淡い色の夢を見る
風に聞いた話によると、下級生から見た五年生は、組の隔てなく仲の良い「仲良し学年」らしい。
確かに、現一年生のい組とは組ように学級で個性がはっきりと別れたがために組同士で歪みあった、というようなことはない。個人間でも、現四年の滝夜叉丸と三木ヱ門の様に、似通った性質を持つ者同士でぶつかり合い、言い争ったこともなかった。
組の隔てなく仲が良いといえば、ろ組の竹谷八左ヱ門は、い組の尾浜勘右衛門と、今だに忍者ごっこをして戯れることがある。更に、学年全体でも、これまでに授業で学び、身につけた様々な忍法を用いた本気の隠れんぼをして遊ぶこともある。もっとも、隠れんぼに関しては、相手の術を見破る目を養ったり、相手の目を欺くために工夫を凝らしたりと、自身の技術を磨く鍛錬という側面も担っている。
下級生の話題に上る程の仲の良さ。それは、偶然にも穏やかな性格の者が集まったことと、他学年にも被害を及ぼすような大きな喧嘩というものがこれといってない故だろう、と八左ヱ門は思った。
仲が良いということに関していえば、忍術学園の生徒は皆、基本的に距離が近い。学年の差はあれども、入学してからは農繁期等の長期休暇を除けばずっと、学園内で顔を合わせている。同学年であれば部屋を同じにする者もある。実の家族よりも長い時間を共に過ごしているそのような環境下の中で、心的にも物理的にも、距離が近くなるのは当然の範疇だろう。
先生方は、同性、忍たま同士であれば、気安く肩を抱き合う者達を見ても、一枚の文書を読むのに顔を寄せ合う者達を見ても、何事もないような風でいる。もっとも、異性のくノ一に対して同じようにしていれば、弁えろ、などと口を挟むかもしれないが。
皆が皆、身内のように同性間の距離が近い学園生活を送っていると、人同士の正常な距離感というのがわからなくなってくる。
──
放課後。五年ろ組の教室の前で、開けた戸に手をかけて顔を突き出し、室内を見渡す人物が一人。五年い組の久々知兵助だ。誰かを探しているらしい。
兵助は教室内を一通り見て、俯いた。目当ての姿はなかった。戸から手を離し、身体を半分、廊下へ向ける。上げた目線の先に見えた人物を認識し、表情がぱぁと明るくなった。
「八左ヱ門!」
兵助が呼んだのは五年ろ組の竹谷八左ヱ門だった。八左ヱ門は、教室の並ぶ廊下の端から、丁度出てきたところだった。兵助の呼び声を聞き、片手を挙げている。
「おー、兵助。なんだ? どうかしたのか」
八左ヱ門は、兵助のもとへと歩みを進めながら訊いた。
「さっき、 焔硝蔵 で火薬の在庫確認をしていたんだけど。木棚の下段の隅で何か物音がするなと思って覗いてみたら、子猫がいたんだ。保護しようと思って近づいたら、震え出しちゃって、可哀想で。八左ヱ門に頼ろうと思って」
兵助は火薬委員会に所属しており、学園内の火薬の使用管理や保管などの業務を担当。八左ヱ門は生物委員会に所属しており、学園内で飼育している生物の世話を焼いている。二人は、六年生の委員長の居ない委員会で、委員長代理を勤めている。
委員会活動中に子猫を見つけた兵助は、その捕獲を、生物の扱いに慣れた八左ヱ門に依頼しようと考えたらしかった。
「なるほどなぁ。ところで、子猫は何匹いたんだ?」
「一匹。乳飲子ってほど小さくないけど、まだ毛がぱやぱやしてた」
「うーん、それくらいだと好奇心旺盛に辺りを散策し始める頃だな……。間違って迷い込んだのかも」
「どうしよう、八左ヱ門……」
「とにかく、焔硝蔵へ向かおう」
八左ヱ門は、眉を下げて不安そうにする兵助の肩へ心配するな、と手を置き、促した。二人は焔硝蔵へ向かって駆け出した。
