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「河村センセー」
「何だね苗字クン」
苗字がキッチンから顔を出して、お茶っぽい香りと共にちょいちょいと僕に手招きをしている。何かあったのかと思わせる様な真剣な顔しているか、恐らく大したことじゃない。同僚である苗字と五年の付き合いになる僕はそれをよーく知っている。
「ケーキ食べませんか」
ほらな。大したことじゃなかった。
そうして、生配信を終えて帰り支度を進める僕の手を止めたのは、歳下の想い人とケーキだった。
「三つしかないんで、皆にはナイショで」
「ようし。食べた後に皆に言い触らしてやろう」
「ケーキやんねぇぞ河村コノヤロー」
三つならもう一人呼べばいいのでは?君と仲の良い志賀さん辺りなら喜んで食べるだろうに。そう思いはするが、彼女なりに考えがあって、僕のみを夜更けのお茶会に招待したのだろう。ならば、野暮なことは言うまい。
油性ペンでデカデカと苗字と書かれた白いケーキ箱を丁寧に開けながら、どれ食べたいですか?と聞いてくる苗字に、好きなのお食べと返すと、彼女はチョコレートケーキを紙皿に乗せて僕に寄越した。
「ザッハトルテです」
ザッハトルテらしい。..ザッハトルテって何だっけ。この手の情報に詳しいと言えない僕は、聞き覚えだけはあるザッハトルテが恐らくチョコレートケーキであることしか分からない。僕の周囲の人間が作問したクイズで問われる回数が圧倒的に少ないからだ。
「ザッハトルテはチョコレートケーキの王様なんですよ。河村さん知らんかったでしょう」
「へー、コイツ王様なんだ。知らんかったなぁ。そっちは?」
「こっちがレアチーズケーキで、こっちが林檎のシブーストです」
また知らん単語だ。レアチーズケーキと林檎は分かるが、林檎の後に続いた単語は聞き覚えすらない。
説明されながら一つの紙皿に乗せられる二つのケーキは、どちらも食い意地が張った苗字のものらしい。なるほど、そりゃあ御一人様限定なわけだ。
「しぶーすと」
「シブースト。クレームブリュレと似て非なるものだと思ってください」
「クレームブリュレと似て非なるもの」
どうやら説明が面倒になったらしい苗字は、伝わるようで伝わりきらない説明を寄越して、今度はキッチンへ入った時からグツグツと音をたてる小さな鍋の前に立って火を消す。
「それは?」
「黒豆茶です。夜のカフェインは控えたいタイプの人間なもので。飲みます?」
「うん。飲んでみたい」
僕の返答を見越していたのだろう。鍋で淹れられた黒豆茶は、紙コップきっちり二杯分だった。そこへ氷を一個ずつ浮かべると、パックを捨てて鍋を洗い出した。まだ食べないのか。
待っている間に味見がてらお茶を一口飲もうとしたら、待てですよと言われた。僕は犬じゃないワン。
慣れた手つきで手早く鍋を洗って濯ぐ姿に感心する。普段からやっている人のそれだ。手を拭いてから渡されたプラスチックフォークを受け取ると、漸く待てから解放された。
「それでは、夜中のケーキに対する罪悪感と私の誕生日に乾杯」
「..わー。おめでとー」
お茶会ではなく、お誕生日会だったらしい。紙コップ同士を慎重に合わせて、簡素な立食パーティーが始まった。
実の所、苗字の誕生日を初めて知った。苗字が頑なに自分の誕生日を、社内の人間には教えたがらなかったからだ。
他人様からメッセージアプリを通じてお祝いの言葉を頂くことも、誕生日というだけでプレゼントを頂くことも面倒だから教えたくないらしい。それと同じくらい、他人様に同じ様に返さなきゃいけないのも、仲がいい人以外の誕生日を覚えること自体も面倒だとも言っていた。
だから、正子を過ぎた本日が苗字の誕生日だと不意に知らされて、内心それはもうめちゃくちゃ動揺している。
「本当に今日が誕生日なの?」
「はい。まさか私が余計な嘘をつく人間だとでも?」
「君は僕と性質が似てるからねぇ」
それは否定しませんと笑いながらレアチーズを口へ運ぶ顔を見る。ご機嫌の時の表情だ。随分と美味しかったのか、苗字はパクパクと食べ進めて、あっという間にレアチーズを完食してしまった。
「今年の目標はあるのかい?」
「もう叶ってます」
「果たしてそれは目標と言えるのかな?」
ちなみにどんな目標?
好きな人とケーキを食べるって目標です。
ピシリと音がつきそうな程に身体が固まって動けない。突き刺した最後の一口を口の中へ放れずにいると、苗字がフォークを持つ僕の手を掴んで、チョコレートケーキの王様をその口の中へと攫った。僕はただそれを見ていることしか出来なかった。
「要らないならお茶飲んでください」
苗字が向けてくるフォークの先でシブーストとやらが、僕に攫われるのを待っている。要らない。真っ直ぐな言葉通りの意味ではないだろう。
苦味と甘味と酸味が口の中で混ざり合うのを感じながら咀嚼を繰り返す。彼女の顔を見た。真顔で僕を見てくるが、これは驚いているんだろう。目が少しだけいつもより開いている。
「河村さんにも勇気ってあったんですね」
「失礼が過ぎるとは思わない?」
「だって河村さん、人間関係に関しては生粋のチキンじゃん」
はい。その通りです。ぐうの音も出ません。それでも、そんなチキン野郎が勇気を出したのだから、褒めてくれたっていいじゃないか。
心の内の抗議が顔に出ていたのか、皿に残っていた一口分のシブーストを、フォークで突き刺してこちらに向けてくる。
「これは勇気を出したご褒美です」
「それ最後の一口でしょ。食べな」
「じゃあ遠慮無く」
黒豆茶を胃に流し込む。飲み食いした後の残骸達をまとめて、証拠隠滅作業に入ろうとすると、苗字が口を開いた。
「河村センセー」
「何だね苗字クン」
「お慕い申し上げます。私と恋人という口約束を交わしてください」
受けて立とう。
僕が返した言葉に、レディファイッ。と乗ってきた歳下の恋人は、関係が変わってもその独特なノリは変わらない。それが楽しくて思わず笑みを零すと、胸ぐらを掴まれてグッと引かれる。
「これも、皆にはナイショで」
「..うぃっす」
ふに、と唇に当てられた女のコのそれは、いつか誰かが言っていたように、自分のものより柔らかくて甘ったるかった。