44. 翡翠の簪
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力を得てからの生活は、特にこれと言って変わることもなかった。
ただ、京で起きていた辻斬り事件は人間達の間ではほとぼりが冷めたように感じられていた。
仕掛けとしては茜凪や烏丸が、人を斬られる前に相手を斬っていただけなのだが。
敵方……つまり藍人は、何かしらの目的で動いていることには変わりないだろうが、式神が斬られているということを察知したのだろう。
まるで姿を眩ますように、仕掛けて来なくなったのだった。
藍人の式神が現れなくなりつつも、放たれていた残党を倒しながら茜凪と烏丸はある一人の人物に再会した……―――。
京の中心部の裏路地。
式神の気配を感じ、屋根伝いに駆け抜ける。
後から追ってくるだろう烏丸を思いながらも、茜凪は先に目的地に辿りついていた。
屋根から飛び降り、着地した角。
いるはずだと思っていた敵は……いなかった。
正確には、消滅していた。
「えっ」
「あ?」
代わりにあったのは、真っ白な紙が雪のようにヒラヒラと舞う中、一人の男が立っていたのだ。
少年とも青年と言えるだろうが、顔つきはまだどこか幼い。
そして、何より見覚えがあった。
「あなたは……」
「お前……っ」
名前の通りの琥珀色の瞳。
幼い頃より変わらない顔立ち。
そして声変わりしつつも、どこか初めてあった時のままの雰囲気……。
彼は―――
「狛神……琥珀……?」
「お前、春霞 茜凪か……?」
そう。
式神を斬ったであろう証拠と、そこにいたのは旧知の知り合いだった。
初めて出会った時以来、顔を合わせることなどなかったが。
式神と妖、そして新選組を巡る戦いは数奇な運命の下、彼らを再開へと導いた。
第四十四幕
翡翠の簪
「どっかで見たことのある顔立ちだと思ったが……お前、春霞 茜凪だろ」
「今は楸です」
「つーか、生きてたんだな。死んだって聞いてたんだけど」
随分と口調が荒々しくなってはいたが、彼もまた大人へと成長していた。
茜凪は気にすることなく、彼の血を吸うために突き立てられた血だまりと刀を見つめる。
そうか、彼が―――
「あなたが私たちより先に契りを結んだ妖ですね」
「なるほど。ここんとこ随分と数が減ったと思ったが、お前も“こっち側”か」
即座に状況を判断した狛神が、厳しい視線で茜凪を見つめる。
確かに強くなってはいたが、恐らく戦えば茜凪の方が上を行けると感じた。
特に答えを返さずに、狛神の問いは続いた。
「春霞……じゃなくて、今は楸か?お前も契りを結んだってことだな」
「はい。あなたが契りを結んだ後に」
「ってことは、藍人の悪行を知ってるわけか」
「あなたはそれを止めるために?」
「あぁ」
血を吸いきった刀を鞘に納めて、狛神は続ける。
「妖の間でも持ちきりだ。三頭だった藍人が、人間に手を出し始めたってな。噂の中で北見は汚名だらけだぜ」
「……」
「俺は藍人がそのまま汚名を被って妖の間に語り継がれるなんて、御免だからよ」
「……」
「死んだことすら、信じらんないのに」
狛神は藍人を慕っていたことは、あの日から念頭に置いてある。
変わらずに成長してくれた彼にどこか喜びを覚えたが、今はそんなことを言っている暇もない。
伝えてしまえば場違いだろう。
「にしてもお前、随分落ち着いたな」
「あなたと初めて出会ってから、何年経ったと思ってるんですか」
「そーだけど。テメェが差し出したものが関係しているのかと思ったから聞いただけだ」
「……―――」
「ま、俺には関係ねぇからいいけど」
そのまま立ち去ろうとする狛神。
悔しかったわけじゃないが、茜凪は静かに問い返した。
「あなたが失ったのは、色彩ですか?」
「……」
沈黙が、重たかった。
返事はすぐには返されない。
間を置いて、毒舌が笑う。
「そうだな、お前の情報網はバカに出来ないってことは覚えておくぜ」
「……」
「今じゃもう、これが正常だ。異常な世界を正常が占める」
嘲笑いは、何に向けられたのか。
彼の憧れは藍人だった。
それを救い、汚名を返上するために彼は動くという。
「お前もいつかこうなるぜ」
彼の忠告は痛み入った。
いつか、自分にも異常が正常である日が訪れるのだろう、と。