兵助と八左ヱ門は顔を向き合い、焔硝蔵の分厚く重い蔵戸に耳を立てた。中からは何も物音はしなかった。二人は目で相槌を打つ。
兵助は蔵戸にかけてあったからくり錠を手に取ると、表に見える鍵穴へ、もう片方の手に持った二本の棒鍵のうちの一本を差し込んで捻った。抜き取ると、次に、錠の右横にある鍵穴へ、残りの棒鍵を差し込む。広がっていた板バネが、鍵に押さえつけられて狭まった。鍵を捻 ると板バネが外へ押し出され、弦つるが抜けた。
焔硝蔵では貴重で高価な硝石を材料とした黒色火薬等、様々な火薬を保管しているために、盗難防止を目的として、簡単には開錠できない、からくり錠で施錠している。一見には 和錠 にしか見えない。
兵助は蔵戸を押し開いて中へと入る。八左ヱ門も後に続いた。蔵戸の裏には火気厳禁という張り紙がされている。
壁、天井、床が石造りとなっている焔硝蔵の中は、ひんやりとした空気で満ちていた。少しの肌寒さを感じる。八左ヱ門は、前回の予算会議で、焔硝蔵の中は火が使えないから冬は寒くてたまらない、という理由から甘酒代を予算として 計上 した、火薬委員会委員で歳上編入生でもある四年は組の斉藤タカ丸の気持ちが少し、分かった気がした。
石垣で造られた壁に沿って、コの字の一辺それぞれに四台ずつ横並びに備え付けられた木棚には、火薬壺が整然と並んでいる。
子猫は人の入ってきたことに驚いたのか、壺の間でモゾモゾと身体を動かした。爪を立てたらしく、木を引っ掻くカリ、という音が微かにした。
「まだいるみたいだな」
「そうだね」
八左ヱ門の言葉に、兵助は頷いた。
にーにー、と子猫が鳴く。兵助は八左ヱ門に倣い、片膝を立ててしゃがんだ。斜め前にある少し丸まった八左ヱ門の背中に片手を添えて、子猫の様子をそっと伺う。二人は、焔硝蔵の中に光を入れるため少し開けたままの蔵戸を背にしている。
「怖くないぞ〜」
八左ヱ門は小声で微笑みかけながら、木棚の一番下の段、火薬壺の間で強張る子猫の鼻先へ向けて、下からゆっくりと指を近づけた。近づけた指は無闇に動かさない。
警戒体制で身を伏せていた子猫は一旦鳴き止み、鼻先に差し出された八左ヱ門の指の周りで 外鼻孔 をしきりにヒクヒクとさせた。
「おほー! 鼻息がくすぐったい」
声量は抑えているが、なかなかに興奮しているようだった。
「いまこれ、何してるんだ?」
「手の匂いを嗅いでもらってる。触ろうとして、いきなり、上から手を下ろすのは厳禁なんだ」
兵助は身を乗り出した。八左ヱ門の背に、胸をひたと当てて訊く。
「どうして?」
「ん〜、兵助。自分よりも体格が良くて上背のある知らない人の手が、頭上から降ってくるところを想像してみて」
八左ヱ門は兵助に顔を向け、下級生に話すような優しい声色で言った。
兵助は目を瞑り、八左ヱ門の言った場面を空想した。
「……ちょっと怖い」
兵助の答えに、八左ヱ門は声を立てないで笑った。
「そういうこと。自分より背の低い生き物と接するとき、まずは、敵じゃない、大丈夫だよって安心してもらうことが大事なんだ」
兵助はこくりと頷いた。
指先に温かいふわふわとしたものが触れた感覚がした八左ヱ門は、顔を前へ向き直した。差し出したまま動かさないでいた指先に、子猫が頬を擦り寄せている。首を伸ばして、うりうりと頭部を動かしている。どうやら、匂いを嗅いで警戒を解いてくれたようだ。
「怖くないってわかってくれたのか〜」
八左ヱ門は言いながら、上を向いて目を細める子猫の喉を指先で掻いてやる。様子を見ながら、掻く指を二本三本と増やしていく。もっとして、というように、子猫はゆったりと前足を踏み出して、身を起こした。
