――嵐が通り過ぎたと思った。
先程までの記憶を反芻しながら、ぼんやりと作戦室の出入り口を見つめる。だが、思考がついていかない。何が起こったのか、まだ頭が理解しきれないでいる。いや、もしかしたら理解を拒否しているのかもしれない。
「新たな貴銃士が目覚めた」と恭遠さんに呼ばれたところまでは、はっきり覚えている。
貴銃士を呼び出す力を使った私は若干の眩暈を覚え、自室で休んでいたところだった。だが、その知らせに休んではいられないと部屋を出て――そう、作戦室に到着したところで、声をかけられたのだった。
『そこの君! 今、
シエラという名の人物を探しているのだが』
見慣れない顔だった。大きな山形帽の下で、炎のような赤毛が揺れている。佇まいは堂々としていて、威厳のようなものさえ感じた。
きっと、彼が。直感的にそう思った。
そうだ。今日貴銃士にすべく呼びかけた古銃は、とても由緒あるものだった。ストックに刻まれた王冠と「N」のモノグラム。知らぬ者などこの世にいない、偉大な英雄のもとにあったショットガン。
だから、名乗ったのだ。私があなたを呼んだのだ、その呼びかけに応えてくれて嬉しいと、そう告げるはずだった。
だが、彼は。名乗った私に笑顔を向けて、驚くべき一言を返したのだった。
『名乗らせていただこう! 余は、ナポレオン・ボナパルトである!』
――それからの記憶は曖昧だ。
何しろその自己紹介を噛み砕くことに苦心し、彼の言うことは耳には入っていたものの、半分も聞いてはいなかった。
彼はそれに気付いていたのかいなかったのか、どちらにせよ呆けていた私のことなど気にしていない様子で、ほぼ一方的に喋っていたが。
そういえば、この基地に来てから話を遮らなかったのは私だけだと言っていた気がする。違う、静聴していたわけではなくて、呆気に取られていただけだ。挟むべき反論が、見つからなかっただけなのだ。
なのに、彼は何だか満足した様子で――皇帝の前で如何に振る舞うべきかを弁えているとしきりに頷いて、去って行った。
未だに何が起こったのか分からない。
彼は、一体何だ。
新たな貴銃士だとばかり思っていたけれど、そうでは、ないのだろうか。
少しましになっていた眩暈が、また振り返しそうになる。思わず額を抑え、その場に蹲りそうになった私を、鋭い声が引き上げた。
「マスター! こちらにいらっしゃったのですね」
「……ラップ、さん」
赤い双眸が、こちらに向けられている。力無い声で彼の名を呼ぶと、彼――ジャン・ラップ将軍の名を冠した貴銃士は、深く溜息をついた。
「その様子ですと、もう“彼”には対面されたようですね。申し訳ありません、私から先に説明出来れば良かったのですが――」
「彼は――あの人は、一体何なのですか」
動揺のあまり、糾弾するような声音になってしまう。ラップさんに当たったところで、どうなるわけでもないのに。
だが、彼は私を責めることなく、眉間に皺を寄せて絞り出すように言った。
「貴銃士ナポレオン。フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの所持していた銃から生まれた、れっきとした貴銃士です。
もっとも、彼は自身を、ナポレオン・ボナパルトそのものだと思っているようですが」
その回答に、全身から血の気が引いた。
どうして。そんなケース、初めてだ。これまで何人か貴銃士を呼び覚まして、中には偉人が使用した逸話を持つ銃も何挺かあった。けれど、みんな貴銃士だという自覚はちゃんとあって。一体、何が原因で。
「……私のせい、でしょうか」
引き攣った唇の端から、そんな言葉が零れ落ちた。
「マスター、何を」
「私が、呼びかけの際に何か失敗したんでしょうか。だから、彼の記憶と自意識に何かが起こって、貴銃士として不完全な状態に……」
「マスター」
呆然と語る私の肩を、ラップさんの両手が掴む。虚ろになりつつあった意識は、それで少しだけ浮上した。
