nocturne
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明朗な声が、艶めいた空気を打ち破る。
瞬間、ナポレオンは驚異的な速度で女の柔肌から飛び退き、何事もなかったかのようにベッド脇の椅子へ舞い戻った。しかし、内心焦っているのは首元まで朱を注いだ様子からも明らかで、同様にシエラもベッドの上で早鐘を打つ胸を押さえていた。まだ着衣が乱れていなかっただけ幸いだったと言えよう。
そんな二人の動揺など知る由もなく、快活な乱入者は迷いのない足取りでシエラの元に向かい、驚きに丸くなったその目尻を親指の腹で撫でた。
「どうしたんだよ、目ぇ真っ赤にして。泣いてたのか? ナポレオンに泣かされたのか?」
「失敬な! 私がシエラを泣かせるわけがなかろう! 突然やって来た上に随分な言い草だな、ユキムラ!」
全く何のつもりだ、大体こんな夜半に婦女子を尋ねるなど不埒にも程があるではないか。腕組みをしてぶちぶちとぼやくナポレオンに、ユキムラは唇を尖らせる。
「何だよ、こんな時間にここにいるのはお前も同じじゃねーか」
もっともな言い分だと、シエラは一人苦笑した。
私は良いのだ特別だと、尚もナポレオンは喚いていたが、ユキムラはまったく聞いていない様子でごそごそと服のポケットを探る。
「あの……ユキムラさん、何かあったのですか? 今日はユキムラさんもお疲れでしょう」
「俺はへーき。夜中にごめんな。でも俺、シエラに渡さなきゃいけないものがあるの思い出して」
「私に?」
「もっと早く渡せば良かったんだけど、すっかり忘れててさー。ようやく思い出したから、また忘れないようにって思ったら居ても立ってもいられなくなって……あった!」
ようやく探り当てた何かを握りしめた右手が差し出される。
「シエラが捕まってた部屋の棚にあったから持ってきたんだ。これ、シエラのだよな」
そう開かれた掌を見て、シエラは呼吸を忘れた。
光を反射して輝く銀色の輪。何か特徴があるわけでもない。自分の名が書かれているわけでもない。「ごっこ」の結婚式で使った安物の玩具だ。
それでもそれは、自分にとっては最も尊く、大切なものに違いなかった。
「指輪……」
自分の手の中に戻ってきたそれを見て、ぽつり、シエラは口を開く。想いは胸の中にこみ上げてくるのに、そのどれもが言葉として紡げない。それを代弁したのは、一筋瞳から流れ落ちた涙だった。
さっきまであれだけ泣いていたのに、まだ枯れないものかと自分に感心する。その間にも涙は一筋、二筋と増えていき、喉は再び嗚咽を漏らした。
「えっ、シエラ、どうした!? どっか痛いのか!? 俺、なんか悪いことしたか!?」
「悪いことなどあるものか! でかしたぞユキムラ!」
目を丸くして焦るユキムラの背を、ナポレオンの手が強打する。「痛って!」と叫ぶその声に、ようやくシエラは少し笑った。
「陛下の仰るとおり……悪いことなんて、とんでもないです。これ、本当に大事なもので……もう返って来ないだろうと思って、落ち込んでいたところだったんです。ありがとうございます、ユキムラさん」
涙を拭いながら頭を下げる。するとユキムラは、我が事のように破顔した。
「そっか!良かった!もう失くすなよ!」
そうして、二人とも早く休めよ、と言い残し、ユキムラは去って行った。
再び、喧騒が消えた部屋の中。その空気を破ったのは、「彼にも何か礼をせねばなるまいな」というナポレオンの一言だった。
確かにそうだ。ユキムラは何が好きだっただろうか。本当ならばイエヤスを打ち負かすための加勢が出来れば一番喜ぶのかもしれないけれど、さすがにそんなことは出来ないから――
考えてはみるものの、思考がまとまらない。それもそのはずで、シエラの目蓋はとろんと半分落ちてきていた。ただでさえ今日は色んなことがあった上に、先程までずっと泣いていたのだ。疲労が極限に達している上に、張っていた気は今や一気に緩んでしまっている。
まるでうたた寝を我慢する幼子のような様子を見遣り、ナポレオンは小さく笑った。
「ユキムラの言うとおりだな。君はもう休みたまえ、シエラ」
「え……」
柔らかな手付きが、女の体をベッドへと横たえる。咄嗟に漏れたのは、困惑の色に染まった声だった。
だって、それじゃさっきまでと話が違う――
しかし、己の短い言葉が何を意味するのか思い至り、シエラはすかさず己の口を手で抑えた。顔は、耳や首に至るまで鮮やかに紅潮している。
その、一人狼狽える様子が余程おかしかったのか、ナポレオンは「ははっ」と笑い声を上げ、シエラの頭を撫でた。
「正直、実に残念ではあるが――君の体調が万全になったら、存分に付き合ってもらおうではないか」
だから、今宵はもう眠りたまえ。優しい声が、頭を撫でる大きな手が、シエラの眠気を深めていく。
ああ、次に本当に一夜を過ごす時、果たしてどれだけ情熱的な事態になるのだろうか。一抹の不安と期待が胸の内に生まれたが、それらは口にする前にぼんやりと溶けていった。
「陛下、もう少しだけ……」
お傍に、と。続くはずだった言葉が途切れる。代わりに聞こえてきたのは、安堵に満ちた穏やかな寝息だった。
「――ああ、ここにいる。お休み、私のシエラ」
眠る女の掌から指輪を受け取り、左手の薬指に通す。そのすぐ下、薔薇の傷跡を覆う包帯へ、ナポレオンは唇を寄せた。僅かな悔恨と、溢れんばかりの愛を触れた場所から注ぎ込む。
白い頬に残った涙の跡をもう一度指の腹で拭い、皇帝の名を冠する貴銃士は自身も欠伸を噛み殺し、満足げに笑んだ。