「気持ちいいか〜。そうか〜」
頬が自然と綻 ぶのが分かる。生き物好きとしては、小さな命と接し、またその尊い存在から求められるのはこれ以上もない幸せだった。
八左ヱ門は、差し出していた手をゆっくりと自身の方へ引いていく。子猫は八左ヱ門の手を求め、後ろ足を上げて立ち上がった。手に引かれるように、一歩また一歩と踏み出す。
「すごい。全然怯えないでこっちへ来る」
そう感動の声を上げて肩を抱いてきた兵助を振り返り、八左ヱ門はへへんと得意気に鼻を鳴らした。
「よしよし、いい子だ〜! おいで」
火薬壺の間を通り、八左ヱ門の掻きを求めて、子猫は木棚からひょっこりと頭を出した。八左ヱ門は床に尻をつけ、胡座をかいた。兵助は肩を抱いていた腕を下ろし、八左ヱ門に半身を向けて、横から両膝を床につけて正座した。
「そのまま登っておいで」
八左ヱ門は子猫の喉元から手を離し、自身の太腿を叩いた。子猫は立ち止まり、八左ヱ門を見上げて小首を傾げた。パッチリとした瞳には少しの躊躇いが見えた。
「安心して? 八左ヱ門は信頼のできる心優しい男だよ、決して君を傷つけたりなんてしない」
子猫の背を押すように、微笑みながら兵助は言う。その言葉は、本心から出たようにあたたかな温度をもっていた。
子猫は兵助を振り向き、にー、と鳴いた。怯えの声ではなかった。わかったよ、と言っているようだった。
八左ヱ門は子猫を腕に抱いて立ち上がる。兵助も続いて立ち上がった。
「この子、どこから入って来たんだろう?」
兵助は八左ヱ門の腕の中で落ち着く子猫を見ながら疑問を投げかけた。
「おそらく……」
八左ヱ門は、焔硝蔵の蔵戸をコの字の開いた部分としたとき、コの字の下線に位置する木棚のおおよそ中央、二台目下段へ身体を向けて指をさした。
「あの通気孔からだろう、はめ網が外れてる」
「ほんとだ。いつの間に……」
八左ヱ門の指さす通気孔は、火薬壺の間で長方形にぽっかりと口を開けていた。子猫ならば楽々と侵入できる幅があった。対面の壁の同じ場所にも通気孔が設けられているが、そちらにはしっかりと銅製の網がはまっていた。
────
兵助は残りの火薬の在庫確認を済ませ、子猫を連れて一足先に自室へと帰って行った八左ヱ門の一人部屋を訪ねた。
沈み始めた夕日は、まだ、空に留まっていた。
「八左ヱ門」
「兵助、入っていいぞ」
部屋の主から入室の許しを得た兵助は、そろりと戸を開け、物音を立てないで部屋に入った。
「ありがとう、助かったよ」
「いやいや、どういたしまして」
八左ヱ門の敷いた座布団の上で、すーすー、と子猫が寝息を立てていた。
「かわいい……」
八左ヱ門の隣に座った兵助は、子猫の寝顔をまじまじと眺めた。時折、耳がぴくりと動く。身体を横に向けて眠る子猫の腹部が、呼吸に合わせて上下する。
「あの後、連れ帰ってから、自由にさせてたんだ。あたりにある虫籠を覗いてみたり、文机の下に入ってみたり。ちょろちょろと部屋の中を見て回ってるなと思って放っておいたら、知らないうちに眠ってた」
ははは、と笑いつつ、八左ヱ門は言った。子猫を起こさない程度に、声量は抑えている。
「そうなんだ。知らない場所に迷い込んで、不安で疲れてたのかな」
「そうだろうな〜」
二人は、子猫を優しく見守りつつ微笑みあった。
「……この子、どうしよう。部屋で飼う?」
兵助は八左ヱ門に訊ねた。
八左ヱ門は顎に手を置き、軽く首を捻る。
「飼えなくはないけど、ただでさえ部屋が狭いから……。それに、どこかで母猫がこの子を探してるかもしれない」
「そっか。うーん」
「とりあえず今日はここで面倒を見て、明日に外へ出してやろうかな」
