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「だから、失恋じゃないってば。執拗いなぁ」
「じゃあ何でか教えてくれたっていいじゃん」
フレックスタイム制の我社QuizKnockは、それぞれ来る時間は何となく決まってはいるが、日によって珍しく早く出社してくる者も中にはいる。それが今日の伊沢拓司だ。いつもならこんなに早く来るのは僕か須貝さん、それから動画編集や記事の校閲を担当する苗字さんくらいだ。
苗字名前さん。
伊沢が学生時代に別のサークルから引き抜いてきた、伊沢と同い歳の文学部だった子。腰に届くほど伸ばされた髪は手入れが行き届いており、男女共に目を引く。天使の輪が輝く髪を凝視しながら女性社員達が不思議がっていたのは記憶に新しい。
執務室から比較的近いキッチンから聴こえてくる会話を盗み聞く限りでは、その長く綺麗な御髪を切ってしまったらしい。
どれだけ切ったんだろう。伊沢が騒ぐほどだから、20~30cmくらいか?それでも彼女の長さならセミロング程度はあるだろう。
執拗い伊沢を心底面倒臭そうに対応する声に、伊沢の様に余計な詮索はしないと心に決めてキッチンへ入る。
「えっ」
「あ、河村さんおはようございます。コーヒー飲みます?」
「…失恋?」
「河村さんまで…」
嫌そうな顔で、違います。と否定の言葉を入れてからコーヒーを用意してくれてるけれど、いや、これは誰だってそう思うだろ。予想を遥かに超えて、肩にも付かない首にもかかってないショート。出会ってから数年、彼女の髪がここまで短いことなんて1度もなかった。伊沢が失恋だと騒ぐのも少し分かる。
「ほら。皆そう思うんだって」
「あんなに綺麗に手入れしてたのに何で」
「ぶっちゃけ本当に邪魔だったんです。全然乾かないし、結ぶのも面倒だし。髪乾かすのに20分以上かかるんですよ?この大変さと面倒臭さ分かります!?」
力説しながら、勢いよくこっちを向く彼女の髪はもうこちらを襲って来ない。ポニーテールで出社した時に周りから、武器だとか何だとか言われていたのを思い出す。
「切ったら、乾かすのに5分もかからなくて感動しましたよ!今までセットするのが面倒で切らなかったのが馬鹿みたい!」
心底嬉しそうに語る所を見ると、本当に失恋ではないらしい。
それが分かったのか伊沢は少しつまらなさそうにコーヒーを持ってキッチンから出て行った。そんな伊沢なんて気にすることもなく、憧れの女優さんがショートにしたのを見て〜と楽しそうに話す彼女に適当に相槌を打ちながら、短くなった髪を見つめる。
変わらず天使の輪が輝く手入れされた髪。短くなった毛先はセットされているのか所々跳ねている。思わず手を伸ばしたくなる衝動を隅に追いやって視線を少し下げると、今まで隠れていた項が目に入る。溢れる生唾をバレないようにこっそりと飲み込む。今まで女性の項に心臓が跳ねた経験はなかったから項フェチではないと思っていたけれど、そうでもないのかもしれない。
「首。寒そうだね」
「ん?あー、寒いって言うよりかは、スースーします」
直ぐには慣れないですね〜。と、少し照れ臭そうに首裏を擦る左手は僕の手より小さくて細い。
どうにも彼女の挙動にいつもより目が奪われる。
きっとそれは、短い髪もよく似合い過ぎているせいだ。
「はい、河村さんの分」
昔に比べて少し砕けた言葉遣いも、他の人より少し近い距離も、受け取る時に触れる温かい指先も、ずっと背けてきたそういう意識を向けるには充分で。
「苗字さん」
「はい?」
「今度の日曜。あいてたら、水族館に行きませんか」
「コイちゃんに怒られません?」
自分が自分でなくなるような気がして、出会った時から目を背けて押し潰してきたモノは、知らぬ間に随分と膨れ上がっていたらしい。
からかうように小さく笑う顔に、今更止められるモノでもないと悟った。
日曜10時に品川駅で待ち合わせという約束を取り付けてキッチンを出てから、1つ言い損ねたことを思い出してまたキッチンに戻る。
「言い忘れてましたが長いのも好きでしたけど、短いのもよくお似合いです。なんというか、前より綺麗になった」
「へっ!?ぁ、え、ありがとう、ございます…」
そうやって、少しずつ僕を意識してくれればいい。
ニヤニヤとこちらを見る伊沢に、同じ顔を返してやった。