55. 淡雪
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私は、本当に泣き虫だ。
自覚もしている。
剣を手にしたって、心がどれだけ痛みに耐えられるようになったって、零れた涙は止める方法を知らない。
顔をあげてたらまさか、いま会ったら一番んな反応をすればいいか分からない人物がいるなんて。更に困惑してしまう。
「斎藤さん……っ」
原田さんが、斎藤さんは昨日から大坂に出張していると言っていた。
今日、戻ってくると聞いていたが、まさかこんな場面で出くわすなんて。
バッと顔を逸らして、ゴシゴシと目が摩擦で赤くなるくらい左手で擦った。
頼むから、そのまま立ち去ってほしい。
今ここで話しかけないでほしい。
何より今―――白狐になったところを見られた関係で―――拒絶をされたら、止めようとしている涙がまた溢れだしてしまう気がした。
だから、背中で全力で“立ち去ってくれ”という空気を出したんだけれど。
「…」
斎藤さんは、そのまま留めた足を一歩踏み出して、私に近付く。
あぁ、ダメだ。
もう終わる伏線が立った。
次に出てくる言葉は、白狐のことか。
それとも涙のことか。
どっちを聞かれたって、今の私には辛い―――。
「体調はどうだ」
「へ……?」
尋ねられると思っていたこととは、まったく違う質問。
気遣ってくれているような、優しい問い。
涙目をパチパチさせながら、正面にきた斎藤さんを見上げた。
まっすぐで、逸らせない視線。
ずっと追いかけていた人。
手が届かないと、触れることは許されないと思っていた人。
私の憧れで……私の……―――。
「怪我はもう、いいのか……?」
「あ……は、い……。まだ、痛みますけど……」
あまりにも唐突だったから、涙を流すことを忘れていた。
困ったというよりかは、気まずそうに視線だけを逸らしながら斎藤さんは短く“そうか”と答えた。
「ここで何をしているんだ」
次いで途切れた隙間を埋めたのは、再び彼の声。
辺りに広がる団子やら、あんみつやらの甘味と、永倉さんが用意した足湯。
中庭は夕陽に射されて日差しで温かかったけれど、周りはまだ雪化粧で、溶ける雪がキラキラと輝いていた。
「えっと、永倉さんが……」
「新八?」
「永倉さんと原田さんが、私を元気にするために足湯を用意してくれたんです」
ありのままを告げてみる。
深い色した瞳は、意外そうに目を開いていた。
「お二人は神社の警備に向かわれました」
「……そうか」
また、途切れた会話。
影が伸びる世界。
まるで二人だけのような世界に、僅かに滲む、霞んだ赤い日差しが射す。
それでも立ち去ろうとしない斎藤さんに、私は何か言わなければと思った。
用があるのか?
聞いてしまえば拒絶の意が見えそうで、それが怖くて何も言えない。
泣いていたことを誤魔化そうか?
何も聞かれていないのに、自分から切り出すほうが怪しいか。
白狐に化けたあの日のことを話すべきか?
いや、見苦しい場面を掘り返す勇気なんてない。
結局何も言えずに俯けば、やはり言葉を差し出してくれたのは彼だった。
「―――……すまない」
「え?」
「すまなかった」
風は、春に向かっているからといってもまだ冷たくて。
憧れた彼の白い襟巻を靡かせる。
まとめられた髪も風に揺らげば、日差しが彼の表情を映しだした。
―――また、泣きたくなった。
どうして。
どうして貴方が謝るんですか。
心に留めた気持ちを口から出す前に、涙が零れた。
どうして涙が出るんですか。
嗚咽に掻き消された言葉。
同時にどうしようもなく気付く。
彼は、私にとって本当に偉大で、大事なんて簡単に言えるような存在じゃなくて。
大事よりも、もっともっと言い表せないくらい、大きな存在なのだと。
第五十五幕
淡雪
泣きだした茜凪に、今度は斎藤が顔をしかめる番だった。
謝罪の直後に泣きだされては、真意を汲み取るのが難しい。
どんな意味で泣いているのかを考えつつ、もう一歩足を踏み出した。
刹那、斎藤の耳に茜凪が届いた。
「なんで謝るんですか……?」
「…」
「あの夜も……斎藤さん謝ってくださいましたけど…っ、私謝ってもらわなきゃならないこと、されてません」
