54. 変わりゆく姿
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ズキズキと痛む体が、だんだんと和らいでいく中。
温かい人肌に触れて、耳元に落ちてきた声があまりにも切なそうに囁くのを聞いていた。
すまない。と告げた男の声が、耳に張り付いた。
どうして、斎藤さんが謝るんですか。
あなたは私を生かし、私に真っ直ぐ歩き続ける力をくれたんです。
どうかそんな悲しい声で、切ない声で私を呼ばないで。
言葉を発したとて、今の姿と声で意味を汲み取ってもらえるはずもなくて。
だから寄り添い、慰めるように彼の頬を何度も舐めた。
それしか出来なかった。
記憶の片隅に残った宵闇。
次に目を覚ましたのは、どれくらい時間が経過していたのだろう。
皆目見当がつかなかったが、彼は隣にいなかった。
「さい……とう、さん……」
見慣れたはずの天井が、ひどく懐かしい。
また屋根に積もった雪がドサリと落ちる音が頭上に響く。
口から自然と出て来たのは、自分が憧れている―――そう思い込んで、本心に気付けていない―――斎藤の名前だった。
部屋には誰もいなかった。
ただ残された静寂が、平和な日々を連想させる。
雪化粧の中で小鳥が細い枝に集まって囀っているのを見れば、春がもうやってくる気がした。
長かった“冬”。
心から桜を喜んで眺めるのは、藍人が死んでから初めてだろうなんて思った。
首と、腹部……何より右腕がまだ、痛い。
それでも起きあがることに支障がない程度にまで回復した。
あの日……傍にいてくれた斎藤に、白狐の姿を見せてしまった斎藤に、どんな顔をすればいいんだろう。
カタカタと痙攣しているように、小刻みに震える右の指先を見つめながら考えていた。
「あ……」
傍らに置いてあった小道具の箱にたまたま目が付いた。
刀の手入れ道具であり、とても年季が入っているようにも見える。
研ぎ石や打ち粉が減ってきているのを眺めながら、ここに先程まで誰がいたのか容易に想像出来た。
思わず畳に触れる。
温度は、ない。
去ってからそれなりに時間が経っていたんだろう。
「……」
春は、もう近い。
頭の端っこでそんなことを思いながら、障子の隙間から覗く中庭を見つめていた。
第五十四幕
変わりゆく姿
「茜凪さんッ!」
稽古を終え、巡察の仕度をしていた時のこと。
原田と平助、沖田は廊下の方からバタバタと騒がしい声を聞きつけて顔を見合わせた。
どうやら千鶴が荷物を放りだして、何かに声をかけているらしい。
何事?と思った刹那、飛んできた名前に平助が肩を跳ねさせ、駆けて行く。
「茜凪!?」
起きたのか?なんて誰もが思いながら、沖田も原田も平助のあとへと続く。
騒がしい廊下の方へと足を赴ければ、手すりに掴まりながら部屋から広間の前まで歩いてきたのであろう、茜凪の姿。
そしてそれを案じる千鶴の姿が確認できた。
「茜凪さん、無理しないでください!まだ……」
「だ……いじょうぶ、です」
「茜凪!」
「起きたんだね、茜凪ちゃん」
千鶴があわあわしながら、白い夜着のままで歩いてきた茜凪の体を支える。
茜凪は寄ってきた沖田や原田、平助に笑いかけた。
「沖田さん…。藤堂さん、原田さん…」
「お前、大丈夫か!? 約二月も眠ったままだったんだぜ!」
「あはは……そうみたいですね」
「笑い事かよ……。もう起きあがって大丈夫なのか?」
平助は彼らしく、大きな声で騒ぎながら茜凪の傷を確認していく。
原田は相変わらず冷静なまま気遣ってくれ、笑顔が自然と零れてしまった。
一方の沖田はここにいない人物を思い、くすりと笑みを浮かべつつも、困ったように茜凪に声をかけたのだった。
「おはよう、茜凪ちゃん」
「おはよう、ございます。沖田さん」
「体はどう?まだ辛そうだけれど」
そこでさすがに“もう大丈夫です”とは言えなかった。
痛みはあるし、歩くのもまだ覚束ない。
理由は体が鈍ったのもあれば、意外にも膝に負傷を負っており、傷の痛みから足を引きずることになっていたのもあった。
「そーだよ!総司の言う通りだって!寝てたほうがいいんじゃないのか?」
平助は茜凪が意識を取り戻しただけで喜んでいるが、無理をさせるのはどうかと思う、と続けてくる。
