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いつも通り適当に頼んで店員さんが厨房へと入っていくのを見届けると、よく知った匂いが鼻を掠める。上司が戻ってきたと直ぐに分かった。消臭剤と煙草の混ざった匂いを纏った上司が、予想通り真横を通って向かいの席に座る。
「お待たせー」
「はっ、くしゅん。生でいいですよね?」
「うん。ありがとう」
ついでにもう一つ勢いよくくしゃみをしたら、早々に運ばれてきた取り敢えずの生中で乾杯をした。
いつからだったか。毎週金曜に一緒に呑みに行く仲の良い上司が、気付けば煙草を吸わなくなった。
自他ともに認める重度の愛煙家からあの臭いがして来ないのは、何ヶ月経っても不思議なもので。手に持つのはお気に入りの紙ではく、害の少ない電子だから余計疑問符が止まらない。
一度だけ言ったことがある。
「そんなに吸いたいなら、いつもの青い箱でいいじゃないですか」
その返答はこの人らしからぬ言葉で返されて、たいそう驚いたのでよく覚えている。
「俺もいい歳だから身体のこと考えてるの」
絶対嘘だ。でなければ最低週一で飲酒したりしないと、私は思う。他に理由があることは明白だが、問い詰める程の関係でもなければ興味も無い。何よりこの人が酒まで呑まなくなれば、私の焼き鳥代は誰が払うのだ。
「今日何食べる?」
「たまには寿司でも」
「いつもの所ね。やっぱりあそこのぼんじり美味しいよね〜」
「ケチ。そんなんじゃモテませんよ」
「あはは。苗字よりモテてる自信はあるよ」
週一のオアシスは絶妙に癪に障る言葉がお得意だが、言い返せるポテンシャルなど持ち合わせてない。それにご機嫌を損ねて、今日の焼き鳥に逃げられては困る。
店の出入口横で上司がSAN値回復を図る間、適当にメニューを頼んで待つのは以前と変わらない。それでも戻ってきたこの人から独特の臭いがしない事がどこと無く落ち着かない。知らない人と向かい合っている気がするのだ。
「何か良くない事でもあった?」
「え、何でですか?」
「最近ずっと浮かない顔してる」
浮かない顔。その言葉を確かめるために、コンパクトを開いて鏡越しに自分と見つめ合う。確かに眉尻が下がって顔文字のしょぼんの様な表情になっている。
「最近夜更かししてたから、眠いのが顔に出てたのかも」
「そうなの?」
寝不足という都合のいい言葉で誤魔化して生中で乾杯した。
「本当にもう吸わないのかな」
「んー?」
週明けのお昼前。隣に座る同僚の漢字王に話しかけると生返事で返される。
「福良さん。ヘビスモだったのに」
「あー、最近ずっと電子タバコだよね。身体を気遣ってるんじゃない?本人もそう言ってるし」
「んー..」
バルコニーに立って蒸気を吹かす横顔をぼんやりと見詰める。私の視線に気付いて何かあったのかと首を傾げる仕草に、何でもないと首を振って小さく手を振る。同じように小さく振り返してくる左手と柔らかい笑みに何処と無く安堵して、視線をディスプレイに戻した。そういえば、何だか最近くしゃみをしなくなったな。
「なーにしょげてんの」
そう言ってランチに連れ出してくれたのは我らがナイスガイの須貝さんだった。福良さんとは行かないようなオフィスから近い中華料理店。餃子と麻婆豆腐が美味しいらしい。私は酢豚の定食を頼んだ。
んで?どうしたのよと初手から直球を投げられる。正直に、何で紙煙草をやめたのか、本当にもう吸わないのかを本人に深く聞けないでいるだけだと伝えると、まだその事で拗ねてたんかと笑われた。心外だ。私は拗ねてなんてない。
あ、パイナップルが入ってないタイプの酢豚だ。
「貴方、福良が電子煙草に変えたって気付いた時ムスッとしてたの自分で気付いてない?」
「ムスッと?」
確かにあの時、人と呑みながらお喋りするのが大好きな上司のことだから、紙煙草をやめきる前に話してくれそうなものなのにと思った。少しだけモヤモヤとはしたが、モヤッとボール三個分程度のモヤッとだ。
ん!スープ美味しい!
