待ち遠しい人

「蛇の君! そう、君!」
 伊賀崎孫兵は、声のする方へ振り返ったまま、立ち止まった。これまで、蛇の子、と呼ばれることはあっても、蛇の君、と呼び止められるのは初めてだった。が、戸惑いはしなかった。首に蛇を巻いているのだから、そう言われても不思議はない。ただ、蛇の君、とは、なんだか源氏物語の登場人物のような響きをもつ呼び方だなと思った。
 孫兵を呼び止めたのは、三年生の制服を着て、よく陽に灼けた肌をした、見るからに快活そうな先輩だった。その人物は、孫兵に追いつくと、いきなり呼び止めたことを詫びて、自分は竹谷八左ヱ門と言うのだと名乗った。
「新一年生に毒生物を好んで飼っている子がいるって、いつも蛇と一緒にいる子だって聞いてさ、話してみたかったんだ。お名前は?」
「伊賀崎……孫兵です」
「孫兵ね、覚えたぞ」
 満開の向日葵のような笑顔を向ける竹谷に、孫兵は内心でドギマギとした。大半の同級生や先生方でさえも、毒蛇を携える孫兵とは一定の距離をとり、腫れ物に触るように接していたので、恐れることなく自ら声をかけ、関わってくれる他人というのは珍しかった。それゆえに、どう応対すればよいのかわからなかった。
 別段、人付き合いが苦手と思ったことはないが、好意的に接してくれる他人との心理的距離感の把握は、経験の乏しさから、難しかった。
 そのような孫兵にはお構いなく、竹谷は竹谷の首元に巻き付いている蛇へ微笑みを投げかけた。
「この子は? 名前はあるの?」
「ジュンコです。……毒を持っていますよ」
「へぇ。女の子なんだ」
 ジュンコはシュルシュルと身をくねらせると、孫兵の片方の肩へ寄った。そのまま、器用に頭を上げて竹谷の方へ近づく。
 毒蛇から距離を詰められると、大抵の人は恐怖心から後退りをする。が、竹谷はジュンコへ懐っこい笑顔を向けたまま、よく見ると可愛い顔をしてる、と語りかけていた。
「はい。……あの、」
「ん?」
「怖くないんですか」
 孫兵は少し迷って、訊いた。
「毒蛇がってことかな? 毒を持っていようとなかろうと、大きかろうが小さかろうが、生物の扱いを心得ていたら怖くなんてないさ」
「そう、ですか」
 竹谷にさも当然、というように返され、孫兵は拍子抜けした。いや、肩の力が抜けた、という表現の方が適切だったかもしれない。
 孫兵は竹谷の言葉によって、ある種救われた。この学園には、生物に対して変な偏見を抱くことなく愛でることができる人が居る。その事実だけで嬉しくなった。
「あ! 大事なことを忘れてた。孫兵は生物が好き?」
 顔を孫兵に向き直し、小首を傾げて竹谷は尋ねた。
 竹谷の中で名前呼びが固定化されたらしかったが、孫兵は少しも抵抗感を抱かなかった。上級生なのだから当たり前だ、と思っている部分もあったが、それとは別に、竹谷の呼ぶ声色に親しみが含まれているというのが大きく作用していた。
「はい。毒を持っていたら、なおさら好きです」
 そう言う孫兵の表情は、初めて言葉を交わしたときよりも幾分か柔らかなものだった。
「じゃあ、生物の世話は好き?」
「好きです」
 その言葉を待っていました、とばかりに竹谷の表情がより一層明るくなった。後光が差しているようだった。
「それならさ、生物委員会に入らない?」
「委員会?」
「まだ説明されてないのかな。この学園には、さまざまな委員会が存在して、各委員会ごとに役割があるんだ。で、その中に生物の飼育、世話をする生物委員会ってのがあるんだけど、どうかなぁ〜? と思って。俺も所属してるんだけど」
 ──花一匁はないちもんめでいつも中盤を過ぎたあたりで指名される僕が、入学早々、委員会に誘われるだなんて。しかも、生物を扱うところに。そこには、僕の居場所があるかもしれない。
 孫兵は少し間を置いた後、首を縦に振った。