対する原田は、茜凪の真意を汲み取っていた。
体を引きずってでも部屋から出て来たというのは、――部屋に誰もいなかったのもあるだろうが――出てきてまで成すことがあったのだろう、と。
「茜凪、どうしたんだ?」
「え……」
「誰か探してたんじゃないのか?」
図星だったようだ。
少なくとも、ここにはいない人物を探していたようで。
原田と沖田は誰であるか、即座に読みとっていたが答えを出すことはしなかった。
茜凪は迷いつつ、口を開く。
「えっと……」
自覚はしていたのか、していなかったのか。
本能に気付いていないというべきか。
彼女は無意識のうちに目的の男を探し求めていたというのに近いのだろう。
「とりあえず、部屋に戻りましょう? お茶とお薬をお持ちしますから」
「あ……はい……」
体を支えてくれていた千鶴に促され、茜凪はそのまま元来た道を戻り始める。
付き添ってやる、と原田が千鶴についていけば、残された沖田と平助は後ろ姿を見つめていた。
「茜凪、誰か探してたのかな?」
「そうだろうね」
何も知らない平助は、あの男が何を気にしていたのかも、彼女がどんな想いで彼を見ているのかも、知らないだろう。
鋭い沖田は口角を上げつつ、猫のように笑って見せる。
「でも一君、今朝から伊東さんたちと大坂に行ってるから帰ってくるのは明日だよね、早くても」
「あぁ……。ん? 一君?」
沖田の言っていることは正しい。
今、斎藤は伊東一派と山崎と共に大坂に新入隊士の募集に向かっている。
帰ってくるのは早くても明日になるはずだ。
しかし、沖田の脈絡を掴めなかった平助は、出て来た斎藤の名前に首を傾げた。
「ほら、戻るよ。平助」
るんるん、という音が似合いそうな足取りで沖田が木刀を置きに行く。
平助は未だ原田と千鶴、それから足を引きずり部屋に戻る茜凪を廊下から見つめていたが、やっと気付いたように声をあげた。
「おい待てよ総司!もしかして茜凪、一君を探してたのか!?」
今更遅いよ。なんて思いながらも、沖田は返事をしなかった。
少しのすれ違いで、再会を引き延ばしにされてしまった二人を、沖田は楽しそうに思いやっていたのだった。
一方、部屋に戻された茜凪はお茶と薬を取りに行った千鶴を待ちながら、原田に寝かしつけてもらっていた。
浮かない顔というよりかは、どこかソワソワしている感じ。
だからこそ、よく出来たこの兄貴分は優しく髪を撫でつつ聞いてやったのだ。
「斎藤を探してたんだろ?」
「……っ」
「アイツは今、大坂出張中なんだ。明日には戻ると思うから、それまで待っててやってくれ」
「今朝はここにいらっしゃったんですか……?」
「ん……?あぁ、多分な」
―――あんな姿を見せたのに。
冷静になって考えてみれば、斎藤はどこまで何を考えているのか。
不安が過る。
「斎藤さん……、私のこと、何か言ってましたか……?」
ポツリ、と出て来た言葉はあまりにも臆しているようだった。
原田がその声音に目をぱちくりさせてから、笑う。
「すごく心配してたぜ」
「……それだけですか?」
「まぁ、あいつ元から口数少ないしな。特に何も聞いてないが」
「……」
妖狐になったことを誰にも話していないのだろうか。
あんな姿を見られたもんだから、てっきり軽蔑や虐げられる覚悟はどことなくしていたのだけれど。
それも本人に会ってみなければ分からない。
「とにかく意識が戻ったのはいいことだが、まだ歩くのさえ辛いだろ?ゆっくり休めよ」
「ありがとうございます……」
「明日は近くの神社で催しがあるからそっちの警護に当たらなきゃならないが、今日は非番だからな」
俺でよければ、相手してやるよ。と告げてくれた原田。
布団を口元まで被りながら、茜凪は心地よさそうに目を閉じる。
頭を撫でてくれるゴツゴツした手が、優しい。
斎藤とは違う、感覚。
そう、斎藤はもっと繊細で細くて、華奢に見えるけど力強くて……。
…………。
「(私、気付いたら斎藤さんのことばかり考えてる……)」
どことなく気まずくなり、頬を赤く染めながら視線を逸らす。
原田は赤い顔を見ながら“熱か?”なんて言っていたけれど、茜凪は狸寝入り―――いや狐寝入りを決め込んだのだった。