「まぁ、苗字は煙草吸ってる福良をよく見てたもんなー」
どうしよう。須貝さんから向けられる言葉達に全く身に覚えがない。覚えがないのに否定の言葉が出てこない。それはそれで何だか不服なので無言のまま嫌そうな顔をしたら、何だその顔って笑われた。
あ〜美味しかった。
「君はねぇ、自分の気持ちに疎過ぎ。福良の事で頭いっぱいにする前に、もっと自分と向き合いなさい」
お兄さんからは以上!
そう言ってお会計伝票を手に二人分のお勘定を済ませようとするナイスガイを慌ててとめるも、歳上に格好つけさせろのお言葉を頂いてしまえば、歳下の私は大人しく引き下がるしかなかった。お店を出てご馳走様でしたと頭を下げると、自分と向き合えとは言ったけど深く考えすぎんなよの一言と共に、ぽふっと手を置くように頭を撫でられる。ナイスガイは難しいことばかり言うなぁ。でも吐露できたおかげでモヤッとボールが一個分まで減った。頼れるお兄さんに感謝だ。
須貝さんと二人でオフィスに戻ると、モヤッとボール一個分の原因に、いつものゆるいテンションでおかえり〜と迎えられる。
「須貝さんと二人でランチって珍しいね」
「ナイスガイが中華食べながらモヤッとボールを二個受け止めてくれたんです」
いいだろう〜と胸を張れば、どういうこと?と笑われた。今日はよく笑われる日らしい。スッキリの花は自分で咲かせろよ〜と、またぽふっと撫でられて、は〜いと軽い返事をする。蕾をつけそうなスッキリの花の苗を心に抱えて漢字王の隣で仕事に戻った。
何事も無く仕事を終わらせた帰り道。オフィスの最寄り駅に併設されたコンビニにふらりと立ち寄った。いつもであれば、家から近いコンビニで夕飯を買って帰るのだけど、本当に何となく今日はこっちに寄ってみようと思った。
結局紙パックのフルーツジュースだけを手にレジへ進む。会計の順番が回ってくるのを待つ間、レジ奥に並べられた紙箱達が目に入った。
「すみません、えっと、八十五番?お願いします」
「八十五番ですねー。こちらで宜しいでしょうか」
「はい」
会計を済ませて店外へ。一歩、二歩と歩いてから大事なことに気付く。同じ自動ドアを通って、品出しをしている店員さんに声をかける。
「あの、ライターって売ってますか?」
「電子機器の棚にありますよ」
「ありがとうございます」
同じ店員さんに会計をしてもらって今度こそコンビニを離れる。
辺りをサッと見渡して、喫煙所が無いことに気付いた。
「そういえば、無くなったんだっけ」
「何が?」
「わ゙っ」
お疲れ〜。オフィスを出る際にも聞いたゆるい挨拶にドキリとさせられる。まるでこっそり悪い事をする前に見付かった時の様な感覚。右手の中のライターを隠すようにグッと握り締めながら、お疲れ様ですと返す。
「ライター?」
隠しきれてないそれは直ぐに見付かってしまった。何となくばつが悪くて視線を逸らす。何に使うのかと問われて、雑な言い訳で誤魔化そうと思うけど適当な言葉が見付からない。私は何で誤魔化そうとしているんだろう。煙草を買うことも嗜むことも問題ない年齢なのだから、堂々と煙草を吸うためですと言えばいいのに。これじゃあ本当にお説教を喰らう前の子供じゃないか。
「最近元気ない事と関係ある?」
「..煙草です」
「え?」
あまりにも心配そうな顔をするものだから、罪悪感まで湧いてきてしまって、大人しく白状する他なかった。まだ封も切っていない真新しい小箱を鞄から出して、この紋所が目に入らぬかスタイルで見せ付ける。
「味わってみたらちょっとは分かるかなって思ったんです」
福良さんが電子に変えた理由も、福良さんが煙草を呑む姿が強く焼き付いている理由も、福良さんのことがこんなに気になる理由も。
ちゃんと話すからと、目に付いた喫茶店に入って事のあらましを話した。向かいに座る心配そうな顔が、どんどん嬉しそうな顔に変わるのを目の当たりにしながら話すのは、何だか照れくさくて恥ずかしかった。
「そんなに気になる?やめた理由」
「そりゃ気になりますよ。福良さんが煙草をやめるなんて考えたこともなかったし」
「これはねぇ、実は苗字が関係してるんだよ」
その前置きに首を傾げる。ニコニコと楽しそうに話し出す顔は、一不可説不可説転点を獲得した方法を発表した時のそれと似ている。
「煙草吸って戻ってくると絶対くしゃみするんだよ」
「誰が?」
「苗字が」
気付いてなかったでしょの言葉に、ぽかんと口を開けた間抜けな顔で頷く。
言われてみれば確かにそうだった。彼がSAN値を回復させて戻ってきて直ぐは、よくくしゃみをしていた。それは恐らく花粉症だろうと思っていたが、彼が煙草をやめた辺りからくしゃみが随分と落ち着いたように思う。
「え、それだけ?」
「もちろん、健康のためも二割くらい本当だよ。さっきのが三割で、残りの五割は覚えてもらうため」
覚える、とは?いったい何を?