────



 あの春から一年ひととせが経ち、新緑にも見慣れ、蝉が鳴き出そうかという頃の放課後。孫兵は、校庭で竹谷の姿を見つけると、小走りで駆け寄った。
 「竹谷先輩! ペットの毒蛾が今晩あたりに羽化しそうなんですけど、一緒に経過観察しませんか?」
 そう、竹谷に声をかけた孫兵の表情は、爛漫、という言葉がぴたりと合うようだった。
 竹谷は急な孫兵の誘いに、パッと明るい笑顔を見せた。が、次の瞬間には、なにかを思い出したように「あ、」と言うと、眉を八の字にした。
「ごめん、孫兵。一緒に見たい気持ちは山々なんだが、今日は高学年野外合同夜間演習があるんだ」
「こうがくねんやがいごうどうやかんえんしゅう」
 孫兵は聞き慣れない言葉に、まっすぐと竹谷を見つめたまま、オウム返しをした。
「そう。俺も初めてのことだから詳しくはわからないんだけど、聞くところによると、四、五、六年生が集まって、戦の状況を想定した実技訓練をするらしい」
 いつもなら、さなぎにとっては一緒で一度の羽化なのに、などと言ってむくれるところだった。が、申し訳なさそうな表情で理由を述べる竹谷を見ているうちに、孫兵の幼い反発心は何処かへ消えた。
「危ないんですか?」
 竹谷と一緒に毒蛾の羽化を見られないことを残念に思い、俯きつつ、孫兵は竹谷の身を案じた。
「さぁ。あまり想像がつかないな」
「そうですか」
「先生方がついてくださる。だから、そんな心配そうな顔するな」
 竹谷は言いつつ、孫兵に目線を合わせるようにしゃがみ、ふんわりと頭を撫でた。

 竹谷と別れ、自室へ戻る道すがらで孫兵は、四年生になると大変な授業が入ってくるんだなぁ、とぼんやり思っていた。
「なんだ? 孫兵、随分と浮かない顔をしてるではないか。そんなことよりも見よ! 輪子と私の美しさを」
 そう話しかけたのは、戦輪の輪子とやらを人差し指でくるくると回しながら三年長屋の方からやって来た平滝夜叉丸だった。滝夜叉丸は、一方の手を回し、孫兵の肩を抱こうとしたが、ジュンコに威嚇され、苦笑をしつつ断念した。
「なんだぁ? ジュンコもご機嫌斜めなのか? 飼い主に似てて嫌なこった」
 孫兵は、ジュンコのことを悪く言われて気に障った。そもそも、ジュンコが威嚇をしたのは危険が迫ったからで、僕に似たわけではない。ジュンコにはジュンコの感情や考えがある。と内心で文句を言った。
「あの」
「うん?」
「危ないので、そのくるくるするのやめてもらっていいですか」
「危ない? 輪子が?」
 滝夜叉丸は片頬の引き攣るのがわかった。
「はい」
「危ないのはその毒蛇の方じゃないのか?」
「はい? ジュンコは戦輪に危険を感じて威嚇しただけです」
 孫兵は聞き捨てならないというように眉を上げ、反論した。
「そうだとしても。毒を持つ蛇なんて常識的に考えて危ないだろう」
「っ……」
 外周全て刃の戦輪はどうなるんだよ、という言葉をなんとか飲み込んだ孫兵は、不毛な喧嘩をしている暇はないと思い改め、きびすを返した。行き先は決めていなかった。滝夜叉丸と離れられたらどこでもいいとさえ思っていた。
「おい! どこへ行く気だ。……っ痛」
 滝夜叉丸に捕まれた腕をもう片方の手で払った孫兵は、裏山へ、と言いかけて振り返った。
 滝夜叉丸は振り払われた方の手を口へつけていた。
 なんだ? と思って見ていると、滝夜叉丸は口から手を離した。
「孫兵、その爪どうにかしたらどうなんだ」
 言われて見てみるが、少し伸びた程度だった。
「なにがですか。そんなに伸びていませんよ」
「自分ではそう思っているかもしれないが、現に私の手は切れた。そんな爪をして大切な生物委員会の生物達と接しているのか」
「戦輪で切っていた傷跡が痛んだだけなんじゃないですか?」
「なんだと」
「ちょっと待った! 今から喧嘩を止める予習をするので少し待ってください」
 険悪な雰囲気な二人の間に割って入ったのは、浦風藤内だった。
「原因はよくわからないけれど、喧嘩両成敗! ……うーん、なんか違うなぁ」
 予習もなにも、つい先ほど二人を止めたというのに、それに気づいていない様子で、島内はあれやこれやと案を出し、一人芝居をしていた。
 滝夜叉丸と孫兵は、呆気に取られて顔を見合わせ、お互いに目で一時休戦を伝えた。