「念頭に置いておきます」
狛神はそのまま去ろうと茜凪に再び背を向けるが、彼の前に一人の影が降り立つ。
狛神とその相手はやはり久々の再会だっただろう。
「茜凪!って、お前……狛神……!」
「なんだ、烏丸の馬鹿か」
どうやら茜凪よりも再会が浅いらしく、絡み方は決まっているようだった。
こう思うと、狛神の毒舌さが発揮されているのを目にするのは、これが初めてだったかもしれない。
ギャーギャーと言い争いをしつつ、ようやく立ち去った狛神。
烏丸は本気で――といっても心が無いのでノリで――反論していたから、肩でゼエゼエと息をしていた。
「狛神だったんですね。私たちの前に契りを結んでいたのは」
「まぁあいつなら分からなくもないぜ? 藍人のこと慕ってからな」
この再会は、やがて茜凪や烏丸への忠告とも言えるものだった。
異常な世界が正常性を発揮する。
つまり、早く片付けないと……―――。
「帰りましょう、烏丸」
「……あぁ」
藍人が式神を放っていることは分かっている。
しかし、依然として彼が何の目的で人を狙うのかは分からないままだった。
そして死んだ真相も、誰が藍人を殺したのかも。
表向き、結局茜凪の言葉は聞き入れられず、新選組の沖田が藍人を殺したことになっている。
しかし、どんどんと物語りは覆りを見せていく…。
それからほどなくして、耳にした噂では水無月が血の契りを結んだということ。
詳細は何も伝わってこなかったが、彼は式神を斬る為の力ではないらしい。
別の何かを、何かを達するために望んだ力だと聞いた。
だから、水無月は式神が斬れない。
いろんなことが混ざりあい、それぞれの事情で動き始める……。
そして―――慶応二年 十月。
彼女たちは、ようやく多々良 七緒、そして藍人の消息を掴むのだ。
狙いが“新選組”そして“雪村 千鶴”を始めとする、藍人が生前親しかった人や関係を苦しめるためであると知る。
繋がったのはこの時だった。
藍人はまるでこれから起きることを知っていたかのように、茜凪に“新選組を守って”と告げた。
だから……茜凪は現れたのだ。
西本願寺の境内の前に。
「“新選組を守って”」
本堂から外れた個所に、新選組が屯所として構えていたのは知っている。
斎藤が彼女を目撃したのは、この時だった。
「藍人」
目を伏せ、斎藤がこちらに気付いたことに察すれば、ゆっくりと、でも確かに踵を返して。
「約束を、守ります」
境内の真正面に現れた式神を斬り裂いた―――。
◇◆◇◆◇
―――次に新選組の幹部達が気がついたのは、長く感じられた過去のことが映像として途切れた時だった。
状況は何一つ変わっていない。
攻撃を受けた茜凪と烏丸の血溜まりが、土方や沖田たちの足元まできて、先程まで脳内に映し出されていた映像が見えた。
斎藤は悟る。
“血に触れるな”と告げたのは、彼女の思念や過去に感じたことが全て伝わってしまうからだと。
「茜凪……烏丸……っ」
菖蒲が脅えた表情で声をかけるが、終結の刻印を影で貫かれた二人は全く反応を示さない。
その姿を見た七緒が嘲笑するのだった。
「無駄よ、呼びかけたって」
「何をしたッ」
原田と永倉が怖い顔して睨みつければ、七緒はクスクス笑う。
ゆっくりと長い指を烏丸の頬に這わせて…告げるのだ。
「悪夢を見ているの」
「悪夢……?」
「影が持つ力は闇。闇は人間や妖に関わらず、その者にとって一番恐ろしい幻想を見せる」
「そんな…ッ!」
「この二人は妖としての実力でいえば、それなりに厄介よ? 特に烏丸はね」
立ち上がり、倒れ込んだ烏丸の腹部を蹴りあげながら、七緒はどこまでも楽しそうに笑うのだ。
「楸なんて一族、無名に等しいけれど。烏丸の力は馬鹿にできないもの。だとしたら―――」
ふと、そこで違和感を千鶴は感じていた。
今まで脳内で巡って来た過去の出来事の中で今、一つ引っ掛かった。
七緒は、茜凪の正体を……―――?
「精神から崩壊させていくべきよね」
「ひどい……」
茜凪に守られ、難を逃れていた千鶴は立ち上がり、真っ暗な空間の中で小太刀を抜く。
菖蒲が不安にかられながらも、その光景を見つめた。
「やめろ千鶴!」
「……何?私と戦う気?あんたが?」
「今すぐ茜凪さんと烏丸さんを解放してくださいっ」
「へぇ」