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"最近どうよ"
"残業ないなら飯でもどうよ"
世に大打撃を与えているウイルス性感染症の被害者数が目に見えて減り始め、サービス業には煩わしかったであろう制限も軽くなった頃。
学生の尊敬と憧れから始まり拗らせた大人の私が下心を向けるその人と久しぶりのご飯が決まった。
二つ上の須貝先輩とは、野球部の選手とマネージャーの関係が始まりだった。
何かと気にかけ可愛がってくれた三年生の先輩は、当時は多少生意気なこと言っても笑って乗ってくれる仲が良くて勉強を教えてくれる背が高い先輩。という印象だったのが、先輩が卒業した後もたまーに連絡を取っては勉強を教えてもらうという名目で会ってる内に、知らぬ間に何とも言えない気持ちが芽生え、芽生えたソレはすくすくと育ち、いつの間にかこんな歳になってしまった。
その間、誰とも付き合わなかったわけではない。高校でも大学でも彼氏は出来たし、先輩にも彼女は居た。お互い恋人が出来たら自然と会わなくなったし、別れてお互い恋人が居ないと分かると、近況報告を兼ねて勉強会を開いた。
私が別れる理由はいつも一つだった。
その気はなくても、気付けば須貝先輩と比べてしまう。彼への下心に気付いたのもこのせいだ。
先輩ならここで適当な返事はせずにちゃんと話を聞いてくれる。先輩ならこう振ったら笑って突っ込んでくれる。先輩なら、先輩なら、先輩なら。
歴代の彼氏に、先輩と比べてしまうと言ったことは一度もなかったけど、年単位で付き合った相手にさえ止まることはない「先輩なら」に自分で自分が嫌になった。
そんな理由もあり、彼氏を作るのをやめた。この歳にもなってパートナーが居ない寂しさは拭えないが、どうせ須貝先輩でしか埋まらないこの気持ちを他の人に押し付けて自分勝手に比べることはもうしたくない。親や周りには色々言われるけれど、先輩が結婚するまでは今の関係に甘えきってやると私は決めたんだ。それまではいい歳して拗らせた片想いを良い思い出になるよう尽くさせて欲しい。
「よっ」
「よっ。お久しぶりでーす」
某日19時。
遠目からでも分かる高い背丈は直ぐに見付けられた。マスクで目と眉しか見えてないけど変わらずナイスガイだなーと思うから、多分重症。それに、ふざけて同じ様に片手を上げて、よっ。と返しても怒ったりしない所が本当に気持ちが楽で居心地が良い。この人に会えただけで無理矢理にでも定時で上がって、一度帰って身嗜みを整えてから来て正解だったと思える。
「腹減ってる?」
「ます」
「じゃあ豚カツとかどうよ」
「最高ですね。行きましょ」
結論から言うと本当に楽しかった。美味しいロースカツ定食と生ビールと好きな人。心底楽しかったせいか、それとも久しぶりにガッツリお酒を飲んだせいか、はたまた気を許している相手だからか。足元が少し覚束無いし、顔の筋肉がやたら緩む。理性と呂律は酔いと同じくらいしっかり回ってるので、ギリ問題ない。と思う。
「そんなに弱かったっけか?」
「あー、本当は弱いんです。大学時代にサークルの飲み会で鍛えた」
ドヤ顔で力こぶを作るポーズを右腕ですると、凄くはないからなーと頭を雑に撫でられる。あー、毎日ちゃんと髪のケアしといて良かったー。きっと嬉しさが顔にダダ漏れだけど、嬉しいんだからしょうがない。
「あーこら、危ないからこっち来なさい」
左腕を引かれて驚き込みでドキドキしつつ、ぶつかりそうになった人にすみませんと会釈をする。
「何番線?」
「んー、あっち」
「あっちな」
私の左腕を引いた右手はするりと降りてきてゆるく絡んでくる。私が振り払える程度の強さ。予想だにしない出来事にどうするのが正解か分からず左手をわきわきさせてると、離されることなくそのまま先輩のコートのポケットへ手がゴールイン。と共に私が指を差したホームの方へ歩き出す先輩と追いかけるように小走りする私。いつもは私の歩幅に合わせてくれてたんだなぁ。
「せんぱい」
「ん?」
「一個前の階段おりる」
「は!?はよ言えや!」
笑いながら来た道を戻る先輩は変わらず手は離さない。
あー分かった。これは考えたら負けだ。そもそも考えてこの人に勝てるわけが無いし読めるわけもない。だってカードゲームもボードゲームも、この人と遊んでまともに勝てた試しがないもん。
今日の私は先輩の半歩後ろを競歩で着いてくことが使命。それだけ。
スマホで乗換案内アプリを起動して電車の時間を確認すると、横から覗き込んで来る先輩。はい、何も考えないよー。顔近いとか考えなーい。
「五分後ですねー」
「貴方ね、ここから二駅なら歩きなさいよ」
「文明の利器を今使わずしていつ使うんですか」
「カァ〜!これだから今時の若者は!」
そんなおじさんのテンプレみたいなこと言われても。それに、若者って言いましたけど、歳は貴方と二つしか違わないんですよ。知ってました?