────



 自室へ帰った孫兵は、一目散に蛹の様子を見た。まだ、まゆは破られていなかった。
 よかった、と胸を撫で下ろしたところで、滝夜叉丸の言葉が蘇る。
 ──そんな爪をして大切な生物委員会の生物達と接しているのか。
 孫兵はもう一度、自身の爪を確認した。てのひらの側から見てみると、指先よりも少し伸びている程度だった。決して伸びすぎているということはなかったが、孫兵は葛籠つづらから爪磨つまとを取り出した。

「これは切りすぎだね、深爪だよ」
 孫兵の指先を見て、三反田数馬は言った。医務室の中は様々な薬草や薬品の匂いがするため、ジュンコには部屋で留守番をしてもらっている。
「なにで爪の手入れをしてるの?」
「……爪磨」
「どうりで皮膚に擦り傷があるわけだ」
 消毒したあとに軟膏を塗りつつ、数馬はうんうんと納得していた。
「縦長の綺麗な形の爪をしてるのに、勿体無い。あんまり切りすぎると破傷風になっちゃうよ?」
「次からは気をつける」
 孫兵は、申し訳なさそうに目を伏せた。
「痛むだろうけど、伸びるまで我慢だね」
 そう言いつつ、数馬は救急箱から細めの包帯を取り出し、孫兵の指先に丁寧に巻いていった。
「……なんかあったの」
「ちょっと、滝夜叉丸と口喧嘩になって。腕を掴まれたから払ったら、僕の爪のせいで手が切れたって。そんな爪で大切な生物達と接しているのか、と言われて」
「あぁ〜……」
 根が真面目で純粋な孫兵はその言葉に感化されてしまったのだ、と、数馬は直感した。
「そんなの、気にしなくていいよ。孫兵はいつだって生物に危険のないよう、ちゃんと手入れしてたろ?」
 巻き終えた包帯を救急箱にしまいながら、数馬は言った。
 こくりと頷く孫兵は大人しくて、なんだか心が痛くなる。どうしたらいいものか、と思っていた数馬は、ある物を思い出して懐に手を入れた。
 目の前に差し出された数馬の掌に乗った四葉の緑を見て、孫兵は顔を上げた。
「……これは?」
「薬草を採ってるときに見つけたんだ。あげるよ」
 ふわりと微笑む数馬につられ、孫兵の表情は明るくなった。
「ありがとう」



────



 たんころのぼんやりとした灯りが室内を照らしていた。孫兵は夏用の薄い布団を被り、手に顎を乗せて、虫籠を観察している。
 虫籠には、椿の葉の合わさったものが中央に置かれてある。よくよく見ると、葉の間に毒針毛のたくさんついた鳥の卵のような繭があり、ひくりひくりと動いていた。孫兵の予想は的中したようで、もう間もなく羽化が始まろうとしていた。
 踊る胸の内には、竹谷と羽化を見られない寂しさを秘めていた。仕方のないことだとわかっていても、感動を分かち合えないということに物足りなさを感じてしまう。
 ──先生方がついてくださるとは言っていたけど、竹谷先輩、怪我とかしてないかな。
 毒生物好きな孫兵に対して、それなりの理解を示してくれる人は増えたが、知識や愛を語り合えるのは竹谷しか居らず、唯一の存在だった。ので、もしものことがあれば、と思うととても不安だった。
 繭が次第に開かれていき、成虫の頭が覗く。そのまま這い出すと、繭の外側で留まった。は黒褐色をしている。おすだった。
「おはよう。君は今日からジュンだ」
 孫兵は、羽化したばかりの毒蛾に向かい、微笑みつつ、名を授けた。雄ならジュン、めすならネネと、あらかじめ決めていた。
 どうせならつがいで飼い、雌雄しゆうの差などを観察したい。毒蛾の繭はもう一つ所持していた。今度はネネと名付けられたらいいな、孫兵はそんなことを考えていた。

 無事に羽化を見守れた達成感からか、孫兵の瞼は次第に落ち、とろんとした目になっていた。高学年が忍たま長屋に帰って来た気配は、まだない。合同演習はそんなに長い時間するものなのかと思うと、高学年者たちが忍者への階段を着実に登っているような気がして、尊敬すると共に、少しの焦燥感が起こった。
 竹谷は孫兵よりも二年早くこの学園を去ってしまう。が、卒業するまでの間も、卒業してからだって、先輩後輩の縁は残る。そう気がつくと、胸の内が穏やかになった。
 ──羽化したことも、深爪したことも、四葉の緑に励まされたことも、帰ってきたら話しますね。
 放課後に頭を撫でてくれた竹谷の掌の心地よさを思い出しつつ、孫兵は深い眠りへ落ちていった。
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