兵助は八左ヱ門の考えに同意し、頷いた。
明日にはさよならしてしまう子猫との別れを惜しみたい、という兵助の思いを受けた八左ヱ門は、長居する兵助に自室へ帰るようには言わなかった。八左ヱ門は、子猫と向き合うように横たわる兵助に背を向けてしゃがみ、室内で飼育している虫達の餌やりをする。
「ほ〜ら、お前達。ご飯だぞ〜、いっぱい食え」
虫達は、与えられた餌に群がり、小さな口でがぶがぶと食いついた。
「元気でよろしい!」
飼育する虫達の食欲旺盛な様子を見て、八左ヱ門は満足そうに笑った。
「兵助?」
一通りの餌やりを終えた八左ヱ門は、肩口から首を向けて振り返り、兵助の名を呼んだ。
「…………」
兵助からは返事がなかった。八左ヱ門は立ち上がり、結んだ髪を床に垂れ、片腕を枕にし、膝を軽く曲げて横たわる兵助の背後からゆっくりと近づいた。
兵助は目を瞑っていた。胸が静かに上下している。どうやら、子猫の寝顔を見守るうちに、つられて眠ってしまったらしい。
「へいすけく〜ん」
八左ヱ門は兵助の背後でしゃがみ、少しふざけた調子で兵助の名を呼んだ。答えの返ってこないことはわかっていた。ただ、名前を呼んでみたかった。
部屋の格子窓から差し込む陽が、兵助と子猫を暖かな橙色に染めている。八左ヱ門は兵助の寝顔をしばらく眺めた。眠る兵助は、普段よりも幼く感じられた。閉じられた瞼の先で時折、長い睫毛が揺れる。その様子が、なんとも言えないくらいに胸に刺さった。
頬にかかっている横髪を指先ですくい、そっと耳に掛けてやる。ぴくり、と兵助の身体は動いた。
────
部屋の前で足音が止まった。
「八左ヱ門、居るか?」
閉めた戸から、呼ぶ声がする。兵助と同じい組で同室の、尾浜勘右衛門の声だった。
「勘右衛門。どうかしたのか」
八左ヱ門は言いつつ、戸へ向かった。
「兵助見なかった? もうすぐ夕餉だってのに、部屋に帰ってこないし。どこ探しても姿がなくて……って……」
開けられた戸の奥で、横たわる兵助の後ろ姿を八左ヱ門の肩越しに見た勘右衛門は、言い終わらないうちに、驚いたように目を瞬いた。八左ヱ門は眉で八の字を書き、ははは、と笑った。
確かに、現一年生のい組とは組ように学級で個性がはっきりと別れたがために組同士で歪みあった、というようなことはない。個人間でも、現四年の滝夜叉丸と三木ヱ門の様に、似通った性質を持つ者同士でぶつかり合い、言い争ったこともなかった。
組の隔てなく仲が良いといえば、ろ組の竹谷八左ヱ門は、い組の尾浜勘右衛門と、今だに忍者ごっこをして戯れることがある。更に、学年全体でも、これまでに授業で学び、身につけた様々な忍法を用いた本気の隠れんぼをして遊ぶこともある。もっとも、隠れんぼに関しては、相手の術を見破る目を養ったり、相手の目を欺くために工夫を凝らしたりと、自身の技術を磨く鍛錬という側面も担っている。
下級生の話題に上る程の仲の良さ。それは、偶然にも穏やかな性格の者が集まったことと、他学年にも被害を及ぼすような大きな喧嘩というものがこれといってない故だろう、と八左ヱ門は思った。
仲が良いということに関していえば、忍術学園の生徒は皆、基本的に距離が近い。学年の差はあれども、入学してからは農繁期等の長期休暇を除けばずっと、学園内で顔を合わせている。同学年であれば部屋を同じにする者もある。実の家族よりも長い時間を共に過ごしているそのような環境下の中で、心的にも物理的にも、距離が近くなるのは当然の範疇だろう。
先生方は、同性、忍たま同士であれば、気安く肩を抱き合う者達を見ても、一枚の文書を読むのに顔を寄せ合う者達を見ても、何事もないような風でいる。もっとも、異性のくノ一に対して同じようにしていれば、弁えろ、などと口を挟むかもしれないが。