「マスター、あなたのせいではありません。彼は自分のことだけではなく、私のこともジャン・ラップ将軍その人だと思い込んでいる様子でした。自意識がどうのというよりも、とんでもなく思い込みが激しい性質なのでしょう。おまけに、何度説明しても人の話を聞きはしない。私も恭遠氏も、一応話はしたのですが」
そういえば、確かに「貴銃士がどうこうと、訳の分からない話をされた」と彼は憤慨していた。
しかし、己への疑念は晴れない。この状況が自分のせいかもしれないなら、どうにか彼の誤解を解きたい。
その旨を伝えると、ラップさんは再度、眉根を止せて息を吐いた。
「それは困難でしょう、マスター。何しろ、彼には本当に、自分にとって都合のいいことしか聞こえていないんです。ならばもう、あの勘違いにこちらも付き合うしかないでしょう」
つまり、それは。
「――真実を、隠すのですか」
思わず、声が震えてしまう。
その選択はあんまりではないだろうか。自己認識を誤ったままなんて、彼が不憫すぎやしないか。
八つ当たりのような先程とは違い、今の言葉は紛れもない糾弾だった。ラップさんも、それを分かっているのだろう。彼は切れ長の瞳を、僅かに伏せた。
「隠したくて隠すわけではありません。現状、そうするしかないんです。私もあの勘違い貴銃士に付き合うのは癪ですが、副官として振る舞い、世話をするつもりでいます。
だから、どうかあなたも――彼をナポレオン・ボナパルトとして扱っては下さいませんか」
ああ、眩暈がする。
ラップさんの言うことは理解出来る。彼が、何の考えもなしに言っているのではないことも分かる。
分かるけれど、でも。今ここで頷くことが、どうしても私には出来ない。
「……彼と、もう一度話をしてきます。その上で、どうするか答えさせて下さい」
ラップさんにそう告げて、私は作戦室を出た。
*****
目当ての人物は、すぐに見つかった。大きな帽子と赤い髪は、後ろ姿であってもよく目立つ。
シャワー室の前で何やら考え込んでいる様子の彼に声をかけようと思い、そこで一瞬私は躊躇した。
自分のことを、ナポレオン・ボナパルトだと思い込んでいる彼。何と呼びかけるべきなのだろうか。気軽に名前なんて呼んでは、不敬だと叱責されるかもしれない。
なら、これしかないだろう。
「――陛下」
私の声で、湖水のように青い双玉がこちらを向く。私の姿を写すと、大きな瞳は猫のように細められた。
「おお、
シエラ! 何用かね?」
意外だ。名前を覚えてくれている。落ち着きがあると言い難い皇帝陛下は、私のことなどもう忘れているかと思っていたのに。
そんな他愛ないことで微かな喜びを覚えてしまい、気を取り直して、彼の目に向き合う。
「先程は満足なご挨拶も出来ず失礼致しました、陛下。皇帝陛下にお目文字出来るなど初めてのことで、少々気が動転しておりました」
スカートの裾を摘み上げ、深々と膝を折ってみせる。
ああ、主よ、お許し下さい。こんな嘘八百を並べ立てることが出来る人間だったなんて、私が自身に一番驚いております。
思ったとおり、彼は私の態度に気を良くしたようだった。ふふん、と得意げな笑い声が、頭上から響く。
「なに、この高貴さを前にして平静でいられないのは当然だ。気にすることはないぞ。余は寛大であるからな」
「有難き幸せに存じますわ、陛下」
教会にいた頃、子どもたちのごっこ遊びに付き合っていたのと同じだ。彼は皇帝が演じるなら、私は忠実な臣下になればいい。
思い込みなんて、きっと長くは続かない。真実は、遅かれ早かれ彼の知るところになるだろう。ならば、今のところはラップさんが言うとおり、これが最善なのだろうか。
何にせよ、彼にはこの基地で生活してもらわなくてはいけないのだ。
「敷地の中を、ご覧になっていたのですか? よろしければご案内致しましょうか」
「いや、結構。もう一通り見て参ったところだ。君たちのことについても、ラップや恭遠から大体の話は聞いている」
もう、そんなことまで。内心で密やかに、その行動力に感心する。
