投げして、向けてくるその視線がどの程度のものか試してやる。
「放置したり浮気でもしようもんならアンタの情報ゴシップに全部売るから」
「おーこわっ」
「あと、そのペアネックレスいい加減捨てて」
「嫌だ。でも新しいのは買う」
嫌って言ったって、捨てた片方は戻って来ないのに。それに加えて新しいのなんて何処まで欲張りなんだか。と思いながら、あのブランドがいいなんて言う私も大概欲張りなんだと思う。
1/2ページ