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"着きました。"
"はーい。私もそろそろ着くから、少しだけ待ってて"
そのやり取りから数分後に改札のずっと向こうから、ICカードケースを片手に凛とした女性がエスカレーターを降りるのが見えた。
黒い薄手のリブニット。ダークブラウンと黒で構成された千鳥柄のセットアップ。黒いブーティ。メンズライクな格好と全体的に暗いトーンが華やかさを半減させているように見えるけど、逆にそれ等が女性らしい曲線を余計引き立てているようにも見える。
てか、ブーツとパンツの間でたまに見える白い足首やば。
外見。容姿。恰好。
見た目はその人の印象に直結しがちだ。清潔感を保つだけで無条件に信用が生まれる場合がある様に、全く違う恰好を一度見ただけで今までの印象がコロッと変わることもある。かくいう俺は、後者の内の一人なんだけど。
苗字名前さん。俺が務めてる会社でイベント業務を担当する歳上の女性。オフィスでは、その、一言で言うと干物っぽい。部屋着みたいな格好だし、可愛げのないランシューだし。アホ毛は跳ね放題で、髪は適当にひとまとめ。キツめの度が入った眼鏡をかける顔に施されたメイクもパッとしない。
そんな苗字さんの、水戻しモード(伊沢さん命名らしい)がタイプだった俺は、苗字さんをよく観察するようになった。他人に興味がなさそうな人だと思っていたけど、そんなことなくて結構面倒見がいいとか、気を許した相手だとよく喋るしよくふざけるとか。色んな所が見えてきて、見た目で判断してた時には気付けなかった苗字さんの内面を、もっと知りたいと思う自分がいることに嘘は付けなかった。
でも未だに、この脈の速度が憧れによるものなのか、下心によるものなのかを判断しかねている。
キョロキョロと辺りを見渡してから、髪を耳にかけてスマホで誰かに電話をかけ始める姿すらも目が離せない。
ム゙ーッム゙ーッ。
カバンから聞こえる振動音にハッとして、通話ボタンを押す。
『乾?どこに居る?』
「俺、見付けたんでそっちに行きます」
『ありがとう。待ってる』
苗字さんの方へ足を進めながら、こうなった経緯をふと思い出す。それにしても、あの時はよく言えたと思う。
「須貝くん。この和食屋さん下見したいんだけど、明後日の夜とか空いてない?」
「悪い、明後日は現場」
「あ〜。じゃあ無理かぁ」
「あの。俺で良ければ付き合います」
須貝さんの隣で気付いて貰えるように小さく手を挙げながら、心の中でこの席に座って良かったとガッツポーズ。当日は会社が休みだからと、集合する場所と時間を話し合う時にふわっと香ってきたのは、やっぱり紅茶の匂いだった。
いつもの丸眼鏡じゃなくてコンタクト。オフィスでは適当にまとめられたボサボサの黒髪は、おろされてるけどいつものアホ毛はどこにも見当たらないし、濡れ髪っぽく仕上げられてて何と言うか色気を感じる。メイクも濃くはないけど、ピンクベージュ?みたいな色味で統一されてて愛らしいけど大人っぽい。そして、少しだけ鼻をくすぐる紅茶の匂い。
もうちょっとオシャレしてくるべきだったかな。
「お疲れー。休みなのにごめんね」
「お疲れ様です。いえ、どうせ暇なんで」
「本当?ありがとう」
なんか、不思議な感じ。こうして待ち合わせをすることも、一緒に夕飯を食いに行くのも。
これは、デート、なのか?いや、下見って行ってたしなぁ。俺が行くって言わなかったら誰と行ってたんだろう。可愛がってる志賀さんとか?..考えるのやめよ。
「乾ー。行くよー」
「はい!」
緊張していても分かるくらい美味かった。そして高そうだった。
苗字さんが御手洗に立った隙にと思った会計は、既に済まされていた。いつ払ったんだろう。俺が席を立ったのは会計の時だけだし、苗字さんも御手洗の一度だけ。
自分の分くらい払いますと言っても、要らないと突っぱねられる。いつ払ったんですか?と聞いたら、内緒と笑われた。納得行かない。俺が格好付けたかった。
「もう。そんな顔しないの」
楽しそうに笑う顔に、余計ムスッと口を尖らせる。
「今度、午後ティーでも奢ってよ」
「じゃあ、もうちょっと一緒に居たいです」
感情が顔に出るのも。応えになってない応えも。思ったことをそのまま言葉にしてしまうのも。苗字さんのジャケットの裾を摘んで引き留めたのだって。度数の高い日本酒を呑んだせいだ。
「しょうがないなぁ。近くで飲み直そうか」
少し困ったように笑う顔だってかわいい。きっと明日後悔するけど、それでも苗字さんと一緒に居られることが嬉しい。気持ちが顔に出てるのか今度は、犬みたいって笑われた。ヒトだけど、この際犬でも猫でもなんでもいい。
「ほら行くよ」
「うん」
笑いながら差し出される小さな手に、喜んで重ねた手から紅茶の匂いが移ったりしないかな。