そうか、ナポレオン・ボナパルトだから、指揮官としての務めを全うせねばと思うから、彼は動くのか。
どうしよう。彼の行動力が思い込みに裏打ちされたものだというなら。
簡単に「違う」とは言えなくなってしまう。
「物資や武器、火薬の貯蔵状況も見せてはもらったが――なあ、
シエラ。言いにくいが、この基地は」
「ええ。何も、ございませんでしょう」
笑んだ私に、「むう」と陛下は妙な声を出した。
そう。今この基地には、何もかもが足りていない。幸い飢えない程度の食料はあるものの、火薬や人員は明確に不足している。頼みの綱である貴銃士、つまり古銃の探索も、満足に進んでいないのが正直なところだ。
だから、必要なのだ。彼が。
「今の状態では、お世辞にも勝ち目があるとは言えません。だから、あなたたち貴銃――いえ、あなた様の力を貸しては頂けませんか、陛下」
改めて乞う。他の何が誤りでも、その願いだけは紛れもない真実。
あまりにも身勝手な願いだとも思う。あなたが何者でもいいから、協力だけはしてほしいと言っているも同然だ。
だが、彼は。見上げる私に向かって、あまりにも優しく、目尻を綻ばせた。
「君のような女性に頼まれて、否と言える男がいたら見てみたいものだな」
手袋に包まれた大きな手が、不意に左の頬を撫でた。
それが彼の手であることに気付き、途端に肩と心臓が激しく跳ね上がる。「わわ」と気の抜けた声を上げ、たたらを踏むような足取りで二歩程後ずさった私を見て、陛下は愉快そうに「はは」と笑った。
からかわれている――のだろうか。思わず警戒心の篭った目で、じっとりと見上げてしまう。
だが、何が面白いのか、陛下は相変わらずにんまりと笑みを浮かべていた。
「いや、すまぬ。君は初心なのだな。うむうむ、女性はそうあるべきだ。やはり君は好ましいぞ」
「陛下、やっぱりからかっておいでですね……」
「何を申すか。まあ、君がそう思うのなら、今日のところはそれでも構わんがな」
……この人、やっぱり何を考えているのか分からない。大量の疑問符を脳裏に浮かべている間に、右手が掬い上げられる。先程と同じ、大きな手によって。
「手袋を外しても?」と尋ねられ、何となく私は、そのまま頷いてしまった。即座に指先からするりと引き抜かれたそれを見て、何故かひどく、恥ずかしいような気持ちになる。顕になったのは、手首から上だけなのに。
「この基地の要は、君だと聞いた。物言わぬ銃から貴銃士なる存在を生み出せる“マスター”は、君だけなのだと」
「確かに、貴銃士を呼び覚ます力を授かりはしました。……でも、私は、正直まだ何も分かっておりません」
それは事実だ。何故古銃から貴銃士たちが生まれるのか、彼らの存在や能力は一体何なのか、私はまだ何も把握してはいない。何しろ、今こうして手を取られ会話をしているあなたがどうしてそんな思い込みに至ったのかさえ分からず、難儀している有様なのだ。
だが、私の言葉に、陛下は「そうか」と深く頷いた。
「ならば、彼らが何であるのか、私も共に考えよう。この戦に勝つには、彼らの力を解明し、使いこなすことが重要なのであろう?」
それは、滑稽な台詞だったのかもしれない。
共に考えるも何も、あなたこそが紛れもないその貴銃士なのに。
だが、不思議な程にその言葉は私の中に染み込んでいった。
そう。分からないことだらけで。不安ばかりで。
嘘でもそう言ってくれる人を、私は心のどこかで待ち望んでいた。
これは、駄目だ。
私は完全に、絆された。
「
シエラ――必ずや君に勝利を」
右手の甲に、陛下の唇が押し当てられる。
再び真っ赤になった私を見て、口付けをしたまま、陛下は口の端を吊り上げた。
この日のことを、私はこの先何度も思い出すことになる。
ただ、今はそんなこと知る由もなく。
私たちの何かは、静かに始まりを告げたのだった。
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お題配布元→
Kiss To Cry様