「苗字、俺のこと煙草の匂いで覚えてるでしょ」
「そりゃあまあ」
あと消臭剤も。紙煙草をやめた結果、必然と消臭剤の匂いもしなくなったけど。
最初は煙草と消臭剤が混ざる匂いが鼻について苦手だった。それも慣れるとクセになるもので。社内のどこからかあの匂いが香ってくると福良さんが近くに居るんだと分かったし、独特な匂いと福良さんは今でも私の中でイコールで結ばれている。
「苗字に、煙草じゃなくて俺自身の匂いを覚えて欲しいからやめた」
福良拳自身の匂い。確かに彼の匂いなど煙草以外で意識したことはなかった。そう思うと、好奇心がむくむくと湧いてきて、目の前の上司の煙草ではない匂いとやらが少々気になり始める。
「だから、これは没収」
手の中で転がしていたライターと小箱をするりと取り上げられた。
「え〜。いいじゃないですか、試しに一本くらい」
「だーめ。もしアレルギーだったら大変でしょ」
確かにくしゃみの原因が煙草アレルギーだった場合、くしゃみだけで済むとは思えない。しょうがない、綺麗な肺のままで生きるとするか。一言も言い返せない悔しさをグッと堪えて、はーいとゆるく返事をした。
部屋に射し込む日光に顔を照らされて目が覚めた。ゆっくり起き上がってベッドに腰掛ける。よく知った匂いが鼻を掠めたかと思うと、後ろから伸びてきた腕がお腹へとゆるく回される。モゾモゾと動いて顔を私の太腿の横まで近付けるから、どうしたらこうなるのかと見てみれば、身体をくの字に曲げて寝ている。そうまでして引っ付きたいのか。大した根性だ。
「もうおきるの?」
「もう起きるんですよー」
「え〜もうちょっと寝ようよ」
ただでさえふにゃふにゃの顔が、寝起きで余計ふにゃふにゃしている。かわいいと思うが、甘やかす気は毛頭ないので、立ち上がってそのまま彼の腕を引く。
「落ちちゃうよ〜」
「じゃあ起きましょうねー」
「しょうがないなぁ」
口ではそんなことを言いながら、起き上がって眼鏡をかけたら、また後ろから抱き着いてくるのだから、本当は甘えたいだけだ。抱き着いたまま後ろを着いて来られるので、大変歩きにくい。
「引っ付かなくても匂いは覚えましたよー」
「まだまだだよー」
俺の匂いを覚えろと言われたあの日から、やたらと距離を詰めてくる上司の事を、以前から意識しているとやっと自覚したのは、彼自身の匂いを覚えた頃だった。須貝さんにお付き合い報告ついでに、"もっと自分と向き合え"の意味がやっと分かりましたと伝えたら、いくらなんでも遅過ぎだと笑われたのが懐かしい。
「拳さん。最近私のシャンプー使ってたりします?」
「あ、バレた?俺も名前と同じ匂いがいいなーと思って」
「あのシャンプー高いんですけど????」
どうやらこの人の目論見は、匂いを覚えさせることから、同じ匂いになることに変わったらしい。何を目論んで頂いても別に構わないが、シャンプー代だけはきっちり払ってもらうからな。