一応まだ二十代でしょ。
それでもアラサーですよ。再来年は三十路です。
そんな軽い言葉のキャッチボールをしてると、私のカボチャの馬車の到着だ。
ここでバイバイかー、夢みたいな時間だったなぁ。次会えるのいつだろう。手、離しちゃうのか。そんなことを考えながら、絡まる指を解こうと、ゆっくり指を浮かせるけど一向に先輩の指は離れてくれない。それどころか、電車に乗りこむ先輩に引っ張られる始末。
「先輩、同じ路線なんですか?」
「いんや。違う」
俺のは反対方面。なんて言葉をそんなに淡々と言われても、好きな人とこんな状況に陥った経験がない私は気の利いた言葉も行動も思い浮かばず、おろおろすることしか出来ない。高い位置にある先輩の顔と閉まり始める扉を視線で右往左往する私を、先輩はたった一言で大人しくさせた。
「送られんの嫌?」
「嫌じゃ、ない、です」
顔にこれでもかって程に熱が集中する。決して酔いのせいじゃない。五月蝿さが増す鼓動音も、さっきから拭いたくてたまらない左手の手汗も。恥ずかしさやら緊張やら何やらで、思わずキュッと握ってしまった先輩の右手。何の意図があるのか全く読めないが、まるで頭を撫でる時と同じように親指で優しく、絡まる私の親指の甲を撫でてくる。
動き出した電車に身体が持って行かれないように、目に入った手摺に掴まる。チラリと見上げた先輩は吊革に掴まってる。
あ、先輩の耳、赤い。
「あんま見んな」
「へ、へい」
何だその返事って小さく笑う先輩の笑いジワは昔と変わらなくて何だか安心する。学生時代、大事な試合前でこっちが緊張してる時にこの笑顔を見ると安心したなぁ。大学受験前日も眠れないでいたら、電話してきた須貝先輩に笑いながら、大丈夫だって言われてやっと眠れたんだっけ。
懐かしさに浸ってる間に二駅なんて直ぐだった。頑として、家まで送ると手を離してくれない先輩に押し負けて、結局家まで送ってもらってしまった。鍵を開けながらふと思い立ったことを、そのまま口に出す。
「時間大丈夫なら、温かいの飲んで行きます?今日寒いし」
「お前さぁ、それどういう意味?」
「どういう意味?」
とは?先輩の鼻が寒さで赤くなってるし、風邪引かれたら申し訳ないなぁの意だけど、他に何かあるんだろうか。
寒いから風邪引かれるとなって、と正直に応えると、大きな溜息をついて、だよなぁと共用廊下の天井を見上げる先輩。え、私、何か変なこと言った?何を考えてるか分からない先輩に何と返すのが正解か分からず、家の鍵を片手に上を向いたままの先輩の顔を見上げていたら、急に視線が降りてきてバチッと目が合う。何か言われるんだと思った。いつもの先輩ならきっとここで、分かりやすく優しいお説教をしてくれるから。だから、私の顔の高さまで降りてくる先輩の顔に、何も反応が出来なかった。
「こういうことになるから、その気がないならちゃんと距離を保つように」
マスク越しの熱が逃げていかない。絡まる熱の篭った視線に、私は息を飲むことも目を離すことも出来ない。絡まっていた手が離れて、その手が私の髪を優しく撫でる。
「じゃ、おやすみ」
「せんぱい」
何の反応もしない私に背を向けてエレベーターへと向かう背中に、やっとで声を絞り出す。振り返る姿もかっこいいんだから、本当にズルい。
「ん?」
「その気は、なくは、ない、です。おやすみなさい!」
言いながら高い位置にある顔を見るのも怖くなって、言い切ってから反応も待たず玄関へと入って扉を閉める。鍵もかけずにずるずると玄関へ座り込んで、ゆっくりと大きく息を吐いた。
どうしよう、言っちゃった。須貝先輩のことだから、今の言葉で絶対伝わった。
顔に集まる熱と強なる脈圧に抗うことなく頭を抱えていると、肩にかけた鞄の中からメッセージを告げる通知音に、心臓が跳ねる。
"明日ちゃんと言わして"
"あと、ちゃんと鍵かけろよ"