皆が皆、身内のように同性間の距離が近い学園生活を送っていると、人同士の正常な距離感というのがわからなくなってくる。
──
放課後。五年ろ組の教室の前で、開けた戸に手をかけて顔を突き出し、室内を見渡す人物が一人。五年い組の久々知兵助だ。誰かを探しているらしい。
兵助は教室内を一通り見て、俯いた。目当ての姿はなかった。戸から手を離し、身体を半分、廊下へ向ける。上げた目線の先に見えた人物を認識し、表情がぱぁと明るくなった。
「八左ヱ門!」
兵助が呼んだのは五年ろ組の竹谷八左ヱ門だった。八左ヱ門は、教室の並ぶ廊下の端から、丁度出てきたところだった。兵助の呼び声を聞き、片手を挙げている。
「おー、兵助。なんだ? どうかしたのか」
八左ヱ門は、兵助のもとへと歩みを進めながら訊いた。
「さっき、
兵助は火薬委員会に所属しており、学園内の火薬の使用管理や保管などの業務を担当。八左ヱ門は生物委員会に所属しており、学園内で飼育している生物の世話を焼いている。二人は、六年生の委員長の居ない委員会で、委員長代理を勤めている。
委員会活動中に子猫を見つけた兵助は、その捕獲を、生物の扱いに慣れた八左ヱ門に依頼しようと考えたらしかった。
「なるほどなぁ。ところで、子猫は何匹いたんだ?」
「一匹。乳飲子ってほど小さくないけど、まだ毛がぱやぱやしてた」
「うーん、それくらいだと好奇心旺盛に辺りを散策し始める頃だな……。間違って迷い込んだのかも」
「どうしよう、八左ヱ門……」
「とにかく、焔硝蔵へ向かおう」
八左ヱ門は、眉を下げて不安そうにする兵助の肩へ心配するな、と手を置き、促した。二人は焔硝蔵へ向かって駆け出した。
兵助と八左ヱ門は顔を向き合い、焔硝蔵の分厚く重い蔵戸に耳を立てた。中からは何も物音はしなかった。二人は目で相槌を打つ。
兵助は蔵戸にかけてあったからくり錠を手に取ると、表に見える鍵穴へ、もう片方の手に持った二本の棒鍵のうちの一本を差し込んで捻った。抜き取ると、次に、錠の右横にある鍵穴へ、残りの棒鍵を差し込む。広がっていた板バネが、鍵に押さえつけられて狭まった。鍵を
焔硝蔵では貴重で高価な硝石を材料とした黒色火薬等、様々な火薬を保管しているために、盗難防止を目的として、簡単には開錠できない、からくり錠で施錠している。一見には
兵助は蔵戸を押し開いて中へと入る。八左ヱ門も後に続いた。蔵戸の裏には火気厳禁という張り紙がされている。
壁、天井、床が石造りとなっている焔硝蔵の中は、ひんやりとした空気で満ちていた。少しの肌寒さを感じる。八左ヱ門は、前回の予算会議で、焔硝蔵の中は火が使えないから冬は寒くてたまらない、という理由から甘酒代を予算として
石垣で造られた壁に沿って、コの字の一辺それぞれに四台ずつ横並びに備え付けられた木棚には、火薬壺が整然と並んでいる。
子猫は人の入ってきたことに驚いたのか、壺の間でモゾモゾと身体を動かした。爪を立てたらしく、木を引っ掻くカリ、という音が微かにした。
「まだいるみたいだな」
「そうだね」
八左ヱ門の言葉に、兵助は頷いた。
にーにー、と子猫が鳴く。兵助は八左ヱ門に倣い、片膝を立ててしゃがんだ。斜め前にある少し丸まった八左ヱ門の背中に片手を添えて、子猫の様子をそっと伺う。二人は、焔硝蔵の中に光を入れるため少し開けたままの蔵戸を背にしている。
「怖くないぞ〜」
八左ヱ門は小声で微笑みかけながら、木棚の一番下の段、火薬壺の間で強張る子猫の鼻先へ向けて、下からゆっくりと指を近づけた。近づけた指は無闇に動かさない。