格好悪くならないように、茜凪がもう一度涙を袖で拭った。
それでも、先程別のことで流した涙があるせいで、涙腺は緩いまま。
結局耐えられなくて、たくさんの意味をもって流れてくる涙が溢れた。
「腕のことも、何もかも、斎藤さんが悪いなんて思ってません……」
「…」
「斎藤さんは私の憧れですし……」
「……では、何故泣いていたのだ」
「それは……」
斎藤からしたら、不思議でたまらないようだった。
屯所に戻って来て、土方への報告を終えてみれば、普段人があまり立ち寄らないような中庭の隅で桶に足を突っ込んだ茜凪の姿があった。
指先に力が入らないことを悔いるように手を見つめてから、悔しそうに唇を噛む姿が見えたのだ。
剣を握れないことを、悲しがっているように見えて仕方なかった。
顔を俯けて動かなくなった彼女に声をかけることは不安だったが、それでも逃げられるはずなんてないと斎藤は一歩を踏み出す。
詫びを告げれば、やはり狐である彼女はあの半月前の夜と同じく、彼を許し続けた。
「ぜんぶ……変わっていってしまうから……っ」
聞かれたので、答えたというように茜凪は涙の理由を告げる。
斎藤が懸念していたこととは別のものに涙を流していたのだと、彼女は言った。
いまいちそれだけでは理解できずに首を傾げそうになったが、継いで茜凪が放った言葉は……どこか理解が出来たのだ。
「さっき、菖蒲と水無月がきて……水無月は菖蒲のことが前から好きで、ぜんぶ解決した今、二人はこれから幸せになっていって……」
「…」
「菖蒲は今はまだ藍人を思ってくれてるけれど……でもいつかやっぱり水無月と婚姻を結んで……幸せになって……」
「…」
「応援してないわけじゃないんです、でも、菖蒲の隣にいるはずだったのは藍人で……っ」
「…、」
「私は……私がしてきたことは……藍人にとって、菖蒲にとって……ッ」
形を変えて行く世界。
関係を変えて行く茜凪たち。
「影法師や七緒たちと話しあって、藍人があのまま存在できたら……菖蒲も今すぐに幸せを掴めたんじゃないかなって……」
「…」
「水無月は願いが叶ったと思うけど……でも本当に喜んでいるかっていうときっと違って……」
「……―――」
「私が過去にほしかった未来は……来ないと分かってるけれど……っ」
藍人が消えた世界で、一番責任を感じて生きているのは茜凪だ。
それは終わりを迎えた今も、昔も、これからも。
「私がしてきたことは……正しかったのかなって……ッ」
涙ながらに吐きだした不安。
これがずっと引っ掛かっていたこと。
菖蒲や水無月がここを訪ねて来たことで、更に強くなった気持ち。
藍人がいれば、きっとみんなが幸せになれた。
彼に守られた事実は変わらない。
彼を失ったことも、奪ってしまったことも変わりはしない。
変わっていく……藍人がいなくなった世界。
妖の王とされてもおかしくない彼が消えたことで、既に世界は一つの姿を変えていたことも、気付いていた。
藍人を成仏させるため、魂を解放するため。
彼の死を解き明かすため。
新選組を守るために戦ってきた。
その一つひとつの行動が、今、責められている気がしてならない。
彼女のいろんな思いが絡まった複雑な感情が訴えた。
―――斎藤は、だからこそ告げる。
「時が流れれば、全てのものが形を変えて行く」
「…っ」
「それはあんたに限らず、俺も、俺の周りもそうだろう」
雲の切れ間から射していた陽が、途切れた。
幻想的な赤の中に降り始めたのは、この冬最後の雪だった。
淡く散る雪。
ひらひらと舞い落ちて、茜凪と斎藤のいる中庭に儚く消えた。
「それでも、変わらないものがあると俺は……―――信じている」
「変わらないもの……?」
「あぁ」
落ちて来た雪を見つめて、斎藤は微笑んだ。
―――どんなに長い時間が経っても、変わらないものがあるというのか。
「あんたと烏丸が互いを信じ合う仲であることは、そう簡単に途切れるものではないだろう」
「烏丸と……」
「それは明日も、そしてこの先も続くはずだ」
同じ事。
視線でそう続けられる。
「変わっていく中に、変わらないものを見つけた時。あんたにも答えが見えるのではないか?」