警戒体制で身を伏せていた子猫は一旦鳴き止み、鼻先に差し出された八左ヱ門の指の周りで
「おほー! 鼻息がくすぐったい」
声量は抑えているが、なかなかに興奮しているようだった。
「いまこれ、何してるんだ?」
「手の匂いを嗅いでもらってる。触ろうとして、いきなり、上から手を下ろすのは厳禁なんだ」
兵助は身を乗り出した。八左ヱ門の背に、胸をひたと当てて訊く。
「どうして?」
「ん〜、兵助。自分よりも体格が良くて上背のある知らない人の手が、頭上から降ってくるところを想像してみて」
八左ヱ門は兵助に顔を向け、下級生に話すような優しい声色で言った。
兵助は目を瞑り、八左ヱ門の言った場面を空想した。
「……ちょっと怖い」
兵助の答えに、八左ヱ門は声を立てないで笑った。
「そういうこと。自分より背の低い生き物と接するとき、まずは、敵じゃない、大丈夫だよって安心してもらうことが大事なんだ」
兵助はこくりと頷いた。
指先に温かいふわふわとしたものが触れた感覚がした八左ヱ門は、顔を前へ向き直した。差し出したまま動かさないでいた指先に、子猫が頬を擦り寄せている。首を伸ばして、うりうりと頭部を動かしている。どうやら、匂いを嗅いで警戒を解いてくれたようだ。
「怖くないってわかってくれたのか〜」
八左ヱ門は言いながら、上を向いて目を細める子猫の喉を指先で掻いてやる。様子を見ながら、掻く指を二本三本と増やしていく。もっとして、というように、子猫はゆったりと前足を踏み出して、身を起こした。
「気持ちいいか〜。そうか〜」
頬が自然と
八左ヱ門は、差し出していた手をゆっくりと自身の方へ引いていく。子猫は八左ヱ門の手を求め、後ろ足を上げて立ち上がった。手に引かれるように、一歩また一歩と踏み出す。
「すごい。全然怯えないでこっちへ来る」
そう感動の声を上げて肩を抱いてきた兵助を振り返り、八左ヱ門はへへんと得意気に鼻を鳴らした。
「よしよし、いい子だ〜! おいで」
火薬壺の間を通り、八左ヱ門の掻きを求めて、子猫は木棚からひょっこりと頭を出した。八左ヱ門は床に尻をつけ、胡座をかいた。兵助は肩を抱いていた腕を下ろし、八左ヱ門に半身を向けて、横から両膝を床につけて正座した。
「そのまま登っておいで」
八左ヱ門は子猫の喉元から手を離し、自身の太腿を叩いた。子猫は立ち止まり、八左ヱ門を見上げて小首を傾げた。パッチリとした瞳には少しの躊躇いが見えた。
「安心して? 八左ヱ門は信頼のできる心優しい男だよ、決して君を傷つけたりなんてしない」
子猫の背を押すように、微笑みながら兵助は言う。その言葉は、本心から出たようにあたたかな温度をもっていた。
子猫は兵助を振り向き、にー、と鳴いた。怯えの声ではなかった。わかったよ、と言っているようだった。
八左ヱ門は子猫を腕に抱いて立ち上がる。兵助も続いて立ち上がった。
「この子、どこから入って来たんだろう?」
兵助は八左ヱ門の腕の中で落ち着く子猫を見ながら疑問を投げかけた。
「おそらく……」
八左ヱ門は、焔硝蔵の蔵戸をコの字の開いた部分としたとき、コの字の下線に位置する木棚のおおよそ中央、二台目下段へ身体を向けて指をさした。
「あの通気孔からだろう、はめ網が外れてる」
「ほんとだ。いつの間に……」
八左ヱ門の指さす通気孔は、火薬壺の間で長方形にぽっかりと口を開けていた。子猫ならば楽々と侵入できる幅があった。対面の壁の同じ場所にも通気孔が設けられているが、そちらにはしっかりと銅製の網がはまっていた。
────
兵助は残りの火薬の在庫確認を済ませ、子猫を連れて一足先に自室へと帰って行った八左ヱ門の一人部屋を訪ねた。
沈み始めた夕日は、まだ、空に留まっていた。
「八左ヱ門」
「兵助、入っていいぞ」
部屋の主から入室の許しを得た兵助は、そろりと戸を開け、物音を立てないで部屋に入った。
「ありがとう、助かったよ」
「いやいや、どういたしまして」
八左ヱ門の敷いた座布団の上で、すーすー、と子猫が寝息を立てていた。
「かわいい……」
八左ヱ門の隣に座った兵助は、子猫の寝顔をまじまじと眺めた。時折、耳がぴくりと動く。身体を横に向けて眠る子猫の腹部が、呼吸に合わせて上下する。
「あの後、連れ帰ってから、自由にさせてたんだ。あたりにある虫籠を覗いてみたり、文机の下に入ってみたり。ちょろちょろと部屋の中を見て回ってるなと思って放っておいたら、知らないうちに眠ってた」
ははは、と笑いつつ、八左ヱ門は言った。子猫を起こさない程度に、声量は抑えている。
「そうなんだ。知らない場所に迷い込んで、不安で疲れてたのかな」
「そうだろうな〜」
二人は、子猫を優しく見守りつつ微笑みあった。
「……この子、どうしよう。部屋で飼う?」
兵助は八左ヱ門に訊ねた。
八左ヱ門は顎に手を置き、軽く首を捻る。
「飼えなくはないけど、ただでさえ部屋が狭いから……。それに、どこかで母猫がこの子を探してるかもしれない」
「そっか。うーん」
「とりあえず今日はここで面倒を見て、明日に外へ出してやろうかな」
兵助は八左ヱ門の考えに同意し、頷いた。
明日にはさよならしてしまう子猫との別れを惜しみたい、という兵助の思いを受けた八左ヱ門は、長居する兵助に自室へ帰るようには言わなかった。八左ヱ門は、子猫と向き合うように横たわる兵助に背を向けてしゃがみ、室内で飼育している虫達の餌やりをする。
「ほ〜ら、お前達。ご飯だぞ〜、いっぱい食え」
虫達は、与えられた餌に群がり、小さな口でがぶがぶと食いついた。
「元気でよろしい!」
飼育する虫達の食欲旺盛な様子を見て、八左ヱ門は満足そうに笑った。
「兵助?」
一通りの餌やりを終えた八左ヱ門は、肩口から首を向けて振り返り、兵助の名を呼んだ。
「…………」
兵助からは返事がなかった。八左ヱ門は立ち上がり、結んだ髪を床に垂れ、片腕を枕にし、膝を軽く曲げて横たわる兵助の背後からゆっくりと近づいた。
兵助は目を瞑っていた。胸が静かに上下している。どうやら、子猫の寝顔を見守るうちに、つられて眠ってしまったらしい。
「へいすけく〜ん」
八左ヱ門は兵助の背後でしゃがみ、少しふざけた調子で兵助の名を呼んだ。答えの返ってこないことはわかっていた。ただ、名前を呼んでみたかった。
部屋の格子窓から差し込む陽が、兵助と子猫を暖かな橙色に染めている。八左ヱ門は兵助の寝顔をしばらく眺めた。眠る兵助は、普段よりも幼く感じられた。閉じられた瞼の先で時折、長い睫毛が揺れる。その様子が、なんとも言えないくらいに胸に刺さった。
頬にかかっている横髪を指先ですくい、そっと耳に掛けてやる。ぴくり、と兵助の身体は動いた。
────
部屋の前で足音が止まった。
「八左ヱ門、居るか?」
閉めた戸から、呼ぶ声がする。兵助と同じい組で同室の、尾浜勘右衛門の声だった。
「勘右衛門。どうかしたのか」
八左ヱ門は言いつつ、戸へ向かった。
「兵助見なかった? もうすぐ夕餉だってのに、部屋に帰ってこないし。どこ探しても姿がなくて……って……」
開けられた戸の奥で、横たわる兵助の後ろ姿を八左ヱ門の肩越しに見た勘右衛門は、言い終わらないうちに、驚いたように目を瞬いた。八左ヱ門は眉で八の字を書き、ははは、と笑った。
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